第十章:「雌伏編」

第1話「静かな攻撃」

 統一暦一二〇六年七月一日。

 グライフトゥルム王国王都シュヴェーレンブルク、ラウシェンバッハ子爵邸。マティアス・フォン・ラウシェンバッハ


 今年の四月にゾルダート帝国皇帝コルネリウス二世が崩御した。新皇帝にマクシミリアンが即位したが、その直後帝都は大きく混乱した。


 五月の半ばにゴットフリート皇子が出奔し、混乱が更に大きくなるかと思ったが、新皇帝マクシミリアンはそれを見事に乗り切った。


 ゴットフリート皇子は帝国西部の旧皇国領リヒトプレリエ大平原を目指し、現在は帝国中部の主要都市エーデルシュタイン近郊にいる。

 これに対し、皇帝はゴットフリート皇子の行動の自由を宣言し、特にアクションを起こしていない。


 我々グライフトゥルム王国はゴットフリート皇子に接触はしていないものの、監視はしている。


 新たに皇帝の参謀となったヨーゼフ・ペテルセンが我々を陥れるために、ゴットフリート皇子を暗殺する可能性があるためだ。


 そのため、“闇の監視者シャッテンヴァッヘ”のシャッテンがゴットフリート皇子を密かに守り、皇帝が送り込む暗殺者を警戒しているのだ。


 もちろん皇子が暗殺されれば、こちらから情報操作を仕掛けて帝国に揺さぶりを掛けるつもりだが、あえて危ない橋を渡る必要はなく、今後の重要な駒として残しておくという戦略だ。


 そのペテルセンだが、帝国の中枢部で地位を確固としたものとしている。

 文官の代表である軍務尚書のシルヴィオ・バルツァーと内務尚書のヴァルデマール・シュテヒェルトと、表面上は良好な関係を築き、隙を見せない。


 また、帝国軍を掌握しつつある。

 当初は皇帝直属の特別顧問であったが、六月になると参謀本部を統括する総参謀長に就任する。総参謀長は軍団長と同じ元帥であり、三十三歳という若さで大元帥である皇帝に次ぐ地位に上り詰めたのだ。


 ただの教官から僅か一ヶ月で元帥に抜擢されたが、名将ローデリヒ・マウラー元帥の全面的な支持を受け、新たに第二軍団長になったホラント・エルレバッハ元帥、第三軍団長のカール・ハインツ・ガリアード元帥とも良好な関係を築いているらしい。


 “ベトルンケン酔っ払い”と呼ばれているが、軍人として大きな功績もなく、元帥たちより遥かに若い彼が、叩き上げの名将たちを掌握したという結果を見る限り、単に能力的に優れるだけでなく、人望も備えているらしい。


 現在カジノ経営を行っているガウス商会を通じて、ペテルセンの情報は集めているが、実態がなかなか掴めず、対応に苦慮している。


 期待していた混乱が起きず、我々にとって不利な状況になりつつあるが、堕落化計画だけは順調だ。兵士の質は以前より確実に落ちており、賭博による懲罰者が出始めているらしい。


 更に別の策を妻のイリスと検討し、実行している。


『賭博場だけじゃなくて、酒場やレストランにも人が流れているのね。それを利用する方法はないのかしら? 特に第三軍団の兵士は結構贅沢をしていたから、王国の料理を出せば、話題になると思うのだけど』


『そうだね……お酒とセットで出していたハムやソーセージなんかの肉の加工品を帝都に運べば、酒と一緒に売れるかもしれない。そうなれば、帝国の外貨を王国が得ることになるから、帝国にとっては経済的に負けていることになる』


『でも、ワインなんかのお酒にしても、ハムやソーセージにしても単価はそれほどじゃないから、外貨を奪うと言っても大したことはないのではなくて? それに輸送コストも掛かるから、モーリス商会以外が大々的に取り扱うとは思えないわ』


 この点は私も懸念点だと思っていた。


『そこがネックなんだよ。それに冬はいいけど、帝都までの航海は一ヶ月ほど掛かる。そうなると、ハムなんかは痛む可能性が高い。それを防ぐためには冷蔵の魔導具が必要になるし、魔導具を使わないなら、時期が限定されて余計に売り上げに繋がらない。試算したわけじゃないけど、肉の加工品や乳製品だけなら、モーリス商会だけではどれだけ頑張っても年間で数百万マルク(日本円で数億円)の売り上げにしかならないだろうし』


 そこでイリスが考え込む。


『そうね……そうだわ! これならいけるかも……』


 何か閃いたのか、笑みを浮かべて説明を始めた。


『外貨を奪うというのは忘れてはどうかしら。私たちの目的は兵士を堕落させることよ。なら帝国内で畜産を始めたらいいのではなくて?』


 彼女の意図はすぐに理解できた。


『それはいいかもしれない。兵士だけじゃなく、帝都の人々は比較的豊かだし、贅沢を覚えさせれば、帝都と地方の格差はより大きくなる。そうなれば、更に帝都に人が集中する。今でも地方から来ている兵士が地元に帰りたがらないらしいから、地方の不満が高まる可能性はあるね』


 帝都ヘルシャーホルストは帝国軍兵士を除いても二十万人ほどの大都市だ。我が国の王都シュヴェーレンブルクは五万人で、大国であったリヒトロット皇国の皇都リヒトロットでも最盛期で十万人ほどと、帝都は大陸で最も大きな都市だ。


 これは帝国が中央集権的な政治体制であり、封建主義の王国や皇国より首都に人口が集中しやすいためと、他の首都と違って城壁に囲まれていないため、拡張が容易なためだ。


 また、帝国軍の主力である第一から第三軍団の拠点でもあるため、最大九万人の兵士が駐屯する。それだけの兵士、すなわち純消費者がいる分、雇用も生まれやすく、人口の流入を止める必要がなかった。


『私はよく分かっていないのだけど、牛や豚を育てるための餌と軍馬の飼葉は被るのではないかしら? そうなら帝国軍にも影響が出るのではないかしら』


『確かにそれはあるかもしれないね。私も詳しくはないが、馬の方が穀物類は必要だった気はするけど、牛も牧草だけでは育ちが悪かったはずだし、肉質を上げるためや牛乳を搾るためには穀物が必要だったと記憶している。豚は雑食だから草よりも穀物なんかの飼料がいるだろうし、帝都周辺で畜産を行えば、帝国軍の軍馬のための飼料の確保に影響を与えられるかもしれない。もっとも、相当大規模な畜産を行わなければ、影響は出ないかもしれないけどね』


 帝国軍の主力は軽騎兵であり、軍馬の数は四万頭以上になる。さすがにそれだけの数の軍馬を帝都に置いておけないので、平時には帝都から離れた場所に放牧されている。しかし、大量の軍馬を養うことは容易ではなく、嫌がらせ程度でも負担を強いることはできるだろう。


『それに畜産業をやるということは、産業振興を積極的に進めている帝国としても反対は難しい。モーリス商会やガウス商会に積極的に投資してもらってもいいかもしれないね』


 帝国は軍事国家であるが、先代のコルネリウス二世は産業振興に力を入れている。また、内務尚書のヴァルデマール・シュテヒェルトは諜報局を設立するなど、策士であるイメージが強いが、政治家としても優秀でコルネリウス二世の要求に見事に応えていた。


 そのため、内務尚書が産業振興に関して反対することはない。実際、新たな産業ともいえるカジノについては割とあっさり認めている。


 そして、畜産業を振興するという策は農業の振興であり、食糧自給率向上という観点でも魅力的であるため、反対どころか補助金まで出すと言ってきた。


 策は三月くらいに実行することが決まっていたが、ゴットフリート皇子の解任やコルネリウス二世の崩御などがあり、実行に移されたのは六月に入ってからだ。


 まだ、帝都周辺で畜産に適した場所を探している状況だが、ライナルト・モーリスは新たな策の実行ということで、自ら陣頭指揮を執っている。


 この他にもモーリス商会とガウス商会に高級食材や高級酒の販売の強化を依頼している。

 こちらはカジノ運営とセットということで、二月頃から行っているが、当初の懸念に反して非常に順調だ。


 売っているのは、王都シュヴェーレンブルクの生ハム、北部のノルトハウゼン伯爵領のベーコン、ヴィントムント市のチーズ、グライフトゥルム市の蒸留酒など、王国が誇る食品とグランツフート共和国産の高級ワインだ。それを高級レストランで提供し、好評を博している。


 当初の想定に反して売り上げが伸びたのは、第三軍団の兵士の存在が大きい。彼らは遠征で得た特別手当を惜しげもなく酒場に落とし、その結果、第二軍団の兵士も釣られるように金を落とすようになった。


 特に酒は単価が高い高級品だけでなく、味はそれほどでもない一般品が飛ぶように売れている。仕入れ値が安い分、利益率は高く、穀物などの利益率の低い商品に代わりつつあった。


 まだ半年も経っていないが、他の商会も参入を始めており、初年度である今年でも年間で五千万マルク、日本円で五十億円、来年にはその二倍の一億マルク規模になるのではないかと考えている。


 この売り上げの規模だが、ゾルダート帝国の国内総生産GDPは基幹通貨の組合ツンフトマルクで百二十億マルク程度だから、一パーセントほどに当たる。


 GDPの一パーセントというと大きな数字に見えるが、九万人の兵士が月に百マルク(一万円)使えば、一億マルク(百億円)を超えるので、特におかしな数字ではない。

 二十万人の帝都民まで考えれば、更に伸びる可能性すらあるのだ。


 本来この状況は、帝国にとって由々しき事態だ。

 帝国の外貨獲得手段は主に南部鉱山地帯で産出される金属資源であり、輸送費の割に儲かる産業ではない。


 更にここ十数年の帝国軍の拡張により、国内消費されることが多く、特に今年は第三軍団が装備を失ったことからほとんど輸出に回されず、外貨を稼いでいない。


 帝国には他に目立った特産品はなく、侵略戦争によって得られた富によって国を支えていると言っていい。だから、今年の貿易赤字は過去最高になるのではないかと思っている。


 但し、帝国政府自体がこのことに気づく可能性は低い。

 シュテヒルト内務尚書は有能だが、今の官僚機構では貿易に関する統計データを収集分析するまでに至っていないためだ。


 関税の推移で輸入が増えていることに気づくかもしれないが、政府として収入が増えていることを喜んでも、国として外貨を失っていることにすぐに気づくことはないだろう。

 現状では皇帝を含め、政府要人がいる帝都は好景気に沸いているからだ。


 貿易収支の改善見込みがないにもかかわらず、帝都の景気がいいのは、帝国内の富が帝都に集まり、そこだけで回るシステムになりつつあるからだ。


 政府が地方で税を集め、兵士に給与として支払う。兵士たちは帝都で金を使い、その金が帝都民に落ちる。

 そして、本来なら地方の物産が帝都に入り、金として還元される。


 しかし実際には、モーリス商会を始めとする商人組合ヘンドラーツンフトの商人たちが間に入って利益を得て、ヴィントムントに持ち帰ってしまい、地方に流れていかない。

 その結果、帝都と地方の格差が大きくなり、地域間の軋轢が生まれつつあった。


 実際、地方出身の兵士が退役しても、故郷に戻ることが少なくなっている。また、若者を中心に田舎を出て帝都で一旗揚げようとする者が続出していた。


 これが社会問題化すれば、帝国政府にとって頭が痛い問題になるだろう。


「一応上手くいっているみたいね」


 報告を聞いたイリスが満足げな表情をしている。


「そうだね。でも、すぐには効いてこないだろうし、長い目で見るしかないね」


 そう言ったものの、私自身も満足はしている。確かに即効性はないが、生活習慣病のように徐々に帝国の体力を奪う策により、皇帝マクシミリアンが本格的に我が国に侵攻してくるまでにその力を少しでも落とすことができればよいと思っているからだ。

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