Day01 傘
雨音は規則正しく、レイニーのさす傘の上で微かに跳ね回っていた。
やがて、その粒が大きくなった。ぼた、ぼたっと傘の地に水の球が転がって、そして静かに落ちていった。
レイニーはそれを合図に、傘を閉じた。軒先の下に入ったのだ。
顔を上げると、鼻先に涼やかな水の香りが触れた。
「今日はずいぶんな雨ですね。レイニー・デイ様のお名前通りの」
「フフ……だからでしょうか? 私、こうして雨の日に外を歩くのが、好きで……」
レイニーが畳んだ傘を、隣からそっと受け取る人影があった。栗鼠のような尻尾を持つ、腰を曲げた、背の低い老婦人だった。彼女はレイニーの傘を傘立てに立て掛けると、手に持ったタオルで彼の体を拭いてやろうとした。しかし、未だ路地へと顔を向け、静かに流れ落ちる雨の音に耳を澄ましているかのようなレイニーの体は、ほんの少しも濡れていないかのようだった。
「おや……魔法ですか? すいませんね、てっきり濡れ鼠になってるんじゃぁないかと……」
「お心遣い、ありがとうございます」
栗鼠の老婦人に丁寧に頭を下げて、レイニーはゆっくりと振り返った。
黒く長い髪が、その動きに伴ってさらりと揺れた。彼は両瞼を固く閉じていたが、顔の向きは老婦人へと正確だった。彼は視力を持たない。しかし、その感覚や、周囲の状況を察知する能力は、確かであるようだった。
「風をほんの少し、纏いました。雨の日は好きですが……風邪を引いて喉をダメにしてしまうわけには、いきませんから」
それは確かに、ですねぇ。老婦人は笑いながら頷いた。
「カナリアの悪魔であるレイニー様の歌声を、みんな楽しみにしておりますものねぇ」
そう言って頂けますと、嬉しいです。レイニーは朗らかに笑いながら答えた。
◆
月。かつては人類に『夜見(黄泉)の国』と呼ばれた場所。
地球から仰ぎ見た、カタチを変えゆく白銀の反射光。細く衰えていく死の印象と、再び丸く膨らんでゆく再生の印象。人々は月の不死を見て――やがてそこに、死者の魂の流れゆく先、という幻想を、当時の人々が抱いた。
……今、その幻想は現実となった。
魔王アッシュ。地上を滅ぼし、破壊し抜いたその男は、廃墟と化した地上を捨てて、月へと昇った。
そして自らの息吹から眷属たる悪魔達を生み出し、また彼らが暮らすための領域――魔界を造り上げた。
自らの手で地上を滅ぼしたというのに、造り上げた魔界は、地上の有様そっくりだった。
甘く香る四季の自然。刻々と変化する天気。フィルター状の防護壁に投影された朝夕の光。そして透過されて覗き見える宇宙は、より果てに近い夜の姿。
悪魔達は皆、何らかの動植物の姿を模している。それはアッシュが拾い集めた地球の記憶のカケラなのだろうか。
「ここは平穏。変化はなく、進化もないけれど、不満も不服も生まれ得ない。ここは君達の為の王国だよ。……まるで、天国みたいだろう?」
そう、魔王は悪魔達に優しく告げた。
彼がどうして地球を滅ぼしたのかは分からない。何故せっかく地上を離れて移り住んだ月で、かつての美しかった頃の地上の真似事をしているのかも分からない。
今は生き残り達が辛うじてしがみ付いているだけの、青く錆び付いた地球で死んだ人間の魂は、月光に絡め取られるように、月魔界へと吸い上げられる。
その魂を魔力源として、今日も月魔界は銀色に輝く。
それが、この月と地球に存在する、新たなサイクルだった。
……かつて、ただ天に座するばかりだった天体は、地球にとって恐ろしい、『輝ける巨大な目』となっていた。
◆
「……して、レイニー様。こんな小汚い店に何の御用で? お城で何か必要ですか?」
栗鼠の老婦人はそう喋りながらも、ゴソゴソと店の奥へと入っていく。
ここは骨董品店『穴蔵荘』。かつての魔王戦争や抵抗戦争当時に、アッシュの本体が取り込んだ大量の土砂や瓦礫の山から発掘された骨董品や、壊れたアーティファクト等が所狭しと置かれていた。品物はどれも綺麗に磨かれ、整備されてはいるが、とにかく物が多すぎるのだろう。注意して歩かなくては、あっという間に倒してしまいそだ。
「いえ、今日は、個人的に……この前、私の部屋に遊びに来たクエスションに、あんまりにも殺風景すぎると言われてしまったもので」
レイニーの足取りは猫のように柔らかだ。スルスルと、少しの乱れもなく、品物と品物の間を通り抜けていく。
「何か、音の出るものや、香りを楽しめる物を探しています」
「はいはい。それでしたらねぇ、丁度楽器が見つかって……ああ、どこにいったかしら。もしかしたらもう売っちゃった?」
老婦人の足元で何かがぶつかって、もう! と尻尾で軽く床を叩くような音がした。彼女の背中が遠ざかる気配を感じながらも、レイニーは感覚をそばだてて、周囲に何があるかを探った。
つぎはぎだらけの、丸い壺のようなもの。古びた棚のようなもの。今となっては本来の使い方もわからない、謎めいた形のもの。他の悪魔達にとっても変わった店ではあったが、レイニーにとってはまるきりの未知に満ちた、心躍る場所だった。
(花瓶、という選択肢もあるでしょうか。花をいければ、芳しい香りを楽しむこともできるでしょうから――)
いや、それならば室内で植物を育ててしまう方が――そんなことを考えながら歩いていたレイニーの鼻先に、何か、不思議な香りが触れた。
「う~~ん、すいませんねぇレイニー様。どうやらもう売ってしまったみたいで……おや?」
じっ、と掌の中の何かを見下ろしながら佇むレイニーに、老婦人は目を白黒させた。
「あの……レイニー様。その香炉が何か……?」
余程集中していたのだろう。レイニーはそうして声を掛けられたことで、ようやく老婦人へと振り向いた。
「すいません、勝手に失礼致しました。……これは、香炉なのですね。通りで、不思議な香りがすると……」
レイニーは、白い両手の上に丁寧に載せた、その黒く分厚い小さな壺の表面を、そっと指先で撫でた。そこには何らかの模様や文字が刻まれているかのような、鈍い凹凸があった。しかしその内容までは分からなかった。
「はぁ、まぁ。いえ、実際は何なのか、よく分かっていないのですよ。でも、中に灰のようなものが詰まっているらしくてですね、それが何やら香るようで……それで、一応は香炉として、売らせて頂いております」
「こちらを、ください」
「はいはい、ではお代を……って、ええっ? いいのですか?」
「? 非売品、でしたでしょうか……?」
いいえ、いいえ。むしろありがたいことですよ……と、老婦人は手早く油紙でその香炉を包み、レイニーからコインを受け取った。
「そのぉ……長年ずぅっと、売れ残っていたものでしてねぇ。私もすっかり忘れていたくらいで……でも、きっとこれも、何かの縁でしょうねぇ」
「ありがとうございます。大切にさせて頂きますね」
老婦人は店の出口まで、レイニーを見送ることにした。傘を差し出そうとして、おや、と呟く。
「もう、すっかり上がってますねぇ。天蓋が真っ赤ですよ」
「夕暮れ……光が和らいでいますね」
レイニーもまた、小さく呟いた。見上げた面に赤い夕映えがサッと射した。
彼は改めて頭を下げながら、その小さな香炉と傘を抱えて、去って行った。
「…………」
老婦人は、尻尾をぱたんぱたんと動かしながら、腕組みをしながらその背中を見つめていた。
「あの香炉……本当に、いつからあったのかしら」
そもそも、本当に香炉なのかしら? 何となくモヤモヤするような疑問が、そうして彼女の胸の中に去来したが――
「まぁ、いいか。レイニー様も喜んでいらっしゃるし!」
と、サッパリとした笑顔と共に、すぐに霧散してしまった。
(終)
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