第5話 ロンドンの紅茶



 私の水分補給の八割は紅茶だ。


 朝起きて湯通し用の湯を沸かして布巾やまな板を熱湯消毒しつつガラスのポットを温め、アッサムを大さじ一杯、冷凍してあるスライス生姜を数枚放り込んだ中に熱湯を入れて蒸らし、外道だけどスプーンで軽くかき混ぜて濃度を均一にして出来上がり。


 それをだいたい一日かけて飲み干し、足りなければ緑茶かルイボスティーを煎れて飲む。


 余裕のある時は抹茶を点てることもあるし、昼ごはんの時はコーヒーを一杯淹れるので、カフェインまみれともいえる。


 気が付けば最近は、スーパーなどではティーバッグが主流でリーフティーを見かけなくなった。

 専門店ならばもちろんあるが少しお高く、私のいい加減な飲み方にはもったいない。

 日常使いの茶葉をさんざんネットで探して考えた末、今は輸入食材屋にまとめて注文するようにしている。



 そうなると思い出すのが、ロンドンへ行った時に大量にまとめ買いした紅茶たちだ。


 当時のガイドブックで紹介されていたコベントガーデン駅近くにある専門店は様々な茶葉が販売されていて、白い紙袋に詰めたのにシンプルなロゴシールで封をしてあり、当時の日本ではなかなか見かけないおしゃれなパッケージだったため、あまり高くないものを中心に選んで大量に購入した記憶がある。


 あと、スーパーでテトリーのティーバッグも数箱買った。


 今思えば、私がロンドンで購入した物は紅茶と図録とポストカードくらいしかなかったような気がする。



 ところで、そのロンドンの旅は学生時代の友人たちとの四人旅だった。


 英文学について一緒に学び卒業する時に頑張って働いてお金が溜まったらシェークスピア劇を観に行こうと約束し、数年後に実現した。

 ホテルと朝食と飛行機とヒースロー空港への送迎のみの格安パックだったが、行く前にかなり綿密に日程の計画を立てていたため、全てスムーズに進み充実した一週間だった。

 しかも三人は英会話に積極的に取り組んで優秀な成績を修めた人たちで、学校の花壇の花に課金する(当時再試の代金の使い道にそんな噂があった)ような落ちこぼれの私は頼りきりで…彼女たちに寄生するこなき爺のようなものだった。


 旅の最後まで見捨てずに付き合ってくれた友人たちよ、あの折は本当にありがとう。

 あの時のおかげで現在の私は机にイギリス料理の本を山のように積んでいます。



 話を戻そう。


 私たちにとってイギリスは憧れの地だった。

 シェークスピア、カンタベリー物語、ケネス・グレーアムの『たのしい川辺』…。

 学ぶほどに、実際にイギリスを感じてみたいと思った。


 その中でも気になるのは、日本で飲む紅茶とイギリスで飲む紅茶はどう違うのかと言う事だった。


 水が違いで味わいが変わるとは聞いているものの、それがどんなものなのか想像がつかない。

 実は淹れ方が違うのか、茶葉がもっと高級な何かなのか。


 その答えは宿泊して初めての朝食で見つかった。


 パディントン駅に直結したそのホテルはレストランを擁しており、朝食の会場としても使われていたが、なぜかあまり利用者はいなかったように思う。

 おかげで至れり尽くせりだった。


 そして、スタッフの女性がさっと淹れてくれた一杯の紅茶に口をつけるなり、私たちは目を見開いた。


「まろやか…」


「美味しい」


 見た目はかなり濃い色なのに、渋みをほとんど感じない。


 実は、彼女はまったく丁寧な淹れ方をしたわけではなかった。


 今思えば学生のアルバイトだったのだと思う。

 正直、雑なぐらいの給仕ぶりだったにもかかわらず、今まで飲んだことのない深い味わいだった。


 しかも、リーフティーではなくてティーバッグだったような気がする(昔過ぎて私の記憶が曖昧)くらい、何の変哲もない茶葉。


 それなのに、これほど美味しい紅茶を飲んだのは初めてだというのが全員の感想だった。

 結論として、紅茶はヨーロッパの水(硬水)で淹れてこそ美味しいのだろうなという話になった。


 その後も時々飲んだ紅茶はどれも美味しかったように思う。


 どの食事も口に合わないものはほとんどなく、当時さかんに流れていたイギリスは料理がまずいという話はただの噂だったのだなと笑いあったくらい満足していたので、おそらく。

 まだ若くぎりぎりの予算であった上に回りたいところが多すぎた為、優雅にお茶を嗜む時間はなかったし、最後のあたりは周期的な問題で体調を崩し始めていたのでさらに私の記憶はかすんでいる。



 だがしかし、もう一つだけ、『特別な紅茶』がある。


 それは、シェイクスピアカンパニーの『テンペスト』を見るためにロンドンからストラトフォード=アポン=エイヴォンへ向かう電車内で出会った。


 たしかメリルボーンだったと思うが、駅の切符売り場で切符を購入し、教えてもらった乗り場から乗ったのはおそらく特急のような電車だったのだと思う。


 乗り込んでみるとそれは指定席でなおかつ綺麗なコンパートメントだった。



 出発してしばらく経つと、シックな制服を着たグレイヘアの恰幅の良い素敵な男性がカートを押して現れた。


 そして彼は、にっこりと私たちに笑い、歌うような調子で語り掛けた。


『お嬢さんたち、紅茶はいかが?』


 多分、そんな感じのことを言ったのだと思う。


 車内販売かなと思い込んだ私が即座に『ノー』と首を振ると、彼は眉を下げて首を振り、心底不思議そうな様子で何事か述べた。


「…ねえ。無料なのにどうしていらないの? って」


 友人たちが困惑顔で教えてくれた。


「……」


 こなき爺が珍しくしゃしゃり出るとこうなる。

 次からは大人しく引っ込んでいようと心に誓った。


『では、お願いします』


 友人が答えると、『そうこなくっちゃ』と言わんばかりに鼻歌を歌いながら紙コップに紅茶を注いで配ってくれた。


 そして、『良い旅を』とほほ笑んで彼は去った。


 もちろん頂いた紅茶は。


 暖かくて、良い香りがして、美味しかった。


 快適な乗り心地と美味しい紅茶、そして魅力的な車窓にときめき、はしゃいだ。

 一杯の紅茶が私たちの旅をさらに楽しいものにしてくれたのだ。



 ちなみに行きは目的地までスムーズだったのに、帰りはなぜか乗り換えが必要でおそらく普通電車を乗り継いだ感じになった。

 しかも列車が遅延し、乗換駅のホームで長く待たされた記憶がある。


 行きと帰りがあまりにも違ったため、同じ時期に留学経験のある友人にこの話をしたが、彼女の答えは『紅茶を無料でサーブしてくれる列車なんて聞いたことがない』というものだった。


 それを聞いて私は頭を抱えた。



 あれは都合の良い夢だったのだろうか。

 紅茶も、終始ご機嫌で歌うように話すあの男性も。


 切符売り場で払ったのは、前夜にガイドブックで確かめて決めた予算内の運賃だったはず。

 ビジネスクラスのような車両に乗ったつもりはないのだが。



 いまだにこの件は謎だ。


 時代の流れも経済も大きく変わり、今となっては確かめるすべはない。


 あの男性が実は精霊で、ちょっとした悪戯だったのなら。

 これほど素敵な出来事はないだろう。



 いつかまた。

 そう思いつつも、かの地へは訪れることができないままだ。


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