第15話 三ツ矢サイダー、ファンタオレンジ、ネクター
子どもの頃に田舎へ行くと、「ようきたな」と大人たちが振舞ってくれた飲み物があった。
三ツ矢サイダーか、ファンタオレンジ、ファンタグレープ。
どれも瓶入りで、きんきんに冷やされていた。
それをビールメーカーの名前付きの鉄の栓抜きでしゅぽんと開け、薄いガラスのコップにとくとくと注ぎ、「ほらおあがり」と勧めてくれる。
食にこだわる母が合成飲料をめったに飲ませてくれなかったため、ここぞとばかりに飛びつくが、滅多に口にしないだけに炭酸のシュワシュワ感と人工的な甘さが実はちょっと苦手だった。
でもこの『トクベツ』さは、何よりのごちそうだ。
ちびりちびりと舐めるようにして頂いたのを覚えている。
あと一つ、ちょっとレアなので缶ジュースのネクター。
とろりとした口当たりが独特で、とてもとても甘く私は大好きだった。
父の実家が果物から洗剤までなんでも置いている商店だったので商品として置いてあり、長寿で元気だった曾祖父にねだって飲んだりもした。
そういやあの店は曾祖父が亡くなる数年前に老衰で身体の自由が利かなくなると同時に認知症が始まり、そのあたりから商いを止めたのだと思う。
父の実家へ行くとたいてい九十を過ぎた曾祖父が居間の定位置に座って待っており、「ようきた、ようきた」と言って私に手招きをする。
「膝の上にお座り」
九十を過ぎた曾祖父は最晩年のマハトマ・ガンジーのような容姿だった。
促されるまま曾祖父の胡坐の上に腰を下ろすが、太ももや尻に感じる彼の膝は骨と皮ばかりにしか思えない。
『これは全体重をかけたら駄目なやつや。おじいちゃんの足の骨折ってしまう』と幼心に思い、なんとか腹と足に力を籠め、なんとか重力を逃がそうと試みたのを覚えている。
どうせ曾祖父にはそんな浅はかな思いはお見通しだっただろうけれど。
今ふと気が付いたが、三つ上の兄には座れと言われなかった気がする。
多分…。
私は生まれた時から父に瓜二つだったので親しみ深かったのかもしれない。
父方の祖父は、終戦間際に再召集され南方の島で戦死した。
筆まめな人だったので、現地から一部黒く塗りつぶされた葉書が何度も家族の元へ届き、誕生に立ち会えなかった次男、つまり私の父についてさぞ可愛いだろう、ハイハイしているだろうか、もう歩いただろうかとつづったのがおそらく最後だ。
曾祖父にとって、父は不憫な孫だった。
そんな彼そっくりな曾孫も不憫だったのだろう。
そんな気がする。
子どもの成長を楽しみにする一方で、祖父は作家になることを夢見ていた。
必ず日本に戻って文壇で活躍するのだと従兄弟へ送った手紙も残っている。
家業を家族にまかせて、昼間から二階でバイオリンを弾いているようなちょっと浮世離れしている彼が暑さの厳しい過酷な戦火を生き抜けるはずもないと、当時の思い出話を聞いたときの私の正直な感想だ。
しかし、なんだろう。
そういう人としてポンコツな所を、私はまるまる引き継いだような気がしてならない。
そして、今こうして文章を書いているあたり、もはや業だなと。
曾祖父も文芸味あふれる最晩年日記を残していて、二人の執念……いや、想いをちまちまと昇華させるのが私の役目なのかなと最近思う。
ところで、もう一度サイダーに話を戻したい。
これに繋がる思い出は母の縁に繋がる長崎地方の時が圧倒的に多い。
母方の祖母の里は長崎から北上した島原地方だった。
そこは海と山がとても近い。
雲仙普賢岳が近くにある点が少し気が休まらないが、海幸山幸の両方が味わえる豊かな土地だ。
十何人もの子供を産んだ曾祖母は棚田のてっぺんで暮らしており、親類縁者は同じく農業をやっていたり海辺で海運業をやっていたり、みな暮らしは様々だった。
小学生のころは夏休みになると私たち家族と伯母夫婦と従妹たちで島原の親類の家に泊めてもらっては、あちこちにあいさつ回りをした。
そこで、たいてい子供に出されたのがその、三ツ矢サイダーなのだ。
昭和の夏の冷蔵庫にはキンキンに冷えたビールと炭酸飲料が常に出番を待っていたのだと私は思う。
大人たちが子どもには解らない親類の近況や思い出話を交わしている間、ひたすら手の中のサイダーをちびちびと舐める。
たまにラムネが出たこともあった。
いつまで喋るのかなあ、まだ終わらないのかなあと手持無沙汰に窓の外を眺めていた記憶がある。
時には海が見えていたような気がするけれど、どうだろうか。
実はなんと、この海に近い家の人々は母たちの命の恩人だったらしい。
私と従妹たちにとっての祖母は、ちんまりと小柄で柔和な笑顔を浮かべた素朴な農家の娘だったのだが、その人生は驚くほど波乱万丈だった。
とある有力者にひょんなことから見初められ、祖母は若くして二人の女の子を産んだ。
この時、海近くに住む人々はそんな祖母たち三人を何かと気にかけてくれたのだが、最もお世話になったのは終戦の年のこと。
その当時、祖母は浦上に住んで子どもたちを育てていた。
この件については最近までまったく知らなかったことなので、当然聞かされた時私は驚いた。
浦上と言えばずいぶん洒落たところで、島原の自然からはかけ離れている。
なぜ、浦上。
そこで思い出すのが、むかし祖母から聞いた習い事三昧だった若いころの話だ。
まっさらな若妻の生末を案じた年の離れた夫は、教養を与えることにした。
和裁、生け花、茶道……。
多分、他にもあったと思うが、のちの生きる糧となったのは和裁が一番だったので、それはたしかに正解だった。
お師匠さんが直接家へ訪れていたと聞いたことがあるので、おそらくは習い事をさせるのに浦上が最も良い環境だったのだろう。
しかし、その生活は長くは続かなかった。
原爆である。
終戦の年の春の終わりに、海運業を営む縁者たちが急に『浦上は危ないという噂だ。戦争が終わるまで母子たちを里の方へ引き上げさせよう』と言い、船を出して迎えに来たというのだ。
たしかに、長崎には軍港がある。
いつ大事になってもおかしくない。
日本中次々と焼け野原にされ、心の中では敗戦を意識していた人もいただろう。
船を出してくれた人々の思いやりと行動力が間一髪で祖母たちを救ってくれたのだ。
おかげで私は、今こうして生きている。
逆に、この祖母が数年後に再婚した相手(チャーハンの話の人)の母は、その日に限って浦上へ出かけ、被災した。
家族が捜索に行ったものの、どの亡骸も黒焦げでなかなか判別がつかなかったが、彼女が一点ものの舶来品の日傘を握りしめていたため、それで分かったのだそうだ。
長崎とは、生死のはざまと苦しみの記憶をたくさん抱えた土地だ。
そして、日本とは、そういう国だ。
悲しいことも嬉しいことも恐ろしいこともそのままに次へつながっている。
武骨な瓶と、グラスと、海。
かしましい大人たちの会話、扇風機の音、蚊取り線香の匂い。
そして、ちりりと舌を刺激する、透明で甘いサイダー。
これから何度も思い出すだろう、感謝の気持ちとともに。
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