第39話「遺言」

 統一暦一二〇七年四月一日。

 グライフトゥルム王国王都シュヴェーレンブルク、グレーフェンベルク伯爵邸。マティアス・フォン・ラウシェンバッハ


 昨日、クリストフ・フォン・グレーフェンベルク伯爵が王国騎士団長を退任した。

 後任には予定通り、マンフレート・フォン・ホイジンガー伯爵だ。


 休日ということでイリスと共に見舞いに来たが、グレーフェンベルク伯爵は立ち上がることすら難しいほど衰弱していた。


「今日はいつもより気分がいい。マンフレートに正式に引き継げたから、肩の荷が下りたからかな」


 身体は衰弱しているが、意識ははっきりとしており、そう言って笑みを浮かべている。


「それよりも参謀本部がなかなか立ち上がらんのが気になっている。それに君の家督相続も進んでおらんしな」


「ええ。参謀本部についてはレベンスブルク侯爵閣下と義父上が手を尽くしてくださっているのですが、マルクトホーフェン侯爵が危険だと訴えているようで進んでおりません」


 そこでイリスが補足する。


「参謀本部ができれば、マティが自らの能力を示すために、無謀な作戦を提案してくると言っているようですわ。これまで彼が一度も無謀な作戦を提案したことはないというのに」


 最後は獰猛と言える笑みを浮かべていた。私に対する讒言が気に入らないのだ。


「家督相続の方は単なる引き延ばしですね。最初の頃は書類の不備を指摘してきましたが、今は審査中としか言ってきませんので。宰相閣下から宮廷書記官長の職務怠慢ではないかと言っていただいています」


 そこで再びイリスが割り込む。


「マルクトホーフェン侯爵もあのメンゲヴァイン侯爵から実務能力に劣ると言われて、憮然としていたそうですよ。陛下もマルクトホーフェン侯爵の能力を疑い始めているという噂を流していますから、焦り始めているみたいです」


 メンゲヴァイン侯爵は長く宮廷書記官長の座にあったが、前例主義と悪い意味での官僚仕事で評判が悪かった。そのメンゲヴァイン侯爵より劣ると言われて、自らの能力に自信を持つマルクトホーフェン侯爵は怒り狂ったらしい。


「ならば、家督相続は何とかなりそうだな。あとは参謀本部か……マンフレートやコンラートも動いているが……そう言えば、レベンスブルク侯爵も積極的に動いていたな。あれは君が依頼したことなのか?」


「義父上とラザファムです。レベンスブルク侯爵閣下はマルクトホーフェン侯爵家に報復するには、彼らとの違いを明確にする方が早いと腹を括られたようですね。積極的に国政に関与して、文官たちの支持を取り付けつつあります。まあ、あの宰相閣下と自己中心的な宮廷書記官長が比較対象ですから、文官たちの評価は更に高まるでしょうね」


「そうか……ならば、不安要素はあまりないな……」


 伯爵はそう言って静かに目を瞑った。

 彼には楽観的な話をしたが、実際にはほとんど膠着状態で手詰まりになっている。


 マルクトホーフェン侯爵は宮廷書記官長という役職が持つ権力について理解すると、最大限に活用してきた。

 宮廷書記官長は貴族に関する権限を持つが、それ以上に国王の側近という立場が強力だ。


 彼は国王を操れると貴族たちに思い込ませ、中立派を中心に取り込みを図っている。実際に国王は侯爵の言いなりであり、従わなかった中立派の貴族を叱責させられたり、暗に隠居を勧める言葉を言わされたりしていた。


 無力な国王と言っても、専制国家での最高権力者であり、その効果は馬鹿にならない。

 派閥という大きな括りではなくとも、貴族には他の貴族と揉めている者も多く、攻撃材料に使われるからだ。


 また、参謀本部についても手詰まりの状態だ。

 最も大きな障害は私が総参謀長に就任するという噂が流れ、それを危惧する声が大きいことだ。


 マルクトホーフェン侯爵のように無謀な作戦をうんぬんということもあるが、それ以上に若すぎることが嫉妬を呼び、反マルクトホーフェン侯爵派の中にすら反対の意見があるほどだ。


 そのため、別の人物に総参謀長に就任してもらい、私がその下に就く形を考えている。但し、適切な候補者がおらず、必死に探している状況だ。


 これらの問題点については伯爵に言うつもりはなかった。残りの人生を安らかに過ごしてもらいたいからだ。


 そんなことを考えていると、伯爵がゆっくりと目を開けた。


「聞いていると思うが、私がこうして話をできるのは長くて二ヶ月ほどらしい。その頃になると意識が混濁して夢と現実が分からなくなり、まともに話もできなくなるそうだ」


「そのようなことはおっしゃらないで、クリストフおじ様」


 イリスが不安そうな顔で止める。


「いや、やめるわけにはいかない。話ができる時間が限られているのだから」


「それでお話とは?」


 私が水を向けると、伯爵は優しく微笑んだ。


「相変わらず君は優しいな……話は私的なことだ。我がグレーフェンベルク家のことを君たちとカルステン殿に託したいと思っている」


 エッフェンベルク伯爵である義父カルステンなら分かるが、まだ家督を継いでいない私とイリスに何を依頼するつもりなのだろうと疑問に思った。


「義父上だけでなく、私たちもですか?」


「そうだ。私が死ねば、アルトゥールが伯爵家を継ぐ。だが、息子はまだ十三歳だ。大した領地を持たぬグレーフェンベルク家とはいえ、家臣は以前より増えている。子供には荷が重すぎる……」


 グレーフェンベルク家は元々領地を持たない法衣貴族の子爵家だった。クリストフの代に領地を得て、更に伯爵に陞爵しているが、領地の大きさは男爵家より少し大きい程度だ。


 領地からの収入より法衣貴族としての俸給の方が、比率が高いほどで家臣の数もそれほど多くない。


「カルステン殿にはエッフェンベルク家としてグレーフェンベルク家を後見してもらうように頼んである。武の名門エッフェンベルク家が後ろ盾ならば、アルトゥールが侮られたとしても、手を出してくることはほとんどないだろう……」


 エッフェンベルク家は北のノルトハウゼン伯爵家と並び、武の名門として強い影響力を持っている。マルクトホーフェン侯爵といえども、直接対決は望まないという伯爵の考えは妥当なところだろう。


「だが、息子はまだ幼い。これから私自身が伯爵家の当主となれるよう導いていこうと思っていたが、その時間がなくなってしまった。君たちにはアルトゥールを導いてもらいたいのだ。息子は君たちのことを尊敬しているから、素直に聞いてくれるはずだ」


 アルトゥール・フォン・グレーフェンベルクは現在十三歳で王立学院初等部の二年生だ。日本で言えば中学校二年生ということになる。

 そんな彼がグレーフェンベルク伯爵家の当主となるから不安なのだろう。


「それは構いませんが、親族の方が後見人になられるなら、その方が指導されるのではありませんか?」


 伯爵は僅かに苦笑を浮かべる。


「親族の後見人は私の弟であるレギナルト・ムファットだが、あいつは自由奔放な男でな。家督を望んでいないという点では信用できるのだが、グレーフェンベルク伯爵家の当主に相応しい教育ができるかと言われると微妙なのだよ」


 詳しく聞くと、レギナルトは伯爵より五歳年下で現在三十六歳。伯爵が家督を継いだ時に騎士爵であるムファット家を立ち上げたものの未だ独身で、王都から遠く離れた南部のゾンマーガルト城の部隊長をやっていた。


 ゾンマーガルト城は同盟国であるグランツフート共和国との国境にある城だが、防御拠点というより、国境警備隊の詰所と言った方がよいほど平和なところだ。


 大陸公路ラントシュトラーセの宿場町でもあるため、飲み屋や娼館には事欠かない。独身であることをいいことに、そのような場所に入り浸っていたらしい。


 伯爵が倒れてから連絡を送っているため、まだ王都に帰還しておらず、面識はない。


「私に伯爵家の当主に相応しい教育ができるとは思えません。義父上にお願いした方がよいのではありませんか?」


「君なら大丈夫だ。何と言ってもラザファムを立派に育てたのだからな。まあ、アルトゥールをラザファム並に教育してくれとは言わんから安心してくれ」


 そう言って笑う。


「私が教育したわけではないのですが……分かりました。喜んで引き受けさせていただきます」


 それからアルトゥールが部屋に呼ばれた。


「マティアス君とイリスはお前の師となる。彼らの言葉は私の言葉だと思って聞き、立派な当主になってほしい」


 アルトゥールはまだ父親の死が受け入れられないのか、必死に涙を堪えていた。

 それでも気丈に答えていく。


「わ、分かりました、父上。マティアスさん、イリスさん、よろしくお願いします」


「こちらこそよろしく。閣下は師と言ったけど、そこまで重く受け止めなくてもいい。兄と姉ができたくらいの感じで、何でも相談してくれたらいいから」


「そうよ。困ったことがあったら何でもすぐに言いなさい。私たちでは解決できなくても、相談に乗ることはできるし、解決策を一緒に考えることもできるわ」


「はい」


 アルトゥールは素直な性格の少年だが、偉大な父の跡を継ぐということで気負っていたところがあった。それが実際に継ぐことになり、更に追い詰められた感じになっている。そのため、気楽に相談できる相手となった方がいいだろうと思ったのだ。


「アルトゥールのこともそうだが、他の子のことも頼む」


 伯爵にはアルトゥールの他に、二十歳になったばかりの長女ロミルダ、十六歳の次女フェレーナ、十歳の次男フレーデガルの三人の子供がいる。


「私たちでできることはさせていただきますので、ご安心ください」


「ありがとう。これでまた一つ気が楽になった。他にも頼みたいことがある。アルトゥール、お前も一緒に聞いていなさい」


 そう言ってから話し始めた。

 伯爵はグレーフェンベルク家というよりも、二人の娘の結婚や次男の今後など、家族のことを気にしていた。


 そんな話を聞きながら、十年もの付き合いがある伯爵との別れが近づいているのだと、涙が出そうになっていた。

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