第1話「義父との出会い」
天下分け目の戦い、いわゆる関ヶ原の戦いから約二十年前のことであった。
天正十年、いよいよ天下に大手をかけようとしていた織田信長が京、本能寺で家臣、明智光秀の謀反に遭い自害。中国地方で毛利討伐に当たっていた羽柴秀吉、後の豊臣秀吉がいち早く軍を京へ走らせ、山崎の地でこれを討った。これが世にいう本能寺の変、そして山崎・天王山の戦いである。これ以降、秀吉は信長の後継者を自認し、各地で戦を重ね急速に力をつけた。
天正十二年、長浜城。秀吉は、信長の次男である織田信雄と三河の徳川家康との戦に備え、各地の将を味方につけていた。
「おー、これは義兄上。お久しぶりですなぁ」
「これはこれは秀吉殿、本能寺にて起こった変の後の迅速な対応、見事でございました」
木下家定。秀吉の正室であるねねの兄である。
「いやぁあれもこれも、全て義兄上の妹であるねねのおかげじゃわ」
「はっはっは、ねねは秀吉殿のことをたいそう気に入っているようで」
「そうじゃがのう……」
そこまで言うと秀吉の顔が曇った。家定は不思議に思って尋ねる。
「はて、何やら問題でも……?」
「大したことじゃあ、ないんじゃがのう。……実は、わしとねねの間に子が生まれんのさ」
「なんと……! しかし、お世継ぎがいなくては、秀吉殿の治世に影響が……。ふぅむ……」
自分が想定していたよりも動揺する家定に、秀吉は思わず笑った。
「いや、義兄上殿。そんなに深く考えんくてもええぞ? もし生まれんかったらどっかから養子をもらえばええんさ」
「養子、ですか?」
「おう、どこかにわしに似た、利発そうな子はおらんかのぅ?」
家定はそれを聞くとしばらく考え、やがて自信に満ちた表情で口を開いた。
「……それでは私の五男、辰之助はいかがでしょう?」
「辰之助?」
「はい。まだ幼いですが、同じ年の者よりはるかに物覚えがよく、利発な子。ぜひ秀吉殿に可愛がっていただければと」
秀吉は頭の良い家定の息子とあれば、とその申し出を受けることにした。
「ほー、ありがたい! ねねも義兄上の子なら可愛がってくれるじゃろうて!」
こうして辰之助、後の秀秋は秀吉の養子としてねねの愛を受けながらすくすくと成長した。ねねは秀吉の予想通り、自らの子に対するそれと変わらぬ愛情を辰之助に注いだ。
数ヵ月後、秀吉は長浜城を訪れた。辰之助に会うためである。
「お前様、辰之助を連れてきたよ!」
「おう、ねねか。通せ!」
ねねの言葉で、一人の少年が秀吉のもとへ現れた。体つきは細く、あまり勇ましい体格ではなかったことにややがっかりしたものの、丁寧な所作とねねや自分を見て優しく微笑む可愛らしさに秀吉は心奪われた。
「お初にお目にかかります。木下辰之助にございます」
「ほう、お主が辰之助か。うわさ通りの賢そうな子じゃのう」
「はい、お誉めにあずかり光栄です」
それからねねや長浜でのことを楽しそうに話す辰之助を見て秀吉は満足そうに頷いた。
「いや、実はな。今度の帝の行幸には辰之助、お主も来てもらおうと思っておったんじゃがどうじゃ?」
「行幸……。私がですか?」
辰之助は秀吉を見つめた。
「おう、実はな。お主にはわしの後を継いでもらおうと思っとる。じゃから今の内から皆に顔を見せておく方がよかろうて」
その言葉に辰之助は驚きながらも、冷静に頭を下げた。
「承知しました。義父上」
天正十六年、聚楽第。関白となり、帝から新たに豊臣姓を賜った秀吉によって、昨年に造られた邸宅である。豪華絢爛なものを好む秀吉の趣味に合わせ、瓦には金箔が使われ、京の都では特に目立った場所であった。時の帝である後陽成天皇を始め、各地の大名がこの時、聚楽第へと招かれ、秀吉によって催された華やかな宴を楽しんだ。これにより豊臣政権の力は日本全国に知れわたるところとなったのである。
辰之助は宴の席で何杯もの酒を飲まされていた。多くの大名が辰之助にどんどんと酒を注ぐ。というのも、辰之助が秀吉の後継者であるということはこの頃、多くの大名の知るところとなっていたため、大名にとって彼の機嫌をとることは、すなわち自分の家のためであったというわけだ。
「いやぁ辰之助よ、お前さんも楽しんどるか?」
真っ青な顔をしている辰之助の顔を、秀吉が酔っ払いながら覗き込んだ。
「あ、義父上……。すみません、もう飲めません……」
「何を言っとるか、まだまだお主と酒を飲みたいやつはたくさんおるんじゃぞ? それくらいで音をあげてどうするんじゃぁ……!」
そのまま秀吉は真っ赤な顔をして眠ってしまった。辰之助はこれ幸いと酔いを冷ますために外へ出る。外は涼しい風が吹き、辰之助の体をゆっくりと冷ました。
そのとき辰之助を見て、一人の男が声をかけた。
「おや、あなたは……」
「すみません、もう酒は……!」
辰之助が焦ったのを見て、男は優しく笑った。
「おやおや、驚かせてしまったようですね。安心しなさい。私は貴方に酒を勧めるつもりはありませんから」
「えっ……? 貴方は?」
驚いた辰之助に男は静かに頭を下げた。
「私は小早川隆景。ただ少し貴方と話がしたく、探しておりました」
小早川隆景と名乗った男は辰之助を、まるで息子のように見つめている。しかし辰之助は少し考え、言いにくそうに尋ねた、
「……あなたもですか?」
辰之助の言葉に隆景は驚いて聞き返した。
「あなたも……とは?」
「私、さっきまでたくさんの人にお酒を飲まされていたんです。義父上の跡継ぎだからって皆さん、私に近づこうとして……。それで気分が悪くなって外に出ていたんです。……ごめんなさい。隆景さんにそんなことを言っても関係ないですよね……」
隆景はそれを聞いて頷き、やがて独り言を呟いていた。
「なるほど……。やはり秀吉殿は辰之助殿を跡継ぎと……」
辰之助は隆景のことを物珍しそうに見つめた。
「隆景さんは私に無理に近づこうとしないんですね。珍しい……」
それを聞いて隆景は真剣な表情で辰之助に尋ねた。
「辰之助、貴方の役割とは何ですか?」
「私の役割……? それは……やっぱり義父上の後を……」
「いいえ、それは秀吉殿が決めたこと。貴方が真にすべきと思ったことは何でしょうか?」
「私が……すべきこと……?」
辰之助には隆景の言っていることがわからなかった。隆景は辰之助の肩に手を添え、さらに尋ねた。
「はい、貴方がこの人生の中で何を為すべきか……。私は父上の残した毛利家を、当主の輝元様をお支えすることが私の役割だと心得ています。貴方は……?」
「私には……まだわからないです……」
辰之助がそう言うと隆景はまた優しげな表情を見せた。
「そう、ですか……」
「はい。すみません……」
「いいえ。いずれわかるときがくるでしょう」
隆景は辰之助にそう言い残し、去っていった。
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