第4話 トマト
私が三十を過ぎてから知り合った人からすれば信じられない話だと思うが、長い間私にとって食べることは半分義務のようなものだった。
基本的に甘い物は好きだが、たくさんは食べられない。
食べることが楽しいまたは楽しみという気持ちがぴんとこなかった。
とにかく食べない子だったので、兄の子たちが生まれ、実家で料理を振舞うたびに母は『幼い子でもこんなに食べるのだ』といたく感動したらしい。
食べる楽しみを知っている兄嫁の子どもたちは、お腹の中にいる時から食欲旺盛だった。
甥っ子たちは小さないころから大人の私よりはるかに食べたので、十代半ばの今はすっかり大きく育った。
いつ会っても生き生きとしているので、見ていて楽しい。
脳も筋肉も細胞が活発に増殖しているのだろうなとつい想像してしまう。
それに比べて昔の私ときたら…
今にして思えばいつもぼそぼそと消極的に食べる娘をどうにかしたくて、母は料理教室に通ったりしていたのだろう。
色々な料理が三度の食卓に並んだ。
食材にはことのほかこだわり、おやつもさまざまで手作りばかりだった。
だけど、ゆっくりちょっとしか食べられなかった
親の心子知らずだと、この年になると申し訳ない気持ちになる。
どれほど気をもんだことだろうか。
数年前に自分で調べて考えるに、拒食症まではいかないがおそらく軽い嘔吐恐怖症だったのではないかと推測する。
小さいころに何度か、調子に乗って好きなものを多く食べると後に嘔吐してしまったことがある。
以来、『たくさん食べては駄目だ』と思い、お腹いっぱいになることが怖くなってしまった。
たまたま小耳にはさんだ『腹八分目』を心がけるようになった。
しかし腹八分目とはそもそもどのくらいなのだろう。
私は限界に達するのが怖くて、腹五分、いや三分くらいしか食べていなかったかもしれない。
小学高学年あたりから始まった片頭痛も相まって、体調と食欲は常に低空飛行だった。
そんな私が少しずつ変われたのは、二十代になって旅をするようになってからだと思う。
中でも最も衝撃だったのは、トマトだ。
スペインで食べた、トマト。
五月の太陽を浴びて育った赤い野菜は、たったひとかけらでも私の中で食べることの根本の全てを覆す、暴力的な旨味を持っていた。
口の中で、トマトがこれでもかと生き物の味を主張する。
見た目は同じで、多少品種が違うにしても、これまで経験したことのない濃い味だった。
それまで私にとってトマトは付け合わせ野菜の一つでしかなかった。
あってもなくても構わない存在。
母が私と兄を妊娠していた時に酷い悪阻で、トマトだけしか食べられず、お前たちはトマトで育ったのよと時々言われていたが、「へえ、そうなんだ」くらいにしか思っておらず、どちらかというとぐにゃっとした食感と青臭い匂いがあまり好きでなかったように思う。
だからこそ、驚いたのだ。
世の中にこんなに美味しいものがあったのかと。
ミシュランの星が付くような特別な店で食べたわけではない。
連れていかれたのは街角のごくごく普通のレストランばかりだった。
ということは、スペインに置いてこのトマトの味はごくごく当たり前なのではないか。
なぜそう思うかと言うと、北のマドリードから始まって南のバルセロナにたどり着くまで朝食のビュッフェやランチにディナーのサラダで食べたトマトはどれも濃厚だったからだ。
そもそも口に合わない食事が一つもなかったのは、旅行会社の企画力の賜物なのか、この国の料理が馴染みやすかったからなのかはわからない。
道中は車窓の風景の一つ一つが新しい発見の連続で、私に不思議な活力を与えてくれ、出発前よりずっとスペインと言う国が好きになった。
真っ青な空もオリーブ畑の続く広大な景色も歴史の重みを感じる建造物も、家の中で閉じこもっていたら知らないことばかり。
全身で感じられることはなんと幸運なことか。
さらに各地の料理に特色があり、それぞれ違う味わいを楽しめたのも良い経験になった。
少し記憶がおぼろげだが、日差しの力なのか、南に下れば下るほどサラダは美味しくなっていたように思う。
取り分けられたサラダに自分の裁量でオリーブオイルとビネガーと塩をかけて食べる形だったのもシンプルで、性に合った点ではある。
この旅の途中から、いつの間にか私は腹八分目にこだわるのをやめていた。
美味しいと思うなら、とりあえず食べる。
先の事(体調を崩すかもしれないという不安)は考えない。
とはいえ急に胃が大きくなるわけではないので、すぐに完食はできないが、少しずつ、少しずつ、人並みに近い食事量になり、食に対する興味が沸いてきた。
そのおかげで、私の中で色々なことが変わったと思う。
昔よりかは、様々なことに好奇心が強くなった。
行動の範囲も広くなったような気がする。
ただ当然ながらその分しっかりと肉がついたが、古い漫画に出てくる宇宙人のような体で青息吐息だった日々より、楽しい。
スペインのトマトとの出会いは私のターニングポイントの一つとなった。
私を解き放ってくれた、魔法の赤い実。
大地の恵みに感謝したい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます