第6話「皇帝の一手」
統一暦一二〇五年十月五日。
ゾルダート帝国帝都ヘルシャーホルスト、白狼宮。皇帝コルネリウス二世
今日の執務を終えて寛いでいると、軍務尚書であるシルヴィオ・バルツァーと内務尚書のヴァルデマール・シュテヒェルトがやってきた。
シルヴィオの表情はいつも通り無表情で、ヴァルデマールもいつも通り笑みを浮かべているが、どこか普段と違う雰囲気を漂わせている。
それ以前に、この二人がわざわざ一緒に来るということは、重大な事態が起きたということで、気を引き締める。
「何があった?」
シルヴィオが余の前で一礼すると、すぐに報告を始めた。
「先ほど第三軍団からの早馬が到着しました。去る九月七日、テーリヒェン元帥率いる第三軍団がグライフトゥルム王国のヴェヒターミュンデ城に攻撃を仕掛けて敗北いたしました」
「ヴェヒターミュンデ城? 第三軍団が王国を攻めただと……そなたらが一緒に来るということはただの敗北ではないな」
「御意。ケプラー将軍率いる第一師団、リップマン率いる第三師団が降伏いたしました。戦死者はケプラー将軍を含む約四千名、捕虜となった者はフェアラート守備隊を含め、一万七千四百名ほど。第三軍団は二個師団を失いました」
シルヴィオは淡々と説明するが、余はその情報に言葉が出ない。
「この情報ですが、私のところにも同じ情報が入っております。情報元はヴィントムントから来た商人です。ヴェヒターミュンデから王都シュヴェーレンベルクに勝利を伝える高速船の乗組員から聞いたそうです」
「つまり、第三軍団の敗北は事実だということだな……」
あまりに衝撃的な事実に頭が受け入れることを拒否している。そのため、歴史的な大敗北だというのに怒りが湧き上がってこない。
「恐らく現地で捕虜解放の交渉を行っているでしょうが、成功することはないでしょう」
シルヴィオの言葉に頷く。
「そうだな。王国の目的はリヒトロット皇国の救済。それが実行されなければ、捕らえられた兵たちが解放されることはないだろう。その交渉を行うために外交使節団が来るはずだ」
余の言葉にヴァルデマールが頷く。
「御意にございます。ですが、その前に考えねばならぬことがございます」
「この事実をどう扱うかだな。だが、商人が知っているなら、隠すことはできん。民たちの間にすぐに広まるだろう。それに元老たちも動き出す。先手を打たねば拙い状況になる。余の評判はこれまでになかったほど悪くなっているからな」
一ヶ月半ほど前の八月半ば、余が行ったグライフトゥルム王国のラウシェンバッハへの謀略が、大失敗に終わったことが判明した。
マクシミリアンの提案を採用し、ラウシェンバッハを引き抜くという国書を出した。それで奴を窮地に陥らせるつもりだったが、見事に逆手に取られた。
王国が発表したのは、王国軍に士官学校を設立することに合わせ、ラウシェンバッハは余が行った謀略の被害者であったということだが、それに加え余のことを吝嗇と言って笑っていた。
『皇帝は人材を欲しているという割には吝嗇だ。我が王国の名門貴族の次期当主を引き抜くのに、僅か百万マルクの俸給しか出さぬのだから。元々引き抜く気はなかったのだろう。だが、嫌がらせにしてもお粗末すぎる……』
よくよく調べてみると、ラウシェンバッハ子爵領は急速に発展しており、子爵家は余が提示した百万マルクの数倍の収入を得ていることが分かった。当時は王立学院の助教授の俸給の二十倍ということで充分だと思っていたが、それが誤りだったようだ。
確かに余の手抜かりだが、余を揶揄する噂が流れたことに大いに憤慨した。
その後、ゴットフリートが大勝利を重ねたことで、帝都では余とゴットフリートに対する評価が上がったが、それからしばらくすると苦戦しているという噂が流れ始めた。
皇国軍が守りに徹したことで膠着状態に陥っていたことは事実だが、皇国軍と王国軍に翻弄されているという噂がまことしやかに流れた。
つい最近ではゴットフリートが皇国西部で独立しようとしているという噂も流れている。
謀反を企んだマクシミリアンが幽閉だけで済まされているため、余が皇都攻略に手間取っているゴットフリートを見限り、それを知ったゴットフリートが遊牧民たちを頼りに皇国西部で独立し、いずれは我が帝国を実力で呑み込むという話だった。
「今思えば、あの噂もグレーフェンベルクの策の一環だったようだな」
ゴットフリートの実力と性格ならあり得そうに聞こえるため、多くの民が信じ始めている。
「そのようですな。この情報が広まれば、ゴットフリート殿下が自暴自棄になると民たちが考えても不自然ではありますまい。そうなれば、元老たちもゴットフリート殿下に皇都攻略の任を与えた陛下に対し、責を問うてくるでしょう」
シルヴィオの冷静な声が響く。
「あり得るな。あとはマクシミリアンがどう動くかだな。それによっては帝都で大きな騒動が起きるかもしれん」
「それはないでしょう」
ヴァルデマールが即座に否定する。
「なぜかな?」
余に代わってシルヴィオが問う。
「マクシミリアン殿下は至高の座への野心をお持ちですが、愚かではございません。ここで元老たちに迎合すれば、至高の座に就かれた後に面倒になることは明らかです。それに殿下はご自身の能力に自信を持っておいでです。この機を狙って動かずとも、いずれ自らの手で至高の座を勝ち取るとお考えでしょう」
マクシミリアンの性格ならそう考えるだろうと思い、大きく頷く。
「その通りだな」
「それよりも捕らえられた兵士たちをどうするか、早急に方針を決めておくべきでしょう。恐らくグレーフェンベルク伯爵は商人を使って、我が国に不利になる噂をばら撒くはずです。後手に回らぬように対応方針を決め、民たちの動揺を防ぐことこそが喫緊の課題かと」
兵士の中には帝都出身者も多い。異国の地に放置するように見えれば、民たちが動揺することは間違いない。
「ヴァルデマールの言はもっともだな。だが、王国が提示する条件が分からぬ。皇国からの撤退は当然要求してくるだろうが、賠償金を求めてくる可能性もある。それに応じねば、余が兵を使い捨てにしていると貶める材料にできるからな。それ以前に優秀な兵を見捨てるわけにはいかぬがな」
余の言葉に二人が同時に頷く。
「ですが、国庫には一万七千を超える兵の身代金を支払えるほどの金はありません」
帝国の財務状況に一番精通しているヴァルデマールが指摘する。
「その辺りは王国の外交使節団が来てからでよいだろう。グレーフェンベルクが主導しているなら、賠償金だけということもないだろうし、我々から動ける話でもないからな」
「グレーフェンベルクが主導しているのでしょうか?」
シルヴィオが独り言を呟くように言ってきた。
「どういう意味だ? 王国でこれほどのことができる者は奴しかおらんだろう」
余の言葉にシルヴィオではなく、ヴァルデマールが答えた。
「バルツァー殿の疑念に小職も同感です。確かにグレーフェンベルク伯爵は有能ですが、レヒト法国軍との戦いの後のマルクトホーフェン侯爵に対する嫌がらせは、彼の性格や能力から考えて異質でした。“千里眼のマティアス”が伯爵に代わって、絵を描いているのではないかと思わないでもありません」
「マティアス・フォン・ラウシェンバッハか……なるほど、マクシミリアンが認めた若者だな。ならば、あり得ぬ話ではない」
マクシミリアンは幽閉先の砦で、王国に関する情報を精査した。その結果、ラウシェンバッハが王国軍の躍進に大きく関与していると指摘している。
「ラウシェンバッハが関わっているかはともかく、マクシミリアンを帝都に戻した方がよいな。この危機的な状況であの才能を使わぬのはもったいない」
ヴァルデマールが大きく頷く。
「御意にございます。既に殿下の潔白の証明は可能ですし、ゴットフリート殿下が失敗したことが明らかになった以上、この機に元老たちを一気に処分すべきです。恐らく近日中に外交使節団が到着するでしょうから、元老たちが介入しないように手を打つべきと愚考いたします」
シルヴィオも同意する。
「陛下とシュテヒェルト殿に全面的に賛同いたします。帝国が危機的な状況にあることは、マクシミリアン殿下にとっても本意ではございますまい。これを機に元老たちを封じ込め、皇室の発言力を強めることで、この危機を乗り越えるべきとお考えになるはずです」
腹心二人が賛同したことから、マクシミリアンを解放することを決めた。
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