第5話「己の役割」

 慶長五年六月、徳川家康は会津の大名、上杉家に謀反の疑いありと諸大名に征討の命を出した。秀吉亡き後に各地の大名は、圧倒的な力を持つようになった徳川家康に従う者と、これを認めない豊臣恩顧の者らによって二分されていた。各地で燻り続けた火種はこれをきっかけに燃え広がる。会津へ向かう家康の背後を突き、石田三成が畿内で挙兵、東進したのだ。家康はすぐさま上杉討伐を奥州の伊達家に任せ、自らの軍を反転。両者は関ケ原へと軍を進める。

 秀秋のもとに急使が届いた。

「秀秋様、吉川広家様がお見えになっております」

「通してください」

やがて広家が息を切らして秀秋のもとへ現れた。

「秀秋、やっぱり輝元様は三成の方に付くみたいだな」

「そうですね。輝元様や恵瓊が、急進的な徳川に付くはずもありませんから」

「なら、俺たちは……」

「徳川に付く、ですね」

「俺は構わねえ、俺が負けても吉川が滅びるだけ、毛利家は存続する。俺が勝っても、味方したことを条件に毛利を存続させるよう、徳川に話は付けてある。だが秀秋、豊臣出身のお前まで徳川に付く必要は……」

秀秋は冷たく笑った。

「そう、私は豊臣家の血の者。三成に味方するが道理と世の者達は思うでしょう。それを逆手に取るのです。私は三成方と思わせ、実は徳川方に内通している。そうなれば油断していた三成らは総崩れとなるでしょう」

「ああ。けどよ、そうすればお前は立場上、裏切り者になる……わかってるのか?」

秀秋は嬉しそうに広家を見つめた。

「もちろんですよ。私が裏切り者として誹りを受けるのは当然のこと。……ですが、隆景様は、父上はおっしゃいました。自らの役割、決断……。それは今、我が父上が守ろうとした物を守ること。それが小早川秀秋としての役割です」

「……わかった。俺たちで毛利を守る。俺たちの役割、果たそうぜ」

「それと……。お前、隆景叔父上に似てきたな」


 慶長五年、松尾山。一人の若い将が霧の立ち込める関ヶ原を見下ろしていた。若い将のその冷たい目は静かに一つの陣を見据えていた。

「重元、わかっていますね」

彼は傍に控えていた老将に言った。だが老将は髭を撫でながら厳しい顔で関ヶ原を眺めていた。

「しかし、殿。宇喜多、小西、島津……、未だ見えませぬが立花、東では上杉や真田も三成に味方していると聞いております。この軍勢では、やはり三成めについた方が……」

若い将は冷静に老将の言葉を遮った。

「いや、それには及びません。我々は当初の約定通り、徳川殿にお味方しましょう」

「しかし……」

「黙りなさい」

若い将は冷たい笑顔で老将を見つめた。

「それでは殿は……」

「黙れと言ったはずです、重元」

「……はっ、承知いたしました」

老将、松野重元は静かにその場を去った。若い将は空を見上げ、手を伸ばした。

「……さて、義父上。見ておられますか? これが私の、小早川秀秋の役割ですよ」

秀秋は采配を豊臣方の将、三成の友人である大谷吉継の隊へ向けて振り下ろした。

「全軍、眼前の大谷吉継隊へ向け進軍せよ! 敵は三成です!」

吉継は秀秋の動きを察知したのか、すでに秀秋隊への警戒をしていた。

「小早川秀秋……。貴様、秀吉様の甥でありながら……裏切るか」

吉継の憎しみを込めた言葉に、秀秋は冷静に返答した。

「吉継殿、その素早い動き……。まるで私が徳川に内通していることを知ってここに布陣したように思えますが……」

「ああ、貴様が妙な動きをしていたようでな。正解であった」

言葉の中に強い怒りを感じる吉継とは裏腹に、秀秋はなおも冷静に続ける。

「吉継殿は太閤様に、百万の軍勢を預けても良いなどとおっしゃられるほど聡明な方であるとお聞きしています。ですのに、どうして……」

「この時勢で三成に付いた理由か。貴様には無いものだ。豊臣を裏切った貴様にはな」

秀秋は笑った。

「友情、信頼、義……。そのようなもので己の役割を全うできると?」

「役割だと?」

「ええ。父上から教わりました。自ら心に決めた己の役割を全うする……。押し付けられた役割である豊臣の養子ではない……小早川秀秋として」

それを聞いて吉継は笑った。

「ふふ、貴様は何か思い違いをしているのではないのか?」

「思い違い……ですか?」

「貴様は豊臣の世継ぎであることを押し付けられた役割と言った。だが貴様が言った己の役割、小早川の家も隆景殿に押し付けられた役割ではないのか?」

吉継の言葉に秀秋は初めて言葉を荒らげた。

「なっ、黙れ! 父上を愚弄する気か!」

「図星であったか。いいことを教えてやろう。貴様と貴様の父のせいでかつての小早川家の世継ぎ、小早川秀包殿は小早川家当主の座を失った。貴様はかつて貴様にされたことを他人にしていたのだ」

「まだ……まだ父上を愚弄するか!」

そのとき、吉継のもとに伝令が現れた。

「申し上げます、朽木、脇坂らの部隊離反! 我ら大谷隊へと進軍を開始した様子!」

豊臣方であった将が次々と徳川方へと寝返ったのだ。吉継は空を見上げ、脇差を取り出した。

「もはやこれまで。大谷刑部吉継、先に参る」

そう言うと吉継は脇差を腹に差し、側にいた兵に介錯を頼んだ。

「待て! 吉継!」

近づく秀秋を吉継は見て、恨めしそうな目で睨んだ。

「獣のように目の前のことしか見えぬ愚か者よ。徳川の世で、貴様は生き残れぬ」

「貴様ああぁ!」

秀秋は斬りかかろうとしたが、家臣の制止により松尾山本陣へと退却せざるを得なかった。

「終わった、か……」

その後も徳川方へと多くの武将が離反。三成は捕らえられ、処刑された。ただし毛利家は西軍に与したものの、広家の働きによって恵瓊の処断と周防・長門二ヶ国への減封に止まった。

 一方で翌年、秀秋は岡山城へと移った。加増ではあるものの、戦中の秀秋の行為は突然の裏切りとみなされ、世の評価は高くは無かった。

「父上……。私は……。間違っていたのでしょうか……」

秀秋は隆景の木像を見て静かに呟いた。

「役割を全うできたのでしょうか……」

 慶長七年十月十八日、秀秋はわずか二十歳でこの世を去る。小早川家は跡継ぎが居なかったことから改易され、その歴史に幕を下ろした。

 彼の死後、ねねが秀秋を忍んで描かせた肖像画は、短い生涯の中、迷い、そして悩んだ若き秀秋の姿を現代にまで伝えている。

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小早川秀秋伝 雪野スオミ @Northern_suomi

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