第5話 ひき逃げ事故

 その事件というのは、三日前に発生した事故だった。

 時間的には、まだ夕方の通勤ラッシュが始まる前の時間で、それでもそろそろ交通量が増えるのではないかと思われる時間だった。F市のベッドタウンでもあるこの街も、交通量は結構多く、ちょうど中学、高校の授業が終わってから少ししてくらいだったので、歩行者の数も多かった。

 それだけに、ひき逃げなど一番起こりそうもない時間帯に思えるのだが、実際には起こってしまった。そういう意味では目撃者も複数いた。だが、それが却って捜査を難しくしたというのも事実であった。

 ひき逃げが起こった場所というのは、比較的大きな交差点で、片側二車線の道路が行きかう交差点だった。

「かえで交差点」

 と呼ばれている交差点で、どちらかというと、東西に延びる幹線道路の方が信号は長かった。

 東西の歩行者信号が赤になり、そして車用の信号が黄色から赤に変わるのだが、その間隙を縫うように、一台の車が中央線を割り込んで、案割り込むように猛スピードで直進してきた。

 本当は、赤になっても、右折の車があるので、南北の信号が青になるまでには余裕があるからの行動だったようだが、その車は右折の車があることを知らなかったのか、意識していなかったのか、普通に右折信号が変わるのを待っていた右折車が前に出ようとしてことで猛スピードで直進しようとした車はビックリして急ブレーキをかけた。しかし、こんなところでの急ブレーキほど危ないことはない、完全にハンドル操作を誤って、歩道近くまで突っ込み、その場にいた人は数人いて、蜘蛛の子を散らすように逃げたのだが、運悪くその人だけが逃れられなかったのだ。

 逃れようとしたのだが、ちょうど中心部にいて、実際に何が起こったのか分からないまま皆が逃げ出したので、一人取り残された結果になった。

 その人を跳ねた車は。そのまま逃走した。自分の車が人にぶつかっただけで、まわりのどこにもぶつからなかったことで、ほぼ無傷だったようだ、

 この間、ちょうど一分くらいの出来事だったようだが、一気にその場はパニックになった。当然救急車が呼ばれ、警察も駆けつけてと大騒ぎになった。近くの防犯カメラの映像から、容疑者の車の車種や色までは確認できたが、防犯カメラで車のナンバーまでは確認できなかった。

 物損ではなかったが、人を跳ねた勢いは激しかったようで、跳ねたその勢いで、車のナンバープレートが手前に歪んでいた。角度のせいもあってか、テイル部分のナンバーが確認できなかったことで、防犯カメラによるナンバーの特定は無理だった。

 それならばということで、目撃者に事情聴取を行ったが、皆部分的にしか覚えていなかった。何しろいきなりのことで、皆命からがらだったという状況でもあり、実際に目の前で悲惨な事故を目撃したのだから、気が動転したとしてもしょうがないだろう。

 それでも、数人は犯人を許すまじと感じたのだろう。意識的にか無意識になのか、ナンバーの一部を覚えていた。しかし、その記憶はあまりにも曖昧で、矛盾した意見も散見された。

「せっかくの証言だったのですが、あまりにも証言に食い違いがあったので、証言としてはとても信じられるものではありませんでした。当然車を特定することはできず、今も犯人は捕まっていません」

 と五十嵐巡査は説明してくれた。

「ああ、その事件ね。署でも話題になっていたよ。とにかく被害者がかわいそうで、意地でも犯人を捕まえるんだと言って鼻息の荒い刑事もいるよ。私もその一人ではあるんだけど。捜査は確かに難航を極めているよね。今は被害者の方が、無事に意識を取り戻してくれるのを願うだけだということですね」

 と辰巳刑事は話した。

「捜査の方はどうなっているんですか?」

「証言が曖昧で、しかも防犯カメラの角度が悪いので、とても捜査に使えるものではないということで、今は新たな目撃者探しをしているよ。目撃者と言っても近くを走行していた車だね。そこにはドライブレコーダーを積んでいる車があれば、角度によっては、ナンバーが確認できる映像が残っているかも知れない。そのあたりから捜査をしているんだ。何しろ大きな交差点なので、交通量も多い。そうなると、同じ時間に毎日走っている人だっているだろうからね」

 と辰巳刑事は言った。

 今では車にドライブレコーダーを載せている人が増えてきた、それは数年前から問題になり始めた、いわゆる、

「煽り運転対策」

 であった。

 煽り運転というのは、普通に運転しているつもりでも、同じ方向に走っていて後ろにつけている車が、何か気に入らないことでもあったのか、一気に車間距離を詰めてきたり、クラクションを鳴らして、嫌がらせをしてくることだ。中には相手の車を止めて、相手に暴言を吐いたり、暴行を働いたりする。そんな時に自分を守るための方法として、証拠を残すという意味で、車に防犯カメラという意味で、ドライブレコーダーを積む人が増えているのだ。

 昔から煽り運転の類はあったのだろうが、ここまでひどいことはなかったはずだ。何が時代をこんな風に変えたのか、実に悲惨なことになっていた。

 しかし、世の中というのは理不尽に面白いことになっている。煽り運転がなくても、便利性や事故に遭った時などの証拠のために開発されたドライブレコーダーなのだろうが、煽り運転などの証拠に使用されようなど、開発者、いや、最初に使用し始めた人にそんな思いがあっただろうか。

 それぞれで勝手に進化してきたことが、別の意味で結び付く。これを、不謹慎なのかも知れないが、

「理不尽な面白さ」

 と表現して、何が悪いというのか。

 それを思うと、複雑な気持ちになってくる。

 ただ、事故からまだ三日しか経っていないということもあり、歩行者の証人を探すようなわけにもいかず、捜査は難航していた。何と言っても、走っている車を止めてまで、聴取するわけにはいかないからだ。

 それでも、それ以外に捜査のしようもなかった。今のままでいけば、犯人を特定することは難しい。

 跳ねられた人は、一人の女教師だった。年齢は三十歳になったくらいだっただろうか。まだ独身で、彼氏はいたようだが、お見舞いに来ることもなかった。

 もっとも、来ても意識不明なので、話をすることもできない。二人が付き合っていたことはまわりはほとんど知っていたので、お見舞いに一度も行かないというのは、さすがにおかしな気がした。

 田舎から出てきて、一人暮らしをしながら教師をしていたというが、両親は離婚していて、母親だけに連絡がついて、事故の翌日には病院に姿を見せていた。

 父親とは離婚してから連絡を取り合っていなかったようで、連絡先も分からないという。どうやら少し複雑な家庭環境のようだった。

「娘がひき逃げ事故に遭うなんて、どういうことなんですか?」

 と、捜査をしていた刑事に詰め寄ったが、状況しか分からず、刑事の方もどういっていいのか困っていた。

「犯人は、必ず逮捕します」

 としか言えない担当刑事は、自分に苛立っているようだった。

 だが、こういう事件は日常茶飯事に発生していることであり、交通事故など毎日のように何十件と発生し、死亡者も出ている。中には今回のような理不尽なものも少なくはないのだ。

 ただ、それにしても、今回の事件は酷かった。全国ニュースにもなったくらいで、ただ犯人が捕まっていないことと、捜査に進展がまったくないので、それ以上のニュースにもなっていない。

 もっとも、少々の進展があったくらいではニュースになることもない。何しろ新聞が毎日発行されるだけのボリュームで作られるほど、世の中には事件や犯罪、話題になりそうなことが溢れている。

 被害者も捜査員も、世間の話題から取り残されたことを悔やむようなことはないだろう。しかし、本人たちには決してこの事件が、「過去」になることはない。いつまでも続く忌まわしい現実なのだ。

「現実だから、過去ではない」

 という発想はかなり奇抜ではあるが。過去という言葉を使ってしまうと、自分の中で何か一つの結論がついてしまったような気がして嫌なのだ。

 一つの区切りはあるかも知れないが、何をもって結論というのか、難しい、例えば今度のような事故で、犯人が捕まったとしても。それは一つの区切りであって、結論ではないのだ。

 そのことを果たして誰が分かるというのだろうか。

 被害者の女教師にも、

「人には言えない過去」

 があった。

 それは、新任の先生として赴任してきてから、すぐのことだった、

 学校自体も問題児の多い学校で、先生の定着率もあまるよくなかった。その学校は、生徒も生徒なら、先生も先生で、理事長というのが、PTAとズブズブだったようで、生徒に何かあるたびに父兄の方から金銭の授与があり、不問に付されたりなどが横行していた。

 教師として燃えて赴任してきた学校が、まさかそんな学校だったなど思いもしなかったが、最初は生徒ばかりに問題があると思っていたのに、まさか教育者側迄腐っていたことを知ると、かなりのショックだったようだ。

 そのショック状態で、さらに追い詰められるようなことがあった。

 これは表には出ていなかったことだったが、彼女は生徒の一人に暴行されたのだった。普段は大人しそうにしている生徒だったので、

「先生に相談があるんだ」

 と言われて、誰もいない教室で彼と二人きりになっても、怪しいとは思わなかった。

 むしろ逆に、自分を頼ってきてくれた生徒に感謝したくらいだ。こんな学校に赴任させられて、どうしていいか分からないところに一人の生徒から、

「相談がある」

 と言われたのだ。

 教師になってから初めての相談に、どう答えていいのか不安に感じてはいたが、それでも自分を頼りにしてくれる生徒がいると思っただけで、不安よりも、正義感、責任感の方が強かったのだ。

 実際に教室に行ってみると、誰もいなかった。その生徒は一人一番前の席に鎮座していて、彼女が来るのを待っていた。

 先生が入ってくると、挨拶もほとんどなしに、悩みを言い始める。

「俺、どうしていいか分からないんだ」

「何がどうしたっていうの?」

「こんな気持ち、先生にだってあるだろう? 人を好きになったことだってあるはずだから」

 と、相談内容が、恋愛問題であることを、その生徒は自ら惜しげもなく明かしたのだった。

「その人に告白したいの?」

「そうなんだけど、嫌われたらどうしようとかいう思いじゃないんだ。嫌われるかも知れないという思いは正直ある。だけど、それだけじゃないんだ。今のどうしていいか分からない気持ちを、相手にも知ってもらいたいという気持ちが一番強いのかも知れないんだ」

「それは難しい問題ね。それだけあなたがその人のことを愛しているということなのかしら?」

「そうかも知れないが、そうじゃないかも知れない。だから分からないんだ」

「もし、あなたが好きだと自分で分かっていないんだったら、告白したりすると、もし勘のいい女性だったら、あなたが自分のことを好きかどうかなどすぐに看破して、あなたのことを好きになれなくなる可能性はあるわね。そういう意味ではすぐに告白するということは危険を伴う気がするわ。あなたが自分の気持ちにハッキリ気付くまで、その人には告白はしない方が無難かも知れないわね」

 と答えると、

「どうも、そうはいかないんだ」

「どういうこと?」

 と女教師が聞くと、

「それは、もうすでに告白してしまったからだよ。俺はあんたの言う通りであれば、取り返しのつかないことをしてしまったのかも知れないな」

 というではないか。

――この人は私に相談しておいて、相談内容を先に実行したというの? そんなの信じられないわ――

 と思った。

 だが、彼は次に言った言葉が、その疑問を消し去ることにはなるのだが、消し去っただけで、何の解決にもなったわけでもなく、逆に彼女を大きく巻き込んで、その時点から、抜けられない呪縛に落ち込んでしまったに違いない。

「俺が好きになったのは、先生、あんたなんだよ」

 というではないか。

「えっ、私? 何を言っているの?」

 すぐに事情が呑み込めない彼女だった。

 まさか生徒から告白などされるとは思っていなかったのだが、自分も女である。いくら教え子とはいえ、嬉しくないはずもない。だが、照れ隠しのためなのか、若干大人びてしまう態度を取ろうとしたのだが、それがいけなかったのかも知れない。

 若干、舞い上がっていたのかも知れないが、中途半端な気持ちがもっともいけないことだということに、その時気付いていなかった。その理由は至極簡単、それまで教え子はおろか、男性から告白などされたことがなかったからだ。そのことに対して舞い上がりと中途半端があったのだ、

 しかも、そこでさらに、

「焦れしてやろう」

 などという気持ちが働いた。

 その理由は、彼が自分を好きだと言ったことで、自分の言うことには何でも従うだろうと感じたことだった。

 そもそも、彼は彼女のことをハッキリと好きだと言ったわけではない。好きな気持ちに変わりはないが、背伸びをしたい男の子が、恥を忍んで恥じらいを捨て、一念発起で告白に至ったのだ、一ミリたりともからかう気持ちになってはいけなかったのだ。

 それなのに、相手を焦らそうなどと考えるのは明らかに間違いだった。いくら新人教師だからと言って、生徒の心を弄ぶようなことはしてはいけない。しかも多感な時期の男の子、好きになった相手へ盲目になる反面、好きになったことで意地にもなっているのだ。大いなる緊張感が彼を包み、まるでピンと張った糸が今にも弾けそうな状態になっていることを本当は悟ってあげなければいけなかったのだろう。それが教師としての彼女の役目、彼女には教師としても、異性の相手としても失格だったのだ。

 そんな中途半端な先生を見て、次第に生徒は告白したことを後悔し始める。そんな状態を見抜けず、ずっと焦らしに徹していた彼女を、生徒はすでに見下していたのだろう。告白状態になってから、まったく会話がないことに、彼女は違和感すら抱いていなかったのだ。

 少しでも違和感があれば、どうなっていたか分からないが、後悔はなかったかも知れない。

 しかし、男の子の気持ちを分かっていなかったことで、相手の性欲に火をつけてしまったのは事実だった。

 一瞬のことだった。男の子はいきなり彼女を力で組し、床に押し倒してくる。

「痛いっ」

 と声を出したが、驚きはそんな痛みをマヒさせるほどだった。

 相手の力は強く、抗えることなどできないと観念した彼女は完全に力を抜いてしまった。―-ひょっとすると、やめてくれるかも知れない――

 などと、淡い期待を抱いた。

 それがどんなに甘い考えであったかということに気付くはずもなく、傷みつけてくる相手の考えが読めなかった。

 相手は傷みつけているつもりはなかったのかも知れないが、一つの目的に向かって突き進む男の子の力はそんなに甘いものではなかった。力を抜いたが最後、二度と逃がすものかという執念に凝り固まって、さらに相手を羽交い絞めにしていた。

 それが相手の気持ちにも火をつけたのかも知れない。

 最初は自分が相手を焦らすことで主導権を握ろうと思っていた相手に、今度は主導権を握ることの、

「楽しみ」

 を教えてしまったのかも知れない。

 楽しみという言葉を少年が知ってしまうと、それはまるでおもちゃを操っているような、または、昆虫採集で捕まえてきた昆虫の背中に容赦なく針を突き立てる気持ちと同じではないだろうか。それが生きていようが死んでいようが関係ない。相手は人間ではないのだからという理由であった。

 そう、その時の少年は、相手が自分と同じ人種を相手にしてはいなかったのかも知れない。憧れであった女性というのは、彼にとっては元々未知の生物であり、初めて触ったことで自分のなぜか興奮状態に火をつけて、力づくで自分のものにすることに目覚めてしまったのだから、それを目覚めさせる結果になった自分に罪はないというのだろうか。

 もちろん、その時はそんなことを考える余裕などあったわけではない。

―ー早く終わって――

 と、心境はまるでいじめられっ子が、苛めっ子に対して感じることであった。

 先生は知らなかったが、この生徒はいじめられっこであった。だからと言って、いじめられっ子が珍しいわけではない。苛めっ子が少数に、他はいじめられっこがほとんどなのだ。昔のように傍観者が多いという時代ではなくなってきたようで、しかも、その学校は前述のように特殊であった。

 特殊な学校に赴任してきた意識はあったが、まさか自分がこんな目に遭うなど想像もしていなかった。

――こんな学校、いつでも辞めてやる――

 というくらいに感じていた時期もあったくらいで、そんなことすら考えられないくらいの状況に、

――声を出してはいけない――

 ということだけは自覚していた。

 本当は声を出して助けを呼びたいのはやまやまだが、声を出してしまうと、そのままこの男の子に首を絞められて殺されるような気がしたのだ。もし他の女性で、声を出すことを躊躇っていることがあるとすれば、

「こんな姿を人に見られると恥ずかしい」

 と感じるからだと思っていた。

 しかし、実際にそうであろうか? どうして声を出してまで助かりたいと思うのだとすれば、貞操を守るためではないのだろうか。貞操を守れるくらいなら。恥辱を我慢するくらいのことがどうしてできないのか? 彼女はそう感じた。

 しかし実際には貞操を守るという感覚と、恥辱を晒すことのジレンマが、行動を起こさせないようしするという感情は、理に適っているのではないだろうか。

 もっともこれは理屈的な考えであり。その時々でまったく事情が変わってくる。ドラマなどでよくあるシチュエーションでは、恥辱を晒すことを嫌がって、相手の思うままにされてしまうことが多いのかも知れない。もちろん、恐怖におののきながらであるが、本当のところはそんな環境にならなければ分からない。

 彼女はまさにそんな環境に身を置くことになってしまったが、最後の一瞬まで、

―ー早く終わって――

 としか考えられなかった。

 ことのすべては静寂の中で行われた。自分がどんなリアクションを取ったのか、相手が何を考えているのかなどまったく分からない。ただ、二匹の獣が貪りあっている姿が、影絵のように写し出された状態に、言語を絶する状態に、文章をあてがうことなどできるはずもないだろう。

 欲望を満たした男はさっさと服を着て、放心状態で寝ている女を放っておいて、その場を離れた、

 その時最後に見せたその生徒の顔を今でも忘れることができないでいる。

「ふっ」

 と口元が歪んだのだ。

 明らかに相手を支配したことで、満足し、

「お前は俺のものだ」

 と言わんばかりのその態度に彼女は身動きが取れなくなっていた。

 そして立ち去る寸前、また一言、

「先生、ありがとうよ」

 という捨て台詞があったが、正直この言葉が一番堪えた。

――何を言っているの、この子は――

 と思った。

 支配感と満足感に包まれたその生徒は、支配して、さらに欲望を注入した相手に対し、礼をいう。もちろんそれは額面通りのお礼なわけもなく、嘲笑うかわりの言葉に、浴びせられた方は、さらなる屈辱感に見舞われる。

 いや、それまでかんじてi他屈辱感なるものをすべて否定させられて、

「今のその感情が本当の屈辱なんだよ」

 と、その生徒に教えられた気がした。

 そんな屈辱に、そう簡単に耐えられるものでもないだろう。耐えられない気持ちを胸にそこでしばらく放心状態でいると、真っ暗な教室の向こう側に真っ白い光の輪がだんだん大きくなってくるのを、ただボーっと見ていた。

 服を着る気力もなく、ただその光を見ていたが、扉がガラガラという音とともに空いてから誰かが入ってきたところまでは覚えているのだが、そこからどうなったのか、気が付けば医務室のベッドで寝かされていた。

「私、どうして?」

 と身体を起こそうとすると、頭がガクンとなったようで、次の瞬間、頭痛を感じた。

「あなたは、誰かに暴行されたみたいなの、相手は生徒なんでしょう?」

 と言われて、何も言えなかった。

 目の前にいたのは、学年主任の先生だったが、その先生は、彼女をいたわる言葉を一言も発せず、言った言葉は、事実を告げたことと、犯人が誰かを聞いたことだ。この二つともいきなり聞くなどタブーなのではないだろうか。意識が朦朧とする中でもそれを理解できたのは決して冷静だったからではなく、あまりにも想定外だったからなのかも知れない。

 後で警察の人に訊いたところによると、彼女は暴行されたということである。しかも悪いことに生徒の父親は、県下でも土建業で、学校への寄付も大きく、以前から学校運営に大きな影響を持っていた。そんな父兄が親なのでm学校もどうすることもできない。

「何分にもこのことは内密に」

 と、校長、教頭から頭を下げられた。

 何においても不利なのが、暴行を受けた時、彼女は気絶していたということだ。抵抗の痕が見られないことから、相手に、

「合意の上であったのでは?」

 と言われてしまえば、それまでだった。

「こんなところで大げさにして、恥をかくのは先生ですよ」

 とでも言わんばかりの雰囲気に、彼女は提訴を諦めるしかなかった。

 幸いにも妊娠はしていなかったので、秘密裏にことを運ぶことができたのだが、憔悴な彼女に対して、誰も何も言わなかった。腫れ物に触るかのような態度にいたたまれなさを感じ、彼女はすぐに学校を辞めた。

 しばらく休養をしているうちに、もう一度教師の話が来た。その人は高校の時の恩師で、今はK市の高校で教頭をしているという。いつも温厚な人で、彼女が暴行された時もねぎらいの言葉をかけてくれたのは、その先生だけだった。学校を卒業してから何年も経つのに、よく忘れずに覚えてくれていたと感謝した。

 そもそも、自分が教師を志したのも、その先生がいたからだった。まだショックは残っているし、二度と教師をしたくないという思いもあったが、先生のことだから、

「もう大丈夫だろう」

 と感じたのではないだろうか。

 そう思うと彼女も、もう一度教壇に立ってみようという勇気が湧いてきた。少し怖さもあったが、あの時は学校が悪かっただけだと思って割り切ればいいと思い、そして、

「辛かったら、いつでも相談してくれていいからね」

 と言われたことも励みになった。

「はい、じゃあ、お世話になります」

 と言って、K市の高校に赴任したのだが、ここでは前の学校のようなひどさはなかった。

 生徒にも馴染めてきたので、少しずつ教師としての自信がよみがえってきたことは自覚してきたのだが、事故に遭ったのは、そんな矢先だった。

 今は病院のベッドで、意識不明であったが、命には別条はないという。

「このまま目が覚めないということは考えにくいので、大丈夫です」

 ということだったので、まわりは安心していた。

 そんな彼女が目を覚ましたのは、ちょうどマンションでの飛び降り自殺があったその日の夜だった。

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