第51話「陥穽」
統一暦一二〇五年九月五日。
ゾルダート帝国西部フェアラート東。第三軍団第一師団長ウーヴェ・ケプラー将軍
俺たち帝国軍第三軍団は、国境の町フェアラートの東約十キロメートルの位置に布陣している。
ここまでの道のりは思った以上に長かった。
グリューン河中流にあるナブリュック市を出発したのは、八月十三日。約四百キロメートルの距離を三週間半かけて移動したことになる。
非常識に長い時間を掛けたわけではないが、迅速をモットーとする帝国軍にしてはゆっくりとした行軍だ。兵士たちの中にはこのダラダラとした行軍に苛立ちを覚えていた者も少なくない。
ナブリュックからフェアラートの中間地点、
輜重隊を同行させているのに一日当たり三十キロメートルほど進み、このペースなら一週間以上前の八月二十七、八日頃には、ここに到着できていたはずだ。
しかし、フックスベルガーに着いたところで、状況が一変した。
守備隊の隊長から、数千のグライフトゥルム王国軍が西部域にある町や村で、食糧を徴発していると聞かされたのだ。
「タウバッハの守備隊が這う這うの体で脱出してきたんですよ。五千は下らない王国軍が攻め込んできたと……その前から食糧を徴発しているという情報は流れてきていたんですが、タウバッハからここまでは百キロメートルほどですから、いつ王国軍が攻めてくるかと戦々恐々としておりました」
タウバッハもフックスベルガーも治安維持のための守備隊が、五百名程度しかいない。そのため、王国軍が攻め込んできた場合は無理に抵抗せず、東に退避するよう事前に命令が出されていた。
軍団長のテーリヒェン元帥はこの情報を聞き、師団長と協議を行った。
結果は偵察隊を四方に派遣しつつ、慎重に西に向かうというもので、俺も納得できるものだった。
この他にも状況が変わったことがある。それはゴットフリート殿下からの伝令が途絶えたことだ。
こちらがかなりのスピードで行軍したことが原因だと思うが、完全に途絶えたことに違和感を覚えていた。しかし、我々は殿下の命令通りに動いているので、状況の変化がなければ、伝令が出されない可能性は充分にあると自分を納得させている。
八月二十五日にタウバッハに到着した。
王国軍が攻めてきた割に町は落ち着いていた。
住民から聞き取り調査を行うと、王国軍は略奪などの行為は一切行わず、余剰の食糧を適正価格の五割増しで購入して立ち去ったとのことだった。
「王国軍に横柄な貴族がいたんですがね、俺たちが抗議したら騎士団長自らが頭を下げに来たんですよ。それに詫びといって、食糧の買い付け価格に色を付けてくれましたよ。どこかの軍隊と違って王国軍は偉いもんだと思いましたね」
元々この辺りでは我が軍の評判はよくない。
エーデルシュタインで暴行事件が多発したという噂が流れ、兵士たちを見ると女や子供を家の奥に隠すほどだ。
さすがに三万の軍を収容するスペースがないため、町の外で野営する。その準備をしている時、俺の下に元帥の副官が走り込んできた。
「住民たちによる暴動が起きる恐れがあります! 鎮圧のために一個連隊を派遣せよとの元帥閣下のご命令です! すぐに町へ!」
俺が話をした時には嫌味を言ってきたものの、暴動を起こすほどの悪感情はないように思えた。そのため、何が起きたのか分からず、命令通りに一個連隊を派遣することにした。
但し、嫌な予感がしたので、俺自身が指揮を執ることにした。
「了解した。俺が指揮を執るから安心しろ」
町の中心に入ると、元帥の直属大隊が数百人の住民と睨み合っていた。
一触即発というほどでもないが、同時に何かのきっかけで全面的な衝突に発展しそうな危うさも感じていた。
連隊をその場に残し、俺は元帥の下に向かった。
テーリヒェン元帥は苦虫を噛み潰したような表情で腕を組んで住民たちを見つめている。
「何があったのですか?」
「ここの住民は王国軍に協力している可能性がある。その協力者を炙り出さねばならん」
その説明では全く話が見えない。
「王国軍に協力ですか? 何か証拠でもあるんですか?」
「奴らは王国軍に食糧を売った。これは完全なる利敵行為だ」
元帥はそれだけ言うと憮然とした表情を崩さない。
その言葉を聞き、頭が痛くなった。
「確かに利敵行為ではありますが、そのことで罪を問うのはいかがなものかと」
元帥は俺を睨みつけてくる。
「ケプラー卿は見逃せというのか?」
その言い方に苛立ちが募る。この程度のことも分からないのかと怒鳴りそうになる気持ちを抑え、分かりやすく説明する。
「やむを得ないことだったと言いたいのですよ。相手は五千もの大軍なのです。逆らえば、死人が出た上に略奪されるだけでしょう。第一、彼らを守るべき我が軍は民を見捨てて撤退したのですよ。民からすれば、自分たちは逃げ出したのに罪を問うのかと怒りを覚えても仕方がないでしょう」
「兵力を温存するために撤退せよと命じたのはゴットフリート殿下だ。貴様はゴットフリート殿下の命令が間違っていたと言いたいのか!」
怒りを通り越して溜息が出そうになる。
「殿下のご命令は妥当なものです。そのことは分かった上で、民たちの気持ちを代弁したにすぎません。第一、殿下も住民を慰撫せよとおっしゃっておられたではありませんか。そのことをお忘れか」
俺の言葉に元帥も少しは頭が冷えたようだ。
「確かにやむを得ぬ部分はある。だが、我が軍に詰め寄ってきたことは許せぬ」
まだ納得できないのかと苛立つが、何とか平静に聞こえる声で話し掛ける。
「先に罪を問うたのは元帥閣下ではないのですか? 民たちからしたら、守ると言っておきながら大軍が来れば自分たちを見捨てて逃げ出したんです。それなのに食糧を売ったからけしからんと言われれば、怒りを覚えてもおかしくはありますまい」
「確かに私が先に言った。だが、奴らは反抗的な態度を取ってきたのだ!」
どうやら先に元帥が住民感情を逆なでし、元々我々によい感情を持っていない住民が反発したらしい。
「謝罪するしかないでしょう。それともここであの者たちに剣を向けますか? そうなれば、ここから先の町や村でも、我が軍に対して反抗的な態度を取ってきますぞ。今後のゴットフリート殿下の作戦にも影響しますが、それでもよろしいのですか?」
「ぐぬぬぬ……」
まだ納得できないのか、私を睨みつけてくる。
そのため、具体的に説明してやった。
「ここでトラブルを起こせば、王国軍を早期に撃破し、殿下の下に合流するという目的が達せられなくなりますぞ」
それでもまだ納得した様子が見えなかったので、大きな溜息を吐いた後に提案する。
「分かりました。この場は小官が収めます。閣下は野営地に戻り、今後のことをエルレバッハ殿らと協議していただけませんか」
元帥にもこれ以上は不味いと思っていたのだろう。
「……うむ。ケプラー卿に任せる」
それだけ言うと、その場を立ち去った。
俺は怒りを見せている住民たちをなだめすかし、何とかその場を穏便に収めることに成功した。
しかし、トラブルはこれだけに終わらなかった。
敵の騎士団の所在が掴めなかった上に、この先の町や村から食糧を調達することが難しいということが分かったのだ。
敵はタウバッハから四つの隊に分かれ、それぞれ別の方向に進んだらしい。
もう二ヶ月ほどすれば、春撒きの麦が収穫されるが、余剰分をすべて王国軍が購入したため、ここから先で食糧を調達することは難しく、後方から送るしかない。
現状では輜重隊の持つ物資で何とかやりくりできるが、フェアラートは既に陥落しているだろうから、長期戦になれば物資に不安が残る。
そのため、フックスベルガーに補給物資を集め、西に送る計画を立てた。また、敵の騎士団が補給線を脅かさないよう、索敵を強化する方針となった。
妥当な判断で文句のつけようはないが、これで五日ほど足止めされることになり、憂鬱な気分となった。
九月一日に補給物資の確保が完了し、敵軍が西に戻っていったことが判明した。
「明日から行軍を再開する。但し、敵軍の動きが怪しい。索敵を密にして慎重に進む」
その意見に俺は反対した。
「索敵を行うことに否はありませんが、敵は僅か五千です。じっくり進むより電撃的に進軍した方が敵に付け入る隙を与えないと思うのですが」
俺の意見に第二師団長のホラント・エルレバッハ殿と第三師団長のオラフ・リップマン殿が反対する。
「元帥閣下のお考えに小官は賛成します。我々に比べれば確かに少ないが、五千という数は侮れません。万が一後方を遮断されれば、補給線を失うことになる」
知将と名高いエルレバッハ殿にしては消極的だと思った。あとで理由を確認したが、はっきりとしたことは言わなかった。
「ここまで来たのだから、慎重に行軍しても大した時間ではない。焦る状況ではないと思うのだが、いかがか」
リップマン殿の意見もそれらしく聞こえるが、兵の士気を考えれば、あまり説得力はないように思えた。
しかし、三対一ということもあるし、これ以上元帥の機嫌を損ねることは得策ではないと思って大人しく引き下がる。
「了解しました」
「うむ。では、明朝夜明け前に偵察隊を派遣しつつ、慎重に進軍する。兵たちが気を抜かぬように注意しておいてほしい」
翌日から行軍を再開したが、敵軍の姿は全く見えない。しかし、住民からの情報では数日前に千人単位の軍が北に行ったという話と、南を大きく迂回する部隊を見たという情報があり、夜間も戦場と同程度に警戒を強化した。
そして今日、フェアラートの東約十キロメートルの平原に無事到着した。結局、何事も起きず、拍子抜けした感じだ。
フェアラート付近に偵察隊を送り込むと、城壁には王国の旗が立てられているものの、住民たちは城門を普通に出入りしているという報告がなされた。
王国軍自体は町の中に入っており、その総数は不明だ。住民に接触したいが、我々が接近していることを知られたくない。そのため、敵から見えない遠距離からの偵察に頼らざるを得なかった。
シュヴァーン河まで足を延ばした隊からはヴィークとヴェヒターミュンデ城の間に浮橋が架けられており、何台もの荷馬車が往来しているという報告があった。浮橋には数名の兵士が検問所のようなものを作っているだけで、警戒は緩いらしい。
また、フェアラートから王国軍の斥候隊は出ていないのか、偵察隊は一度も敵兵を見ていなかった。
「敵は油断しているようだな。明日の朝、夜明け前に出陣し、一気に敵を蹴散らす! 幸い、懸念されていたグランツフート共和国軍はいないようだ。ならば、敵は二万五千から多くても三万。我が軍団の敵ではない!」
テーリヒェン元帥の分析は間違っていないが、何かが引っ掛かる。しかし、それが何か分からなかった。
(罠に入り込むような嫌な感じが消えん。だが、閣下の言うことも一理ある。こちらを警戒しているなら、城壁の上に兵を配置しておくはずだし、住民の通行も制限するはずだ。第一、閣下が言う通り、王国軍は多くとも三万。数は同じでも質が段違いだ。フェアラートの城壁は僅か五メートルで、門を閉められても突破することは難しくない。俺はグレーフェンベルクの影におびえ過ぎているようだ)
そう考えたものの、不安が消えないため、提案を行った。
「敵の動きをギリギリまで監視させましょう。もしグレーフェンベルクが罠を仕掛けているなら、我々が接近すれば何らかの行動を起こすはずです。つまり敵に動きがあれば、罠を仕掛けている可能性が高いということです」
俺の提案に元帥は疑問を口にした。
「だが、偵察隊が敵に見つかれば奇襲とならん。そこまでする必要があるのか疑問だ」
俺が反論する前にエルレバッハ殿が意見を言った。
「小官はケプラー卿の提案を支持します。元帥閣下の懸念は理解いたしますが、昨夜は新月であり、今日も月明りはほとんどないでしょう。敵は篝火を焚いていますから、遠方からでもその動きは確認できますが、向こうからはほとんど見えません。敵が積極的に索敵を行っているなら別ですが、その形跡はありませんし、偵察隊が発見される可能性は非常に低いと考えます」
さすがはエルレバッハ殿だ。俺の考えを的確に説明してくれた。
更にリップマン殿も賛成に回ったため、俺の第一師団から偵察隊を出すことが決まる。
「偵察隊から異常があるという情報が入れば、奇襲を諦めて強襲に切り替える。だが、それでも勝ちは揺るがぬ」
元帥は自信に満ちた顔を俺たちに向けた。
俺も元帥が提案を認めてくれたことに満足し、大きく頷く。
(これで問題はなかろう。闇夜で行動が制限されるが、我が師団の偵察隊なら何かあれば、必ず報告してくれるからな……)
情報を重視する我が帝国軍の偵察隊はエリート部隊といっていい。騎兵の中でも特に技量の優秀な者が集められ、更に独自に行動できる士官を隊長としている。
更に我が師団の師団長直属偵察中隊は、帝国軍でも一二を争う優秀な偵察兵ばかりだ。これはゴットフリート殿下が直々に鍛えた兵たちで、殿下の薫陶を受け、任務を第一に考える。彼らなら異常があれば確実に伝えてくれるはずだ。
不安要素がなくなり安堵した。
その後、明日の準備のため、部下たちと最後の協議を行った。
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