第77話「イリスの決意:前編」
統一暦一二一一年九月二十五日。
グライフトゥルム王国王都シュヴェーレンブルク、ラウシェンバッハ子爵邸。イリス・フォン・ラウシェンバッハ
マティが倒れてから二ヶ月。
一度回復した彼だったが、真夏の厳しい気候が弱った身体を痛めつけ、何度か寝込んでいる。
それでもここ二週間ほどは少しずつ体調もよくなり、来週にはグライフトゥルム市に向けて出発できる見込みだ。
本当ならもう少しゆっくりしたいのだけど、王都がきな臭くなってきたので、早めに脱出したいという思いが強い。
きな臭くなってきたのはアラベラが暴走し始めたから。あの女は危機感を持ったマルクトホーフェンが御前会議の場で糾弾したにもかかわらず、また暗殺者を雇ったらしく、屋敷の周りに不審な人物がウロウロし始めた。
他にもマルクトホーフェン侯爵も腹を括ったのか、自派閥の者を重用し、対立している者を排除し始めるなど、やりたい放題になりつつある。
八月に入ってマティが総参謀長を辞任すると、軍務次官であるお父様に対して、辞任を要求してきた。確かに今年に入ってから宰相府への出仕が減っているけど、冬場より体調は回復してきており、今すぐ辞める必要はない。
それでもお父様の上司に当たる軍務卿のマルクス・フォン・レベンスブルク侯爵に対し、あろうことか御前会議の場でお父様の退任を迫ったのだ。
重大な失敗を犯した者に対しての懲罰動議ならともかく、自分の部下でもない者に対し、言いがかりをつけて御前会議の場で退任を要求するなど越権行為も甚だしい。
レベンスブルク閣下が抵抗してくださり、その場で決まることはなかったが、閣下もお父様もこの状況にどう対応していいのか分からず困惑された。
その結果、マティのところに相談に来ている。
その時、彼の体調は比較的よく、二人にこう提案した。
『この状況で無理にマルクトホーフェン侯爵に対抗するより、一度仕切り直した方がよいでしょう。ここは義父上だけでなく、侯爵閣下にも退任していただき、時機を見てはいかがでしょうか』
その言葉にお父様と閣下は驚いた。
最初は病気で気が弱くなっているのかと思い、私を部屋の外に呼んで確認したほどだ。
『マティアス君は気弱になっているのではないか? 以前の彼なら無抵抗で引き下がるなど提案しなかったと思うのだが』
父の疑問に対し、私が彼の考えを伝えた。
『マルクトホーフェン侯爵とアラベラだけなら問題はありません。だけど、密かに帝国が侯爵を支援している可能性が高いと私たちは見ています』
『帝国が……それは真のことなのか? いや、それが正しいとして、帝国の謀略をそのまま見過ごすことは王国にとって危険ではないのか?』
侯爵閣下が驚いている。
『帝国が手を伸ばしてきている状況で、無理に抵抗すれば、お父様やレベンスブルク閣下の身が危険だと私たちは考えています。恐らくですが、皇帝はマルクトホーフェンを使って王国の有力者を葬り、内戦を誘発させようとしているのではないかと思います。そうであるなら、下手に抵抗して大きく傷つくより、一度引いてマルクトホーフェンが失敗するのを待ち、一気に立て直した方が王国の混乱は小さく済むはずです』
お父様と侯爵閣下はそこまで危機的な状況だと気づき、愕然とするが、すぐに彼の意図を理解した。
『ラザファムを辺境の城に送り込んだのもその一環ということか……確かにクリストフ殿がおらぬ今、マティアス君がいなければマルクトホーフェンに対抗することは難しい。私とマルクス殿のことは分かったが、マンフレート殿はどうするのだ?』
閣下が王国騎士団長のマンフレート・フォン・ホイジンガー伯爵のことを聞いてきた。伯爵のことも話し合っていたので、すぐに答えることができた。
『ホイジンガー閣下には騎士団に専念していただき、政治に関わらないようにしていただきます。ホイジンガー閣下がいらっしゃらなくなれば、騎士団の質が落ちることは間違いありませんから、帝国とレヒト法国の脅威が去らない限り、ホイジンガー閣下の身に危険が及ぶ可能性は低いと思っています』
ホイジンガー伯爵については直接的な危険がないという点ではマティと意見は一致している。でも、騎士団に残ってほしい理由は彼とは異なる。
彼は騎士団にマルクトホーフェン派が入り込むのを防ぐためと考えているが、私はそれだけじゃなく、伯爵自身に少し痛い目にあってほしいと思って賛成した。
マティがこんな身体になった原因の一つが、ホイジンガー伯爵がマルクトホーフェンに対する謀略を忌避したことだと思っている。クリストフおじ様であれば、もっと毅然とした対応を採ったのに、伯爵は自らの矜持のために謀略を否定した。
彼に説得されて謀略を認めることもあったが、基本的には国内での謀略を嫌っている。そのため、マティは伯爵に遠慮してマルクトホーフェンとアラベラに積極的に謀略を仕掛けなかったと私は思っている。
つまり、ホイジンガー伯爵が王国騎士団長でなければ、彼はあれほど苦しむことはなかったということだ。
もちろん、伯爵に死んでほしいとか、失脚させるとかというつもりはない。それでも何らかの罰を受けるべきだと思い、マルクトホーフェン派に牛耳られた王都に残すことに賛成したのだ。
私がそんなことを考えていたら、お父様が疑問を口にした。
『しかし、マルクトホーフェンの手の者が王国騎士団に入り込むことになる。あとで厄介なことになるのではないか?』
『その点は大丈夫です。彼と私で対策は考えていますので』
この点については結構悪辣なことを考えているので、明言はせずに微笑んでおく。
私が自信をもって答えたので、お父様は納得したのか、すぐに頷いた。
『お前とマティアス君が考えた策があるなら問題はなかろう。では、私たちは辞任するが、他には誰に声を掛けるのだ?』
『財務次官のオーレンドルフ伯爵閣下と士官学校長のジーゲル閣下です。オーレンドルフ閣下は総参謀長でしたので残っていれば必ず謀略の手が伸びてきます。ジーゲル閣下がいらっしゃれば士官学校を変えることができませんので、影響力を排除するために必ず謀略を仕掛けてくるでしょう』
ユルゲン・フォン・オーレンドルフ伯爵は、以前は中立派と見られていたが、マティの勧めで総参謀長になり、反マルクトホーフェン派と思われている。また、財務次官として残っていれば、マルクトホーフェンの暴走を止めようとするだろうから今のままでは危険だ。
ハインツ・ハラルド・ジーゲル校長は叩き上げの宿将であり、士官学校の教官に強い影響力を持つ。彼がいる限り、貴族中心の軍に戻すことは不可能だから、排除にかかる可能性は非常に高い。
『分かった。辞任したら領地に戻ることにする。お前たちも早めにグライフトゥルム市に向かった方がよいな』
こうしてお父様は九月に入ったところで辞表を提出した。軍務省を実質的に動かしてきた次官が突然辞任を表明したことで混乱したが、マティが作った長期計画は承認済みであり、大きな混乱には陥っていない。
レベンスブルク侯爵は今年の十二月をもって辞任すると公表した。
さすがに閣僚がいきなり辞めることは難しいので、定期人事に合わせて辞任するのだ。
オーレンドルフ伯爵も近々辞任すると聞いており、マルクトホーフェンとアラベラは政争に勝利したと高笑いを上げているらしい。
(今のうちに笑っておけばいいわ。三年。三年だけ、あなたたちに楽しい時間をあげる。彼が回復したら、必ず報いを受けてもらうから、それまで存分に幸せな気持ちになっておけばいいわ……)
私はアラベラらに必ず報いを受けさせると心に誓っている。
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