第4話 飛び降り自殺
二人と知り合ってから、かなりの日が経ったが、もう気が付けばみゆきは高校二年生、なつみは大学の二年生になっていた。清水刑事と辰巳刑事は自分たちのことを、
「相変わらずだ」
と言っていたが、刑事経験も十分で、清水刑事は上司の門倉刑事の右腕として、辰巳刑事も新人だったことと違って、後輩を指導する目でになっていた。
しかし、二人の仲の良さとコンビの良さは抜群であり、
「相変わらずだ」
というのは、そのことを差しているのかも知れない。
そんな冬のある日、マンションからの飛び降り自殺が発見された。通報を受けた辰巳刑事は、清水刑事に報告してから、すぐに現場に向かった。場所はK市の中でもマンションが多い地区で、事件のあったマンションは、その中でも高い部類の場所であった。
「ご苦労様です」
と、近くの交番から巡査が来ていて、辰巳刑事の現れるのを今か今かと待っている様子だった。
五十嵐というこの巡査はまだ若く、辰巳刑事と同じくらいの年ではないだろうか。
――友達になれそうだな――
と、辰巳刑事は思っていたが、五十嵐巡査の方は、
――刑事と友達なんて、恐れ多い――
と、謙虚なところがあった。
それでも、彼には刑事への意欲はあるようで、昇進試験の勉強をコツコツしているという話を聞いたことがあった。
「勉強、頑張っているかい?」
と、辰巳が声を掛けると、
「あ、はい。ありがとうございます」
と、照れ臭そうに顔を真っ赤にして答えた。
そんな五十嵐巡査が可愛くて、思わず吹き出してしまいそうだった。
しかし、すぐに事件のことを確認しなければならない。
「五十嵐君、状況はどうなっているのかね?」
と聞かれた五十嵐巡査は、
「ええっと、今から十五分ほど前に通報がありまして、ここに駆け付けたんですが、対象の方はここのマンションの屋上から飛び降りたようで、すでにひどい状態で、即死のようでした。飛び降りたのは、ちょうど通報がある五分前くらいだったということでしたので、時間にして、昼の一時半くらいではないでしょうか? ちょうどこのあたりは人通りも少ない場所でもありますので、人が飛び降りるまで誰も気づかなかったようですね。第一発見者の方にしても、ドカンという音が聞こえて行ってみると、人が俯せになって地面から真っ赤な血が流れ出ていたということでした。マンションの中庭になりそうなところですから音が反響したんでしょうが、それにしても、影になっているところから音が聞こえてきたのですから、結構な音だったということが分かりそうです」
と説明してくれた。
この場合、被害者でもなければ、犠牲者でもない。何と表現していいのか難しいところであろう。
「もう息がないというのは、君が確認したのかね?」
と訊かれた五十嵐巡査は、
「いいえ、ちょうど第一発見者の方が、元看護師の方だったようで、それで診てもらいました」
「女性の方だったのかい?」
「ええ、かなりすごい惨状だったのに、最初こそ、気持ち悪がって、近づけない様子でしたが、すぐに我に返って、脈を診てくれたりしました。そこで、その人が元看護師だと思えてもらいました」
と言われて、辰巳刑事は改めて、死体のそばから空を見上げた。
ちょうど飛び降りたであろうと思われるそのマンションの屋上は、下から見上げても、相当の高さが感じられた。高いところから下を見下ろす方が、下から見上げるよりも数倍遠くに見えるものであることを分かっている辰巳刑事は、思わずため息をつかずにはいられなかった。
すでに非常線が張られ、まわりには野次馬が集まってきていた。警察の鑑識も到着していて、どうやら、マンションの屋上を見ているようだ。
それはそうだろう、死体は下にあると言っても、最後になってしまった場所は屋上だからである。
「五十嵐君は上に上がってみたかい?」
「いえ、辰巳刑事をお待ちしておりました」
というのを聞くと、
「じゃあ、下にいる間に、第一発見者の方に話を聞いてみようか」
と辰巳刑事がいうと、
「ええ、今待たせておりますので、呼んできましょう」
というので、
「いや、こちらから行こう。また死体を見せるのは、いくら元看護師で慣れているかも知れないとはいえ、気の毒だ」
と、辰巳刑事は第一発見者の人に気を遣ったのだ。
人ごみの向こうで、第一発見者の女性が、鑑識の人と話をしていたようだが、辰巳刑事が来たのを見て、
「ご協力ありがとうございます」
と言って、その場を辰巳刑事に渡してくれた。
その鑑識の人は見覚えのある人で、今までの事件でも何度か一緒になったことがあったのだろう。
「大丈夫ですか? 何度もお聞きするかも知れませんが、これも職務ですので、申し訳ございません」
と言って、辰巳刑事は彼女に頭を下げた。
その姿を見て、
「辰巳さんですよね?」
と思わず名前を呼ばれて辰巳刑事はビックリした。
「あ、はい。でもどうして私を?」
「私は以前にF大学附属病院で看護師をしていたことがあったんです。その時、辰巳刑事を何度かお見掛けしたことがあったんですよ。こうやって直接にお話しすることはございませんでしたが」
と彼女は言った。
「そうでしたか、看護師をお辞めになっても、こんな事件に遭遇するなんて、お気の毒に思います」
と辰巳刑事がいうと、
「いえ、こうして辰巳刑事にまたお会いできたのだから、私、嬉しいくらいですよ。あっ、こんな場面で嬉しいなんて言ったりしたら不謹慎ですかね?」
と彼女は戸惑った。
「いえいえ、嬉しいと言っていただけたことは、素直に喜んでいますよ。嬉しいです」
と言って、辰巳刑事もまんざらでもないかのように、ニコニコ顔である。
「何でも聞いてくださいね。辰巳さん」
と彼女は辰巳の顔を見つめていた。
「まずお名前をお聞きしていいですか?」
「私は、柊三雲といいます。年齢は二十五歳です。今はパートで近くのスーパーに勤めているんですが、今日はお休みだったので、休みの日の日課なんですが、散歩に出かけて、このような場所に出くわしたというわけです」
「その散歩というのは、いつも同じコース、同じ時間なんですか?」
「コースはほとんど同じですけど、時間は変わります。でも、同じ季節であれば、そんなに変わることはありません。冬は真昼で、夏は日が暮れるか暮れないかというくらいの時間になりますね」
「じゃあ、昨日も同じくらいの時間だったんですか?」
「ええ、そうですね」
「昨日までは何も変わったことはなかったということですね?」
「ええ、そうです」
「私が思ったのは、自殺を試みて、一回で成功するというのはかなりの勇気のいることだと思うんですよ。でも、逆に言えば、一度できなかったら、次はそう簡単にできなくなるものだとも言えるので、上にはいなかったと思うんですよ。それで、下から上を覗いていたんじゃないかと思ってですね」
と辰巳刑事がいうと、
「そうですね、自殺された方の思いつめたような表情が頭に浮かんできそうですね。ただ、俯せだったので、その顔は分からなかったので、今でもあの方が誰なのか分かっていません」
と、三雲は言った。
「あなたは、あの人が飛び降りた瞬間はごらんになっていないんですよね?」
「ええ、落ちた音しか聞こえませんでしたので、何が起こったのかお分かりませんでした。ドカンという音がしたというのは、それが人が落ちたという事実を見たからなのではないかとも思ったのですが、後から思うと、ドカンというよりも、グシャという音だったような気もします。関節が砕けるようなそんな音とでもいえばいいのか、見た目は綺麗に俯せになっていますが、実際には跳ねたりしているかも知れないと、後から感じています」
「なるほど、でも何と言っても、空から落ちてきたようなものなので、即死なのは間違いないんでしょうね?」
「私はそうだと思います。空中でショック死している可能性もあるんじゃないかと思いますね。自殺する人はそのことまで分かっている人もいると思うんですよ。本当に高いところから飛び降りるのは、下手に生き残りたくないという思いがあるからなんでしょうが、せっかく死のうというのに生き残りたいという矛盾や、もし生き残りでもして、その後の人生を後遺症とともに生きなけれbあいけないのであれば、何のために自殺をするのかということですよね。死のうと思ったことへの矛盾をどう考えるかということと、全身打撲の前に死にたいという思いとが交錯しての高所からの飛び降りなんじゃないかって思います」
と、さすが元看護師と思わせるような発言だった。
「でも、私などが考えると、もし下を誰かが歩いていたりしたらって思うんですよ。今の柊さんのお話で考えると、確実に死にたいという思いがあれば、下に人がいると困るわけですよね? ショックが和らげられて、死にきれない場合もないとはいえない。確かに今言われたように、上空で息絶えているのであれば、その問題はないのでしょうが、万が一死にきれていなければ、人に当たって、お互いに重症になったりする場合もないわけではないと思うんですよ」
と辰巳刑事がいうと、
「私はさすがに飛び降り自殺までは考えたことはなかったんですが、飛び降りする人の心理というものを考えたことがあります。さっきの私の話とは矛盾するんですが、死を目の前にして、屋上の飛び降りの場面に自分が立った時、やはりどんなに覚悟を決めていてもどうしても、躊躇のようなものはあるようなんです。下に植え込みが見えれば、少しでもそっちに落ちて、楽に死にたいなどという思いで、死ねなかったらどうしようとも感じているくせに、そういう直感的な思いが矛盾となるんですよね。でもそういう直感というのはいざという時に影響するものであって、自然と植え込みの方に近づくんじゃないかっていう思いもあります。どんどん落下速度が家族するうちに、次第におじけづいていく、でももう止めることができない矛盾を感じて死んでいく。その間は一瞬のことなのかも知れないですが、きっと一つの物語ができるほどの長い時間がその人の中だけで繰り広げられ運じゃないかってですね。私はこの感覚が何かに似ているような気がするんです」
と三雲がいうと、
「その何かというのは?」
「夢の世界のような感覚なんですよ。夢というのは、どんなに長くて、時間的に長期に渡っているような内容でも、実際には目が覚める数秒で見ているのではないかと言われています。飛び降りてから死ぬまでの一瞬のうちに、それから見るはずだった夢を一気に見てしまうのではないかというのは、相当乱暴ではあるんですが、考えられないことではないのかなって感じました」
辰巳は、事情聴取がかなり違った方向に流れているのを意識していたが、第一発見者としてあまり詳しくは見ていないことが分かっているので、それならばということもあり、いろいろ話を聞いてみたいと思った。
実際に三雲の話には興味があり、
――こういう話が好きな人、俺のまわりにもいたよな――
と思わせた。
その人もいつの間にか辰巳を自分の話のペースに巻き込むようにして話をしている。その話を聞くのもまんざらではないと思っている辰巳にとって、その人との話でこういう難しい話にも免疫ができているので、興味深く聞くことができている。
逆に五十嵐巡査の方は、こういう話に免疫などあるはずもなく、辰巳刑事が真剣に聞いているから自分も聴いていると思っているだけで、正直、頭の中に残っているわけではなかった。
しかし、五十嵐巡査は、
「興味のない話でも、聞いていれば結構記憶として残っているものだ」
ということに実はこの時初めて気づくのだが、それが今後の自分にどのような影響を与えるかまでは分かっていなかった。
それでも、二人の話を聞いていて、ウンザリしていたはずなのに、いつの間にか話に引き込まれているような気がして不思議だった。記憶に残っているのも無理もないことなのだろう。
辰巳は三雲の話を聞いていて、自殺をする人の心境など、分かるはずはないと思い、さらに、分かりたくもないと思っていた自分の心境が、今少し変わってきているように思えてならなかった。
勧善懲悪が彼のモットーのように思っていたので、
「自殺はどんなことがあっても、許されることではない」
という思いがあった。
確かに自殺したくなる気持ちも分からなくもないが、自殺する人は、自殺を思いとどまるような素振りがまったくないようにしか表面上は見えないので、そう思うしかなかったのだが、三雲の証言の中にあった、
「自殺しようとしている人でもm植え込みに落ちれば楽ではないか」
という矛盾の話を聞いた時、
「人間というのは矛盾があるからこそ、自殺を思いとどまるひとだっているんだ」
ということで、その矛盾を肯定したくなる気分になっていた。ひいてはそれが、飛躍した発想で、
「自殺もある意味、仕方のないことなのかも知れない」
とさえ、考えるようにもなった。
だが、その思いは我に返って考えると、すぐに打ち消している自分がいたのだ。
理由としては今までに何度も、自殺の場所に捜査で赴き、そのたびに遺族の悲しみを見てきたではないか。
「なんで家族を残して自分だけ死んじゃうんだ。見ていられない」
という感情がいつも湧いてきているはずではないか。
もちろん、遺族側から板一方的な見方であり、自殺した人の気持ちを考えきれないからそう思うのであって、それは仕方のないことであろう。
「死んでしまったら、もう何も言うことができないんだ」
と、そこで改めて死んでしまうことの虚しさのようなものを感じるのだが、さすがに辰巳刑事も、こういう時のお決まりのセリフとしての、
「生きていれば、そのうちにいいことだってあるさ」
などという中途半端で、何の根拠もないセリフを吐くことはできなかった。
むしろ嫌悪を感じるほどのセリフであって、
「こんなセリフ、絶対に口にはできない」
と思うほどだった。
こんなセリフは誰に対しても言えるものではない。まして遺族に対していうと、傷口に塩を塗るのと同じで、却って相手の抑えている気持ちに火をつける結果になるように思えたのだ。
だとしたら、
「こんなセリフは、口に出すことはおろか、考えることも罪ではないか」
と思うようになった。
その思いが嵩じてなのか、今まで刑事としても、人間としても、
「自殺することはまったくもって容認できない」
と思うようになった。
それは、
「死んで花実が咲くものか」
という言葉に近いかも知れない。
「人間、死んでしまえばそれまでなんだ」
という思いでもある。
もちろん、遺族にそんな言葉を吐けるわけもないが、自殺を自分を殺すという意味で罪だという考え方は、宗教的であるという感覚もあり、どこまで自分の信念にしていいのかという思いもあったので、三雲の話を聞きながら、死にゆく人の気持ちを初めて考えてみたのだという気がしていた。
考えてみれば、三雲のような立場の人は、きっと自殺は絶対に許されないと思っているはずだと思っていた。なぜなら、生きたくても生きられない人が病院にはたくさんいるはずだからである。不治の病で入院している人だっていただろう。現在の医学ではどうすることもできない人に、心の中にその運命を隠して接しなければいけない辛さは、想像を絶するものだったに違いない。
三雲と一緒にいると、今まで考えたことのないことを考えさせられ、何か不思議な感覚に陥った。
「これではどちらが質問しているのか、分からないではないか」
という思いがあったのだ。
「柊さんのお話は非常に興味があります。今まで考えていた自殺への思いが、少し変わった気がするくらいなんですよ。正直今まで自殺した人の気持ちを考えたことがなかったんです。実際にもう死んでしまっているわけだからですね。それに刑事という職業柄、どうしても残された遺族の思いを目の前に見せつけられることばかりなので、自殺を悪いこととしてしか見ることができませんでした。きっと、頭の中には勧善懲悪という感覚がこびりついているのかも知れないです」
と辰巳刑事は言った。
「それが辰巳さんのいいところなんですよ。私好きですよ、。辰巳さんのそんなところが」
と、三雲に言われて、何も言い返せなくなるほどに照れている辰巳刑事を見て、そんな姿を初めて魅せられたと思った五十嵐巡査は、
――辰巳さんでも、こんなに照れることがあるんだな――
と思って感心した。
この感心した思いは、逆に刑事という、巡査から見れば雲の上のような階級の人が、少しでも自分と同じ立場になるんだというものであり、親近感がさらに湧いてきたような気がして、見ていて微笑ましさを感じていた。
辰巳刑事は、そばに五十嵐巡査がいることも、そして自分たちを意識して見ていることも分かっていたが、分かっているだけに、余計に恥ずかしさが倍増する。ただ、言い訳がましい態度はしたくはなく、まだ、大っぴらに照れている方が、自分らしいと思うのだった。
しばし目に見えて照れ臭がっていた辰巳刑事だったが、自力で冷静さを取り戻すと、
「どうもお忙しいところを事情聴取にお付き合いいただき、ありがとうございました。また何かありましたら、遠慮なく私に連絡いただければ、お話に伺いますね」
というと、
「ええ、私も思い出したことか何かあれば、ぜひ辰巳さんに逢いにいきますね」
と三雲は答えた。
「ご連絡します」
ではなく、
「逢いにいきます」
というのは、刺激的な言い回しだ。またしても照れている辰巳刑事だったが、今回はすぐに我に返ったようだった。
「失礼します」
という三雲を無言で頭を下げた辰巳刑事は、五十嵐巡査を振り返り、
「じゃあ、ちょっと鑑識さんに聞きに行こうか?」
と、エレベーターに乗って、屋上まで行った。
このマンションの屋上に行けば、鑑識さんのそばに見慣れない一人の男性が佇んでいて、鑑識から聞かれたことに、答えているようだった。
「あの人は?」
と辰巳刑事が五十嵐巡査に聞くと、
「ああ、このマンションの管理人をしている人ですよ。このマンションは、普段から防犯のために屋上にはいけないようになっているらしいんですが、どうやって飛び降りが行われたのかの検証に呼ばれたようです」
という返事だった。
「えっ、ということは、このマンションでは一部の人しか、普段は屋上に入れないということなのか?」
「ええ、これだけ大きなマンションで、十階の屋上ですよ。それこそ飛び降りがあってはいけないということだったのに、その一番恐れていたことが起こってしまったということで一番ビックリしているのは、管理人のようです」
という五十嵐巡査の話を聞きながら、辰巳刑事は飛び降りたと思われる場所、つまりは鑑識が調べている場所に歩み寄った。
管理人と呼ばれたその男が辰巳に気付いて頭を下げる。辰巳もつられるように頭を下げたが、その様子はいかにも事件現場という緊張した雰囲気を醸し出していた。
「何か分かったかい?」
と辰巳刑事が馴染みの鑑識管に訊いた。
「はい、辰巳刑事。どうやら、あのあたりから飛び降りたのは間違いないようです。指紋がバッチリ残っているのと、手前に揃えられた靴、そして遺書らしきものが置かれているからですね」
「遺書があったのかい?」
「ええ、実に短い文章で、誰宛てというわけではなかったんですが、それだけに亡くなったかたの無念のようなものが感じられて、やるせない気分にさせられますよね。自殺するなりの理由はあったのでしょうが、言葉で残さなかったのには、何か心境として強いものがあったのを暗示しているような気がします」
二人がそういう話をしているのを、管理人は恐々と見ていた。
その様子はまるで自分も疑われているのではないかという思いなのか、それとも、このマンションで自殺者が出たということで、自分の責任問題にならないかという不安からなのかよく分からなかったが、少なくとも、普段は締め切っているはずのマンションに誰かが屋上に侵入して自殺を試みて。それが成就されたことにかわりはない。その事実がある以上、不安に感じられてもそれは無理のないことだろう。
「管理人さん、ここは普段カギが締まっているということだったのですが、今日はどうして侵入していたんですか?」
というと急に聞かれた管理人はさらにビックリして、
「私のも分からないんです。カギはいつも管理人室に置いてあり、実際にロックのかかる扉の中にカギは入っていますから、取り出すことはできないはずなんですが」
というと、
「スペアキーを作ることはできるんですか?」
「それはできると思います。マンションの個々の部屋のキーはもちろんスペアキーを作ることができないように加工していますが、屋上まではそこまでしていませんでした。でも、ロックのかかるキー収納ボックスに入れているので、基本的には私が開けない限り開かないはずなんです」
「でも、人間なので、何かのはずみで開けっ放しにしていたということもあるのでは?」
と言われて、管理人は急に何かを思い出したのか、考え始めた。
「そういえば、あれは一か月くらい前だったですかね。管理人室のすぐ表に、プレハブの倉庫のようなものがあるんですが、そこでちょっとしたボヤがあったんです。その時、すぐにはボヤだとも分からずに、近くで何か音がしたと思ったんですね。カギが必要かと思ってキーボックスを開けるところまでしたんですが、プレハブにカギはかかっていなかったことを思い出し、取るものもとりあえずに行ってみると、少しだけ燃えていたんです。急いで消火器で火は消してから、警察に通報したんですが、その少しの間、キーケースが開いていたと思います。確か、あの時は巡回が終わって、管理人室に戻ってすぐに他のカギをしまおうとしていた時でもあったような気がしました。今から思えば、狙われていたのかも知れないです」
と管理人は考え込んだ。
「屋上には、毎日巡回に行かれるんですか?」
と辰巳刑事が聞くと、
「いいえ、毎日は行きません、定期的に行くとしても、週に一回くらいですかね。でも最近はあまり行かなくなりました。屋上で何か点検でもあれば別ですが」
「ということは、少しの間、屋上のカギがなくなっていたとしても、不思議には思わないんですね?」
「ええ、そういうことになります」
と管理人はそこまで言って、自分からこの話に乗ってくることはなかった。
辰巳刑事はその時、若干の違和感を抱いた。
――もし、誰かがスペアキーを作ったとして、このマスターキーをいつ管理人の気付かないうちに戻したというのだろう? そのことをおかしいと思わないわけもない。何しろ管理人なんだから――
と感じた。
考えてみれば、それを口にしなかったのは、管理人の中で何か言えない理由か疑念があったのかも知れない。そう思うと、管理人に対して何か胡散臭さを感じたが、今ここでそのことを敢えて口にすることは控えた。
少なくとも、これが自殺であれば、余計なことを蒸し返すこともないだろう。しかも管理人が自分の不注意を自覚しているのであれば、わざわざ指摘することもないはずだからである。
そんなことを考えながら鑑識が動いているのを漠然と見ていた横で、五十嵐巡査が呟くように言った。
「最近、何かこの街には、事故やら自殺が多いような気がするな」
という言葉を聞いた辰巳刑事は、
「そうなのか? 最近も、何かあったのかい?」
と言われた五十嵐巡査は、
「ええ、ここ三日ほど前には、ひき逃げ事件もこの近くであったんです。犯人は出頭してくることもなく、今捜査中のようですが、結構悪質なんじゃないかって思っています」
「被害者の人はどうなったの?」
と聞かれた五十嵐巡査は、
「病院に搬送されたんですが、集中治療室に運ばれて、今も意識不明の重体だということです。あれも痛ましい事件でした」
と、しみじみ語った。
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