第5話「誤解」

 統一暦一一九三年五月八日。

 グライフトゥルム王国王都シュヴェーレンブルク、ネッツァー邸。


 大賢者マグダと上級魔導師マルティン・ネッツァーは、ラウシェンバッハ子爵邸でマティアスに関する今後の段取りをある程度決めた後、ネッツァーの屋敷に戻った。


 華美ではないが上品な雰囲気を持つ応接間に通されると、マグダは老婆の変身を解き、座り心地の良いソファに身を預ける。

 ネッツァーは一度下がると、赤ワインのボトルとグラスを持って戻ってきた。


「お茶にしようかと思いましたが、こちらの方がよろしいのではないかと思い、お持ちしました」


 そう言いながらグラスにワインを注ぐ。

 わずかに漂ってくるワインの香りがマグダの鼻をくすぐった。


「うむ。そうじゃの。確かに今は酒が飲みたい気分じゃ」


 マグダはグラスを受け取ると、彼に向けて掲げてから口を付ける。

 滑らかな舌触りと共に芳しい香りが口に広がっていく。


「良いワインじゃ。グランツフートのものかの?」


 そう言ってマグダは眉尻を下げる。


「ええ、ゲドゥルトのものと聞いております。先日懇意にしております商人が譲ってくれました。まだ二十歳を過ぎたばかりの若手ですが、なかなかに優秀で、我らとの伝手コネクションを得たいと時々顔を見せるのです」


 グランツフート共和国はグライフトゥルム王国の南に位置し、温暖な気候からワインの生産が盛んだ。

 特に首都ゲドゥルト近郊では黒ブドウの品質が良く、赤ワインが有名だ。


「若い野心家には充分に注意する必要がある。商人組合ヘンドラーツンフトは一筋縄ではいかぬからの」


 マグダの忠告にネッツァーは素直に頷く。


「肝に銘じておきます。ですが、彼も将来我々の役に立つのではないかと、私は注目しております」


 マグダとネッツァーが所属する叡智の守護者ヴァイスヴァッヘはある目的のために設立された。

 その目的とはこの世界を管理する神、管理者ヘルシャーの復活だ。


 ヘルシャーとなり得る者はフリーデンの正統な後継であるグライフトゥルム王国の王家に生まれると考えられており、王国を守護しつつ、候補となる人物を密かに探し、ヘルシャーとしての資質があるかを観察していた。


 また、ヘルシャー候補を導くため、その者を補佐する優秀な人材の発掘も積極的に行われており、その人材にとネッツァーは考えていたのだ。


「それならばよい。そのうち儂も会ってみようかの」


 そんな話をしながら、マグダは一杯目のワインを飲み干す。


「それにしてもあのマティアスという坊は面白いの」


 彼女は今日会った少年、マティアス・フォン・ラウシェンバッハのことを思い出し、楽しげに話す。


 彼女が最初に感じた印象は線の細い病弱な少年というものに過ぎなかった。しかし、齢千歳を超える大魔導師が殺意を込めて睨みつけても動じることなく視線を外さなかった。そのことにマグダたちは感心していた。


 もし、マグダが禁忌を無視して読心の魔導を用いたとしたら、真実を知ることができただろう。


 しかし、現在の魔導師マギーアたちには多くの制約が課されていた。

 その一つが一般人への過度の干渉だ。


 これはまだこの世界にヘルシャーがいた際に定められたもので、魔導師たちが暴走することを防ぐことを目的としている。


 ヘルシャーの最も忠実な配下である助言者ベラーターのマグダは当然のことだが、その定めに従っており、一般人であるマティアスの心を読むことは考えもしなかった。


「話を始める前もそうじゃが、話し始めた後の落ち着きようはどうじゃ。あれほど落ち着き、あれほどの説得力を持っておるのじゃ、今すぐにでもこの国の宰相になれそうじゃな」


「私も同じことを思いました。あれほど理路整然とした話術と、最後まで笑みを絶やさない胆力。これほどの才能の持ち主は見たことがございません」


 そこでネッツァーはマグダのことを思い出したのか、慌てて付け加える。


「も、もちろん、マグダ様は別ですよ」


「気を遣わずともよい」


 マグダはそう言って笑う。


「胆力はともかく、儂にあれほど的確に説明できる能力はない。あれは異才と言ってよいじゃろう」


 マティアスは日本にいる時に発注者クライアントに対して数多くのプレゼンテーションを行っており、そのための技術も高い水準にあった。しかし、強いカリスマ性があるわけでもなく、その能力は一般人の域を出ていない。


 一方この世界には弁論の得意な者はいるものの、技術として確立されたものではなく、それに関する教育も行われていない。そのため、多くの国王や重臣たちに接してきたマグダでさえ、マティアスの弁舌を異才と称したのだ。


「あの者には近い将来生まれてくるであろう、ヘルシャー候補の補佐をさせるつもりじゃ。よって、あの才能を生かしつつ、良い方に導かねばならん。万が一、あれだけの才能が悪に染まるようなことがあっては禁忌を冒してでも、儂自らが排除することになりかねんからの」


 マグダはマティアスの才能を評価しつつも警戒していた。それほどまでにマティアスの弁舌は彼女に強い衝撃を与えたのだ。

 そのことにネッツァーも首肯する。


「おっしゃる通りかと。あの若さでマグダ様が感嘆するほどの頭脳を持ち、更にあれほどの弁舌を持っております。現在のこの国王や宰相では全く太刀打ちできないでしょう。もし彼が野心を抱けば……」


 それ以上は口にしなかったが、マグダも同じことを考えているのか、大きく頷く。


「あの坊は儂が後見し、直接指導する。そのことを塔の者どもに伝えるのじゃ」


 その言葉でネッツァーの表情は真剣なものに変わった。これまで彼女が直接指導した者はいずれも才能豊かな魔導師だけであり、マティアスを特別な存在と認めたことになるためだ。


「はっ! 大導師様に直接お伝えいたします!」


 ネッツァーは居住まいを正して答える。

 叡智の守護者ヴァイスヴァッヘの最高指導者は大賢者マグダであるが、実質的な管理は彼女以外での最上位魔導師、“大導師”が行っている。これはマグダには世界の存亡に関わる“助言者ベラーター”としての仕事があるためだ。


「坊に接触する者は厳選せよ。野心家に取り込まれるほど愚かとは思わぬが、帝国の皇帝のように人を引き付ける魅力を持つ者は侮れぬ。今の国王フォルクマークは凡才ゆえ、坊の心を得られぬことは間違いないが、皇帝コルネリウスは危険じゃ」


 グライフトゥルム王国の現国王、フォルクマーク十世は三ヶ月前の二月に前国王の突然の崩御により、わずか二十歳という若さで即位した。


 彼以外に直系の王子がいなかったことと、彼の血統を否定できるほどの有力な王族がいなかったことから問題なく王位を継承したが、優柔不断な性格で即位前から不安視する者は多かった。


 一方、ゾルダート帝国の現皇帝コルネリウス二世も一年半ほど前の昨年一月に、多くのライバルを押し退けて三十五歳で即位している。


 元々傭兵団長が国を築いたこともあり、帝国では実力主義が浸透している。これは帝位についても同様で、帝位継承権を持つ者の中から皇帝が実力を鑑みて、皇太子として指名する。


 その際、枢密院と呼ばれる諮問機関が次期皇帝として不適格と判断すると、その指名は無効にされるため、皇帝の恣意によって実力がない者が次期皇帝に指名されることはない。


「それほどの人物でございますか。では近い将来、この国も戦乱に巻き込まれる可能性が高いということでしょうか?」


 ゾルダート帝国とグライフトゥルム王国の間にはリヒトロット皇国という国がある。リヒトロット皇国はエンデラント大陸北部の大国であったが、帝国の侵略を受け、衰退の一途を辿っていた。


 特に三年ほど前から皇国の中央にある皇都リヒトロット付近にまで侵攻され、皇国は全戦力を投入して何とか均衡を保っている状況だった。


 その侵攻作戦の指揮を執っていたのが、新たに皇帝となったコルネリウスで、軍事的な才能と人を引き付けるカリスマ性により、帝国軍を完全に掌握していた。帝位を継承したことで、更なる攻勢に出るとネッツァーは考えたのだ。


「その可能性は高いの。恐らくじゃが、二十年とは掛からずにこの国の国境付近にまで勢力を伸ばすであろうの」


「そうなれば、帝国の手がこの国にも及ぶと?」


「そうじゃ。帝国は優秀な人材であれば他国の者でも譜代の者と区別なく重用する。今のところコルネリウスが食指を動かしたくなるような者はこの国にはおらぬが、混乱させるために何らかの手を打ってくるじゃろう。それに坊が頭角を現せば、間違いなく接触してくる」


 ネッツァーは不安げな表情を一瞬見せたが、すぐに表情を引き締める。


「彼についてのご懸念は理解しました。塔にはその旨も併せて伝えておきます」


「頼んだぞ」


 マグダはそう言って小さく頷く。


 こうしてマティアスは前代未聞の“大賢者マグダの弟子”という立場で、最古の魔導師の塔、叡智の守護者ヴァイスヴァッヘに入ることになった。

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