第78話「イリスの決意:後編」

 統一暦一二一一年九月二十五日。

 グライフトゥルム王国王都シュヴェーレンブルク、ラウシェンバッハ子爵邸。イリス・フォン・ラウシェンバッハ


 夫マティアスの体調が少し良くなってきたので、グライフトゥルム市にある叡智の守護者ヴァイスヴァッヘの塔に向かう準備を粛々と行っている。


 それでも馬車での旅は、今の彼の身体には厳しい。

 そのため、海路とブラオン河を使う計画を立てている。この方が移動時間は短くなるし、揺れによる負担も少ないから。


 それに街道を使うとマルクトホーフェン侯爵領か、侯爵派のグリースバッハ伯爵領を通過する必要がある。


 これだけアラベラの悪評が広がっている中、合理的なマルクトホーフェン侯爵が直接狙ってくることはないとは思っているし、警備は万全なので襲われても守り切る自信はある。しかし、彼の身体のことを考えると、無駄なトラブルは避けるべきだと考えたのだ。


 船はモーリス商会に頼んで用意してもらう。

 普段なら商船に乗り合う形で利用するのだが、今回はチャーターした。荷物はそれほど持っていく気はないけど、護衛の数が多く、人数制限に引っかかる可能性があったからだ。


 護衛はカルラたちシャッテン五名とファルコたちシュヴァルツェベスティエン猟兵団イエーガートルッペの獣人兵二十名だ。それに子爵家の家臣数名が同行するので、私たちを含めると三十名を超えてしまう。


 海路を利用する場合、船員を含めて百名以下にしないと海にいるサーペントやクラーケンなどの大型の魔獣ウンティーアに襲われ、船が沈められるため、これ以上人を増やしたくない。また、乗合の場合、暗殺者が紛れ込む可能性が否定できず、それも考慮している。


 黒獣猟兵団だが、王都の屋敷に五十名いるが、グライフトゥルム市に同行しない三十名はそのままここに残すことが決まっている。それだけではなく、更に百名程度まで増員する。


 彼らにはラウシェンバッハ子爵邸だけでなく、エッフェンベルク伯爵邸やレベンスブルク侯爵邸など、反マルクトホーフェン派の屋敷の警備に当たってもらう。毒による暗殺に対してはあまり期待できないが、直接的な攻撃や潜入に対しては十分な抑止力になるからだ。


 また、ラウシェンバッハ騎士団もレベンスブルク侯爵領やオーレンドルフ伯爵領など、固有の武力が少ないところに派遣する。


 いずれの領地も元々治安はよく、領地内でレベンスブルク閣下たちに危険が及ぶ可能性は低いと見ている。

 そのため、派兵の目的はマルクトホーフェンに対する示威だ。


 今回派遣するのは一千名の連隊だ。彼らには治安維持だけでなく、領都の外で演習を行わせる。マティに心酔する一千名の精鋭の存在はあのアラベラですら無視できないだろうし、マルクトホーフェンに焦りを覚えさせることにも繋がる。


 他にも彼らを派遣する理由があった。

 それはエレン・ヴォルフら獣人族セリアンスロープたちも今回のマティへの暗殺未遂で憤っており、何も任務を与えないと欝憤が溜まって思わぬことになる可能性を考慮したのだ。


 そのため、残りの兵士もラウシェンバッハ子爵領内だけでなく、周辺の貴族領や騎士爵領にも派遣し、治安維持の仕事をさせている。マティの命令ということで、彼らは張り切っており、マルクトホーフェンの手の者が盗賊に扮して子爵領で事を起こすことは不可能だろう。


 この理由を告げたので、最初は反対していたマティも賛成してくれている。

 彼は未だに獣人族を利用することに消極的だ。レヒト法国で虐げられてきた彼らに安寧の地を与え、幸せになってほしいと願っているからだ。


 しかし、彼は獣人族の忠誠心を軽く考えているところがある。獣人族は法国にいる時、生まれてきた子供たちに未来を与えられないと悲観していたそうだ。確かに教団上層部や聖堂騎士団の気まぐれで命を落とす状況では未来に希望など持てない。


 その状況を劇的に変えたのがマティだ。

 その彼にすべての獣人族は感謝し、彼のために命を捨てる覚悟をしている。そして、彼を殺そうとしたアラベラとマルクトホーフェン、更に彼らを操った皇帝に対し、強い殺意を抱いている。


 私は彼らの思いを利用することを考えている。

 獣人族は現在三万人を超えており、六千名近い戦士が黒獣猟兵団とラウシェンバッハ騎士団の兵士となっている。


 マティが命じれば、更に一万人以上の戦士が立ち上がる。

 これにエッフェンベルク伯爵領の獣人族が加われば、二万人以上の戦力となるのだ。

 王国軍兵士に換算するなら十万人に匹敵するだろう。


 その兵力を兄様と私、ヘルマンとディートリヒが率いれば、マルクトホーフェン派を完膚なきまでに叩き潰すことは容易い。


 マティの体調が戻れば、今度はこちらから仕掛け、マルクトホーフェンやアラベラを暴発させ、内戦に持ち込むつもりでいる。


 他にも考えていることがある。

 それはモーリス商会を使った経済的な攻撃だ。こちらのターゲットはゾルダート帝国だ。

 そのカギとなるのが、フレディとダニエルのモーリス兄弟だ。


 彼らは私たちに同行せず、学院卒業まで子爵邸から通う。二人とも同行したいと言ってくれたが、学院を卒業し、それぞれの分野で活躍してくれる方がいいとマティと二人で説得した。


 ちなみにフレディは今年の十二月に高等部の政学部を卒業予定で、このままいけば首席で卒業する。


 卒業後はモーリス商会に戻ると言っており、シュヴェーレンブルク王立学院政学部を首席で卒業した商人は初めてだと、商人組合ヘンドラーツンフトでは話題になっているらしい。


 私たちのところに来た頃は少し自信がない感じだったけど、今では立派な青年になり、父親であるライナルトの後継者として十分な知識と能力を備えている。

 当面はライナルトと行動を共にし、後継者として認知させていくらしい。


 ダニエルは現在二年生だが、彼も政学部の首席で、卒業後は叡智の守護者ヴァイスヴァッヘの情報分析室の諜報員として働きたいと言っている。そのために既にライナルトと話し合い、モーリス商会が吸収した帝都の商会、リーデル商会に入ることを決めていた。


 リーデル商会を使って帝国政府に食い込み、これまで以上に帝国内部の情報を集めると言っている。マティは危険だからやめた方がいいと言ったが、ダニエルの決意は固く、翻意には至っていない。


 彼は心配しているけど、私はそれほど不安には思っていない。

 ダニエルは人当たりもいいし、頭の回転も速い。情報分析や情報操作もマティのやり方を見て理解している。何よりマティが危険を顧みない方法を嫌っていると知っている。だから、絶対に無理はしない。


 それに三年もすれば、彼らは私たちにとって大きな戦力になることは間違いない。

 アラベラとマルクトホーフェン、そして皇帝マクシミリアンに報復するには絶対に必要な戦力だ。このことはマティには言っていないけど、フレディたちには言ってある。


 彼らもマティが今の状態になったことに憤っており、私と同じくアラベラや帝国に報復することを考え、二人で計画を練っていたらしい。


 ライナルトにはまだ話していないけど、彼も恐らく同じ思いだろう。世界一の商会、モーリス商会の総力をもって敵に一泡吹かせることができるだろう。


 マティと一緒にいるようになって金の力が武力に勝ることもあると知った。だから、この力を使って私の愛する夫が受けた以上の苦しみを与えてみせる。

 そしていつか本当に彼らを叩きのめす。それだけのことをしたのだから……。

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