第26話「予兆」
統一暦一二〇六年三月三十一日。
ゾルダート帝国帝都ヘルシャーホルスト、白狼宮。マクシミリアン・クルーガー元帥
三月十七日に兄ゴットフリートに対する処分の見直しが検討され、翌日に解任は妥当だが謹慎処分は取り消す旨が発表された。
同時に、今回の兵士たちの暴走は、元第三軍団長のザムエル・テーリヒェン元帥が主導したもので、兵士たちに罪はないとも発表されている。
これで私が約束した兄ゴットフリートに対する処分の再考も終わり、帝都も落ち着くと考えたが、いささか甘かったようだ。
私に対する悪意ある噂が広がったのだ。
その噂とは、兵士たちの暴発が私の自作自演であり、兄とテーリヒェンは私に嵌められたというもので、まことしやかに広がっている。
それほど広がった理由は、噂の根拠が私ですら納得してしまうほど明確だったためだ。
具体的には、最初に声を上げた兵士がどの部隊にも属していないことが暴露された。
確かに諜報局の職員が兵士に扮して酒場に紛れ込んでいるから事実ではある。
しかし、数万人もいる帝国軍の兵士のすべてを知っている者などいない。だから、安易に兵士たちの勘違いだという話を広めて打ち消そうとした。
それが失敗だった。
よく調べてみると、最初に騒動が起きた酒場だが、賭博場で大勝ちした兵士によって貸し切られていたのだ。そして、そこには同じ大隊の兵士しかおらず、顔見知りでない兵士が紛れ込んでいたことは不自然だという話になった。
それによって、騒動の直後からあった私の自作自演という噂が、裏付けられてしまった。現地で情報操作を行った諜報局の職員も、まさか百人以上が入れる酒場を貸し切っているとは思わなかったようで、その事実を知るまで後手に回り続けた。
こちら側の完全なる手落ちだが、本来なら見過ごされてもおかしくはない。恐らく、ラウシェンバッハの手の者が私に対する噂を流しつつ、我が方が見落としている事実がないか、丹念に調べ上げたのだろう。
適宜対応できない千数百キロメートル離れた場所から、このような状況を想定し、事前に指示を出していたことに畏敬の念すら湧いてくる。
しかし、私も黙ってやられるわけにはいかない。
噂を打ち消すべく、王国軍の謀略だという噂を流させた。これにより、大きな騒動には至らなかったが、奴の狙いは民衆と兵士だけではなかった。
そして本日、皇宮に呼び出された。
父である皇帝コルネリウス二世、軍務尚書のシルヴィオ・バルツァー、内務尚書のヴァルデマール・シュテヒェルト、そして枢密院議長のハンス・ヨアヒム・フェーゲラインが待っていた。
いつも笑みを浮かべているシュテヒェルトを除き、他の三人の表情は硬い。
「現在、市井に流れている殿下に対する噂はご存知でしょうか」
バルツァーが無表情のまま聞いてきた。
「漠然とした質問だな」
そう言ったものの、この場で答えないわけにはいかず、言葉を続けていく。
「三月十六日の兵士たちが起こした騒動が、私の自作自演だったという噂なら知っている」
「フェーゲライン議長より、この状況にどう対処するのかと聞かれております。殿下の考えをお聞かせいただきたい」
フェーゲラインが私を見つめている。その瞳は冷たく、感情を何も映し出していない。
ラウシェンバッハは枢密院にも手を回していたようだ。
「既に手は打っているよ。これは王国の謀略であり、いたずらに騒ぐことは敵に利するという情報を流している。これで兵たちの動揺は抑えられた。あとは王国の情報操作を抑えつつ、時が解決してくれるのを待つしかないだろう」
後手に回っていることは事実だが、以前より不穏な空気が緩和していることも事実だ。王国が皇国戦でも情報操作を巧みに使い、第三軍団を敗北に追いやったことは大々的に広められており、兵士や民衆は噂話がどこまで信じられるのか疑心暗鬼に陥っている。
自信満々を装ってそう答えたが、フェーゲラインが仕掛けてきた。
「兵士の暴発を防いでいることは理解しておりますが、王国に付け込まれ続けていることもまた事実。グレーフェンベルクとラウシェンバッハなる者が次の手を打っていないと断言できぬ以上、早急に対処すべきではありませんかな?」
痛いところを突いてくる。実際、私も動きたいが、打つ手がないため静観するしかないのだ。しかし、そのことを素直に認めるわけにはいかない。
「下手に動けば、余計付け込まれる。幸い、兵も民も落ち着きを取り戻しつつあるのだ。監視は続けるが、無理に行動する必要性は認めん」
「殿下お一人の悪評なら問題はないのですが、皇帝陛下、そして我が国に対する信頼が揺らいでおりますし、枢密院に対する批判も多く見受けられます。民衆たちの支持が揺らげば、旧皇国領の治安低下にも繋がりかねません。ですので、我らとしても皇帝陛下並びに、今回の件で全権を任されておられるマクシミリアン殿下に見える形での対処をお願いしたいと考えております」
言っていることは正しいが、その動機は十月の意趣返しだろう。
「まさかとは思いますが、枢密院を潰すためにあえて手を拱いているということはありますまいな」
私がそれに反論しようとしたところで、父が声を上げた。
「枢密院は我が帝国に必要だ。そのようなことは考えておらぬ」
「では、早急に対処していただけるということでしょうか?」
フェーゲラインが父に迫る。
「マクシミリアンが言う通り、今拙速に動くことは王国の思う壺だ」
「では、陛下は放置せよとおっしゃられるのですか?」
フェーゲラインはここで譲歩を引き出そうと手を緩めない。
「いや、余が直接動く。今回のことは王国の謀略ではあるが、余の不手際だったと兵や民に謝罪する。余が謝れば、民たちも納得するだろう」
父はそう言って微笑む。
その姿に違和感を持った。剛毅な父に相応しくない笑みだったからだ。
「小職としましては賛同しかねます。至高の座におられる方が安易に頭を下げることは、権威の失墜を招きかねませんので」
この点については、フェーゲラインに同意する。
我が帝国の歴史は実質的には四十年ほどしかなく、それまでは共和制の国家だった。
共和制といっても、独裁官であった我が祖先が長年に渡って牛耳っており、実質的には独裁国ではあったのだが、皇帝と名乗るようになったのは曽祖父であるオスヴァルト二世の時代からだ。
更に皇帝の権威が高まったのはここ十五年ほど。つまり父コルネリウス二世の代からで、その父がその権威を否定することは、帝国という国家の屋台骨を揺るがす可能性がある。
「卿の懸念は理解しているよ。だが、リヒトロット皇国を征服するのは時間の問題だ。我が国の根幹が揺らぐようなことはあるまい」
「ですが……」
フェーゲラインが更に言い募ろうとしたが、父はそれを目で制して話を続ける。
「既に王国によって、余の威信は大きく傷つけられている。余が民や兵の前に出なくなったことに付け込まれたのだ。ならば、以前のように余が直接、民たちに語り掛ければよい。今ならまだ、余の言葉も多少なりとも役に立つだろうからな」
父の顔に僅かだが弱々しさが見えたような気がした。
「陛下がそこまでお考えでしたら、小職も反対はいたしません」
フェーゲラインも父の強い意志を見て反論を諦めたようだ。恐らく、このことで皇帝の権威が低下し、相対的に枢密院の力が上がると見たのだろう。
「では、早々にそのような場を設定いたしましょう」
シュテヒェルトがそう言うと、父は満足そうな表情を浮かべた。
フェーゲラインが矛を収めたことで、私としても無理な行動を起こさなくても済むと安堵する。
その夜、父から私室に来るよう連絡があった。
父はゆったりとしたローブを身に纏い、ソファに身を預けながら、ワインを飲んでいた。
侍従が一人いるが、他には誰もおらず、私と二人きりで話をしたいようだ。
「お呼びと伺いましたが?」
「うむ。お前と少し飲みたいと思ってな」
やはりいつもの父らしくない。
「体調が思わしくないのですか?」
「いや、一度倒れた後は特に何もない。まあ、年を取ったとは思うがな」
父はまだ四十七歳になったところだ。
「治癒魔導師に見てもらった方がよいのではありませんか?」
「見てもらっているが、
父が倒れた原因は
但し、一度発作が起きたからといって、すぐに死ぬような病でもなく、三十代で発作を起こした者が八十歳まで何事もなく生きたという事例もある。
「至高の座は気苦労が絶えませんから、少しお休みになられた方がよいのではありませんか? 幸い軍を動かすこともできませんし、王国の謀略には私とシュテヒェルトが対応しますので」
私としてはここで父に倒れられると困る。
兄を失脚させ、父を葬り去って権力を得たと言われかねないからだ。少なくとも王国の謀略を撥ね退けるまでは元気でいてもらう必要がある。
「そうだな。シルヴィオはともかく、ヴァルデマールとローデリヒはお前のことを認めている。ここで余が少しばかり休みを取っても問題はなかろう」
この認識は私も同じだ。シュテヒェルトと第一軍団長のローデリヒ・マウラー元帥は私が野心をむき出しにしない限り支持してくれるだろう。
「それがよろしいかと」
その後、一時間ほど他愛のない話をして過ごした。
私の家族である妻や二人の息子のこと、兄とその家族や私の下の弟たちのことなど、市井の者たちと変わらぬ話をした。
久しぶりに父と子の会話をした気がするが、思いの外、楽しかった。
(父上にお気遣いいただいたようだ。兄上に対してもあまり強く出るなということだろう。まあいい。兄上は皇位継承を諦めたのだ。弟たちは凡庸すぎてライバルにはなり得ん。あとは時間が解決してくれるだろう……)
翌朝、私の下に父が倒れたという情報が飛び込んできた。
私は悪夢を見ているのではないかと一瞬現実を受け入れられなかった。
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