第2話「己の居場所」

 聚楽第での宴も成功に終わり、秀吉は順調に力を拡大していた。天正十八年に小田原の地で北条を降すと、翌年、甥の秀次に関白の座を譲り太閤となる。この頃、辰之助は元服し、豊臣秀俊と名乗っていた。

 秀俊は近頃、酒を好んでいた。たびたび酒を飲んでは、ねねによって止められるといった光景が城内ではよく見られたものであった。

「秀俊、そろそろお酒は止めなさい」

「伯母上! ……すみませぬ」

「秀次さんの後を継いで関白になるのだから、あまり不摂生をしては駄目ですよ」

「はい……。申し訳ございません」

「それに私にとっては可愛い子供なのだから、体を大事にしてほしいのですよ」

「伯母上……」

「あなたが立派に、優しい君主となる姿を楽しみにしていますよ」

 しかしやがて秀俊に暗雲が立ち込めた。文禄二年、豊臣秀吉とその側室、茶々の間に子が生まれる。豊臣秀頼の誕生、すなわちそれは秀吉にとって待望であった実子の誕生である。それは秀俊の役割を根底から覆す出来事であった。秀俊は部屋に籠りがちになり、酒に溺れるようになってしまった。

 数日後、長浜城を二人の男が訪れた。一人は豊臣家軍師、黒田官兵衛。もう一人はあの小早川隆景である。

「北政所様、久方ぶりにございます」

「官兵衛に隆景殿、どうなされたのです」

「この度、太閤様に御子がお生まれになり秀俊様の役目が失われた。そこで小早川家から提案があるそうです」

「実は、秀俊を……あの子を小早川家に迎えたいのです」

隆景の言葉に、ねねは驚いた。

「小早川家に……? あの子をですか?」

「はい、急な申し出、誠に申し訳ございません。ですが一度彼と、秀俊と話をさせてください」

隆景のその勢いに押されたねねは、彼を秀俊の自室に通した。

 秀俊は隆景を見ると少し意外そうな顔をしたが、すぐにまたいつもの静かな顔に戻った。隆景はそれを見て、秀俊に声をかけた。

「急にすみません。私のことを……覚えていますか?」

「……小早川隆景様、ですね……。聚楽第で話した……」

「覇気はともかく、その利発さは失われていないようで安心しました。……さて、結論から言いましょう。秀俊、貴方を小早川家の養子として迎えたく、今回参りました」

隆景の言葉に秀俊は冷笑した。

「……小早川家、何故でしょうか? 私にそのような価値があると……?」

「これから起きる乱のため、毛利のため、貴方の才を奮ってほしいのです」

隆景のその言葉を聞いて、秀俊は不思議に思った。

「乱……? もう義父上が天下を統一して、世は平和になったではないですか」

しかし隆景は首を横に振った。

「いえ、太閤殿の治世にはすぐに綻びが出るでしょう」

「綻び……?」

「はい、秀頼様はまだ幼く、各地の有力な大名を抑える力はまだ無い。現在は休戦していますが大陸、つまり明との戦も近いうちに再開するでしょう」

「で、ですが今は秀次様が……」

「秀次様はすぐにその座を失うでしょう」

「ど、どうしてですか?」

「太閤殿は秀頼様を寵愛なさっておられます。太閤殿はすぐに秀頼様を中心、頂点とした体制へと移行されるでしょう」

「そ、そんな……。それでは秀次様は……」

「それほどまでに実の子の力とは大きいのです。このこと……、貴方が最もよくわかっているはずです」

隆景は秀俊に手を差し出した。秀俊はその手を見つめ、頷いた。

「……わかりました。もう私の居場所は豊臣にはない……。私は小早川家として、小早川秀俊として、隆景様についてゆきます」

秀俊はねねに隆景との話を伝えた。ねねは戸惑いながらも秀俊を優しく抱き締めた。

「そうですか。秀俊、くれぐれも体に気を付けて。いつか立派な姿を見せに戻ってくれること、ねねはずっと待っていますよ」

「はい、伯母上」

こうして隆景と秀俊は旅立った。城内に残ったねねは官兵衛に笑って言った。

「ここも静かになりますね、官兵衛?」

「北政所様、隆景はああ見えて信のおける男。ご心配なきよう」

「ふふ、官兵衛が褒めるのですから、大丈夫なようですね」

「……誉め言葉と、受け取っておきます」

 官兵衛は隆景達が去っていった方を眺め、数カ月前のことを思い出していた。突然、隆景が官兵衛のもとに便りを出したのだ。それを見た官兵衛はすぐに隆景のもとを訪れた。

「隆景、どういうことだ。毛利ではなく、貴殿の養子に……?」

「はい、秀俊には小早川家を継いでもらいます」

「小早川家は貴殿の弟、秀包殿が継ぐはずでは?」

その通り、小早川家にも跡継ぎがおらず、隆景の弟である小早川秀包が当主の座を引き継ぐはずであった。

「秀包は小早川の当主でなくとも、その武で身を立てられるでしょう」

「秀俊様はそうではない……と?」

「はい、あの子は賢く、そして賢い故の危うさを持っている。人を頼り、信じる術を持ちあわせてはいない。そのような者では毛利家当主として立つのは無理でしょう」

そこまで聞くと官兵衛は笑った。

「……なるほど、それが表向きの理由か」

「……さすがは官兵衛殿。そうです、あの子が、私には心配でならないのです」

「太閤様の御世継ぎの座から外れたこと……か?」

「はい。以前、話をしたとき、あの子は自分の役割を疑いもしていませんでした。しかし今は……」

「貴殿もなかなかに甘い男だ」

「こうして真っ先に私の元を訪れてくれる貴方も、相当だと思いますよ?」

隆景は笑ってそう言った。

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