第3話 犯罪論と歴史学
世間の常識を覆すというのは、一般的に誰もが感じていること、つまりは圧倒的多数であれば、それは常識になりうるだけの力を持っているということになるだけで、少数派が別に世間の常識に逆らっているというわけではない。どうしても民主主義の考え方から、過剰に多数を正義と思いがちだが、決してそんなことはない。何かを決定しなければいけない時、常識として考えられている方を選択するというのが民主主義的考え方で、多数決というのは、まさにそのことなのだろう。
自由というのは、必ず競争が起きるもので、競争によって巻き起こる差別化や摩擦は、世間全体には好影響を与えるだろう。
しかし、すべてにおいて好影響というわけではない。競争は勝者と敗者を呼び、まわりの目は必然的に勝者を強者と呼び、敗者を弱者と決めつける。この決めつけが恐ろしいのだ。敗者自身も自分のことを弱者だと思い込んでしまうと、一度の敗北で立ち直ることのできない状態に陥ってしまう。
また、競争の産物である差別化と摩擦は、世間的には文明の発達を早める効果はあるのだが、それはあくまでも全体的に見てということであり、個人的には、強弱の差、つまりは貧富の差を歴然としたものにして、生活水準全体は下がることになるのではないだろうか。
いくら世間全体が発展しても、個々の生活水準が落ち込んでしまっては、まるで、
「国破れて山河あり」
とでもいうべきなのではないだろうか。
そういう意味での急激な民主化がどのような結果を生むかは歴史が証明していることだろう。しかしそんな民主主義の悪いところを是正する意味で生まれた共産主義的考え方も、政治的に利用されると、独裁制を生み、個人の貧富の差をなくすことが目的だったはずなのに、元々よかったはずの社会全体の発展がまったくなくなってしまい、そうなると、個々の生活水準どころの話ではなくなってくる。貧富の差が解消されたわけではなく、富裕層がまったくいなくなって、一部政治家、財閥など、特権階級なる人たちだけが利益を貪ることになる。つまり住民にいくはずのお金がすべて、一部の人間だけで分散されるという構図はまさに悲惨である、情報統制や恐怖政治が蔓延ってしまい、逆らうと投獄、拷問、何でもありの恐ろしい世界になることだろう。
すべての共産主義国がそうだとは言わないが、少なくとも歴史上の共産国はそうやって生き延びようとして、結局息づあったことで、崩壊してしまうことになったのだ。
しかもその後の急激な民主化で社会は混乱する。これも歴史が証明している。
資本主義、民主主義世界にとって、共産国政府は撲滅すべき、
「仮想敵国」
でしかないのだ。
みゆきとはさすがにこのような硬い話はできないが、なつみの方は結構、歴史の話は好きなようである。大学も、
「歴史に進むか、法律に進むか」
の二択だった。
前述のように、一択と公言しておきながら、最初に迷ったのは歴史とであった。
確かに歴史というのは、法律とは切っても切り離せない関係にあるだろう。独学であっても、勉強してみると結構面白い。法律を独学するよりもかなり簡単だ。何しろ歴史は事実の積み重ねであり、一つ一つ理解して時系列に準じて進めば、たいていのことは分かってくるはずである。
しかし、法律は用語も難しければ、何と言っても解釈が問題になってくる。法律に書かれていることは一つであっても、その時々で解釈が違う。人間が裁いているのだからそれは当たり前のことであり、しかも、刻一刻と変わる社会情勢に照らせば、それも当たり前のことだ。
たとえば、似たような事件であっても、その背景にどれほど社会的な反響を呼ぶかで判決も変わってくる。極端な話、同じ暴行殺人であっても、相手が幼い女の子である場合と、主婦である場合、あるいは、独身女性によっても変わってくる。さらに、犯人が一般人か、メディアへの露出度が高い人間であれば、
「社会的影響が大きい」
という理由で、罪が重くなったりする場合もある。
どこか理不尽なところもあるが、確かに芸能人やスポーツ選手、政治家などは、世間的にもマスコミの餌食になったりすることで、社会的な影響も当然大きくなってくる。
なつみは、最初、
――そんなのは理不尽だ――
と思っていたが、最近ではそうでもなくなってきた。
逆に皆同じ判で押したような裁きであれば、そもそも裁判など必要がない。被告を刑法に照らして、裁判官の裁量で決めればいいだけだ。何も裁判を開いて、検察側、弁護側に分かれて、何度も証人尋問を行ったりして、時間をかける必要などないからだ。
検察は法律に則った求刑を、警察が捜査した事実と、証人の証言を考慮して、言い渡すことになる。弁護士は、被告が犯人であることは間違いとなれば、いかに減給させようかを目指す。もちろん、無罪の可能性があるのであれば、何とか無罪に持ち込もうといろいろ考える。下手をすれば、被告の精神鑑定までも求めることになるだろう。
弁護側はあくまでも被告の利益を守る。それが弁護士の使命であり、存在意義でもあるのだ。それができなければ、弁護士としての資格がないと言ってもいいだろう。
時には弁護士はえげつないことをする。
「何もそこまでしなくても」
と言えるような、欺瞞と思える行為を行うこともあるが、あくまでも被告の利益を守ることが最優先なのだ。
真実がいくら被告の罪状を指し示していても、いかにして情状酌量を目指すかという点で、法律すれすれを考える。これも弁護士としての立派な仕事なのだ。
確かに冤罪というものはあってはならないが、過剰な被告への擁護によって、被告が無罪放免になったりしても、それが世間のためによかったのかどうか、難しいところである。
「犯罪者は、同じ犯罪を繰り返す」
とよく言われる。
無罪放免にしてしまったということは、そんな野獣のような犯人を野に放ったことになる。
しかも、絶対に処罰は免れられないというところを免れたのだ。普通の人なら、
「これを機に改心しよう」
と思うのだろうが、病的な犯罪者にはその理屈は通用しない。
つまり、
「同じことをしても、また弁護士が助けてくれる」
と思うのだ。
特にその人間が、裕福な家庭、特権階級的な位置にいる父親を持っているとすれば、余計にそう考えるだろう。弁護費用がどれほど掛かったなどということも分かるはずもない。自分がどれほどまわりに迷惑を掛けているのかということを知りもせずに、まわりはそれに翻弄されて後追いで動くしかない。
ただ、それも自分の利益を守るためであり、その思いが教育という形で息子に影響したのか、それともそんな精神を持った親から生まれたことで、持って生まれた性格が最初からそうさせたのか分からないが、まわりに罪がないというわけでもない。
全体として一つの大きな罪を作り出しているのだ。何が罪だと言って、
「罪を罪とも思わない」
という感情ではないだろうか。
こんな犯人にとって、世の中の常識など通るわけはない。さらに何が悪いといって、自分が罪を犯しているという自覚がないことと、何かは感じているのだろうが、それをスリルのように思い、楽しいなどと感じているとすれば、もう病気と言ってもいいだろう。
「救いようのないバカ」
というべきこんな人間は、きっといつまでも犯罪を繰り返すに違いない。
確かに一度犯罪を犯したからと言って、その人がすべて悪いと言い切るのは、怖いことだ。
しかし、それはその人や、その犯罪の起きた背景をすべて知っての上であれば、いくらでもそんな論争をしてもいいのだろうが、何も分からず、しかも知ろうと最初からしないのであれば、それこそが罪というべきではないだろうか。理由や背景も知らずに、状況だけでいい悪いを判断する方が、よほど罪深いと言えるのではないだろうか。
なつみは、最近そんな風に考えるようになった。
なつみは専攻を刑事訴訟法に置いていた。将来何になりたいかということまではハッキリと頭の中に描いているわけではないが、三年生になれば、ゼミに入ることになり、入ろうと思っているゼミは、結構裁判の傍聴など積極的に出かけていくゼミであった。
なつみととっては願ってもない講義であった。
大学内で教材を元に皆で研究するのもいいが、生の裁判風景を見るのはこれほど勉強になることはない。
実際の被告、原告、そして検察側、弁護側。さらに裁判官に裁判員などを目の当たりにすると、
「きっと、生の迫力に圧倒されるかも知れないわ」
と感じるのだった。
裁判の起訴事実にもよるであろうが、刃傷沙汰の事件なども結構あるに違いない。人道的には許されないことであっても、被告の財産を守ろうとして必死に戦う弁護士も見てみたいという思いもあった。
「しょせん、万民のすべてが納得するような裁きが、この複雑化した世の中で、そう簡単にできるわけはないんだ。遠山の金さんじゃあるまいし」
となつみは考えていた。
まだ、実際に見たことのない裁判風景なので、どんなものなのか、大いに脅威があった。同じ学生の中でも自分は、他の人と少し違った目で裁判を見ることになると思っている。
なつみがいつも自分のことを顧みた時考えるのは、
「私は他人と同じでは嫌だ」
という感覚であった。
もし、誰かと一人と一緒であると言われたのであれば、その一人が妹のみゆきであってほしいとなつみは思っていた。
自分たち姉妹は、他の人たちとは違っている。みゆきは明らかに違っているのが分かるのだが、そんなみゆきが自分のことを、
「頭が足りない」
と言っているのを、なつみは否定しようとは思わない。
ただ、頭が足りないのではなく、他の人と違っているから、他の人から見ればそう見えるだけであって、逆に、
――他の人の頭が皆足りないだけで、足りているのはみゆきだけなのではないか――
と思うようになっていた。
法律に結構明るくなったなつみを見て、清水刑事は、
「大人になって頼もしくなった」
と思っているようだが、辰巳刑事は少し違っている。
「子供びたところがまったくなくなってしまったようで、少し寂しいな」
と感じるようになっていた。
最初から大人びてはいたが、子供のようなところを残しながらの大人だったのが、辰巳刑事のなつみのいいところだと思っていたのだ。
そういう意味では妹のみゆきは、実に子供っぽい、姉が大人に見えてくるにつれて、妹はどんどん子供に帰っていくようだ。
―ーひょっとして、妹は子供に帰っていってくることで、姉がしっかりしなければいけないという思いに目覚めて、大人びて見えるのかも知れない――
辰巳刑事は、なつみの側から二人の姉妹の関係性を考えるとそう思出た。
しかし、逆にみゆきの側から二人を考えると、
――姉がしっかりしてきているのを見て、妹はどんどんあどけなくなっていき、しかもS自分の頭が足りないという意識が余計に子供に帰らせるのかも知れない――
と感じた。
もしそうであるとすれば、みゆきの頭が足りないと考えている部分は、たぶんに姉のせいと言えなくもない。もちろん、姉にそんな意識があるわけではないのだろうが、妹を見ていて、同情的になってしまったのだとすれば、勘の鋭い妹であれば、姉が考えていることくらい分かるのではないだろうか。
少しでも自分に対して同情的に考えてしまったとすれば、それはみゆきにとって、
「ありがた迷惑」
と言えるのではないだろうか。
まだ若い二人の姉妹なので、しょうがない部分はあるのだろうが、大人になってからの修正はまず利かないだろうから、本当は子供のうちに分かっているなら修正したい。
――まさかとは思うが、なつみには分かっていて、それをどうにもできない自分に苛立ちがあるのかも知れない――
とも思えてきた。
なつみが時々見せる大人の感情は、自分への戒めであり、妹に対しての哀れみを含んでいるとすれば、その苛立ちを誰にも解消させてあげることはできないだろう。
だが、辰巳刑事にはなつみの考えがどうにも分からない。性格的にそれ以上超えることができない結界のようなものがあるような気がしてきた。ただ、それはある意味、なつみにとってのみゆきとの間に何か結界があるのではないかと感じたからだった。
だが、みゆきの側にはなつみに対して結界など何もない。みゆきには結界なるものすら分かっていないのだ。人をシャットアウトする感覚がみゆきにはない。それだけに、
「私は頭が足りないんだわ」
ということに違和感がなく、本当に受け入れているのかどうか分からないが、否定できない自分がいるのだった。
「何事も否定から入るのが自分の性格だ」
と、なつみは思っている。
人と話をする時でも、決して自分に心を開いているわけではないので、全面的に信用しないなどと言った考えも、そのあたりから来ているのではないだろうか。
だが、そこに例外もあった。言うまでもなく、みゆきである。
みゆきに対しては何事も肯定から入る。否定という言葉はみゆきの中にはないのだ。
普通の人が否定だと言っているのは、みゆきにとって一度は受け入れ、受け入れたものを吟味する中での否定であった。それをまわりに意識させないというのは、それだけみゆきの考えが高速で回転しているため、一周して戻ってきても、最初から動いていないようにしか見えないのだ。
みゆきは、頭が足りないのではなく、早すぎてまわりがついてこれないだけなのだ。だからみゆきの言葉を聞いて、皆が彼女の言葉をとんでもない方向に発想していると思っているのだが。実際には、誰もみゆきの見ているものすら見たことがない。そういう意味での先見の明は、みゆきの特徴ということになるであろう。
だから子供に戻っているように見えるのは、それだけ、成長することで、さらに回転が早くなっていることを示しているのかも知れない。一度人生をやり切ったような感覚になっているのかも知れない。
そういえば、
「歳を取ると子供に戻る」
というではないか。
子供というのが、どの時点の子供なのか分からないが、一生を生き抜いて、さらに次の人生の予行演習でもしているのではないかと考えるのは、
「まるで子供の考えだ」
と言われそうだが、これも一生を生き抜いたからこそ感じることができるものなのかも知れない。
みゆきにそこまでの考えがあるとは思えないが、なつみが妹を見守っている中で、少なくとも、子供に戻っているように見えるのは、一周してから戻ってくるのを感じさせるからに違いない。
なつみが歴史や法律について学ぼうと思ったのは、清水刑事と話をするようになってからであろうか。
なつみの中では、
「清水さんは刑事さんなので、きっといろいろ法律のお話とか聞かせてくれるんじゃないかしら?」
と思っていたが、意外とあまり法律関係の話をすることはなかった。
たまに事件の話をしてくれることはあったが、その話が法律的な話になることはなく、どちらかというと、事実関係と、その登場人物の因果関係などの話が多かったような気がする。
事件の中には、歴史を感じさせるものもあり、歴史上の人物を当て嵌めて、清水刑事は話してくれる。清水刑事の話は戦国時代が多いのだが、それは清水刑事が歴史が好きだからだろう。
特に相手が女性であれば、戦国時代の話が一番興味が湧くということを知っていて、それなりに勉強もしているのだろう。なつみが歴史を勉強してみようかと思ったのは、そんな清水刑事の心遣いにほだされて。自分も最低限の知識は身に着けておきたいという思いが強かったからだ。
もっとも、何が最低限なのか、分かるはずもない。
「織田信長は本能寺の変で殺された」
「関ヶ原の戦いで徳川家康が勝ったので、徳川時代が到来した」
まどというのは、誰でも知っていることであるが、
「水戸黄門で有名な水戸光圀は、徳川家康の孫である」
などという話は、歴史通の人には常識であるが、誰でも知っているというほどではない。
そうやって勉強していけば、面白い話や、歴史上の裏話などいろいろ出てきておもしろい。
本であったり、ネットであったり、いろいろと媒体はあるのだ。今のような情報が溢れている時代に、好きなことを勉強しないというのは、考えてみればもったいないことではないだろうか。
それは受験のための詰め込み教育ではない、
「教科書では教えてくれない歴史の本」
などという表題の本が、実際に売られているのだ。
教科書に書いていないことどころか、教科書に載っている事実とされていることを、いとも簡単に否定するその本が、ベストセラーになり、学会で問題にならないどころか、その本の執筆者が歴史研究の第一人者だったりするから、そういう意味でも歴史というのは面白い。
中学生の頃、歴史を授業で受けていて、
「これは面白くない」
と思ってしまうと、なかなか自分で勉強もしないものだ。
だが、勉強していないと、大学に入学してから、友達に歴史好きの人でもいれば、少々のことは常識だと思っているから、何かのキーワードを言われ、キョトンとしてしまうと、相手の視線は明らかに冷めてくるのが分かってくる。
清水刑事も、実は中学高校と歴史が嫌いで、本当に常識的なことも知らなかった。
大学時代の友達から、当たり前のように、
「南京大虐殺」
という言葉を聞かされて、キョトンとしてしまったのを思い出した。
本当に言葉すら聞いたことがなく、相手もそれが分かったのだろう。これ以上その話題に触れることは、お互いに決まづくなると思い、話題を変えた。
さすがにその友達にも、他の人にも恥ずかしくて聞けなかったので、ネットで調べてみた。
「なるほど、これだけのことであれば、知らないというのは恥ずかしいものだ」
と感じた。
実際にあった真実なのかは別にして、問題として歴史上残っているのだから、知らないというのは、やはり恥ずかしいことだった。この時のことがきっかけで清水刑事は歴史を勉強するようになった。まずが、南京大虐殺のあった日華事変(支那事変ともいう)、およびその後に継続された日中戦争、さらには大東亜戦争から第二次世界大戦、そこから時代をどんどん遡って歴史を勉強してきた。歴史認識が一番問われる時代でもあり、呼び方もたくさんある。本来は大東亜戦争のはずの言葉を太平洋戦争と言ってみたり、八年に及ぶ挑戦との紛争は、途中までは事変であり、途中から戦争になったにも関わらず、すべてを通して日中戦争と言ってみたりと、どこまでが連合奥に対しての忖度なのか、あるいは本来の命名の意味を戦勝国が嫌ったというだけではないだろうか、アジアにおける日本も、歴史認識が狂ってしまえば、平和が崩されないとも限らなくなってしまうことであろう。
清水刑事は、他の人と歴史の見どころが少し違うと自分で思っていた。そこが人それぞれであってもいいという清水刑事の考え方とリンクするのだ。
「もし、自分と似ている歴史感覚を持っているとすれば、なつみちゃんかも知れないな」
と思った。
しかも、清水にとっての歴史認識は、人間の性格を考える時と似ている気がするのだ。例えば、
「人間の性格を考える時、いつもまずその人の顔から雰囲気を感じ取って、そこからまず大まかに三段階の性格に分ける。つまりは、怒りっぽい、普通、冷静という風にである。もちろん人間の性格を図る上での指標は無限にあるのだろうが、それを敢えてこの三つに分けるのだ。統計に近いカモ知れないが、一種の血液型で性格を判断するのと似ている。どちらが信憑性があるのかはよく分からないが。まずこの三つに分けることを考える。それができないと先に進まないわけだが、できてしまうとここから、自分に合う性格なのかどうかの判断に入る。いきなり三つからでも難しいのかも知れないが、一度どこかに分類してしまうと、見ているうちに自分に遭うかどうかはわかってくる。自分に合うと思ってるのに、怒りっぽいと思った時は、再度顔を見て考え直す。こういうことを繰り返して、相手の性格を図るのだ。だが、ここで難しいのは、自分の性格を分かっていないと、自分と遭うかどうかなど分かるはずがない。あくまでも、すべてを分かっている必要はない。自分と合うかどうかの判断だけでいいのだ。そこまでくれば相手を捉えたようなもの。後はゆっくりと吟味していけばいいだけだ」
と、簡単に分析はできるが、やってみると、そう簡単にはいかないものだ・
特に刑事のような仕事をしていると、人の性格など分かるはずもない。それも歴史を勉強するとこで、ある程度克服できるような気がしてくるから不思議だった。
今度は歴史の話になるが、歴史というものは、まるで、
「金太郎飴のようなもの」
と言えるのではないだろうか。
どこを切ったとしても、前があり痕がある。今現在だけは後はないのだが、時間は刻々と過ぎているので、今この瞬間も次の瞬間には、先があることになる。まるで心臓が絶えず動いているように、歴史も決して立ち止まることはないのだ。
そういえば、昔テレビ番組で、
「血を吐きながら続けるマラソン」
という表現を見たことがあった。
それは、冷戦当時の核開発競争を皮肉った言葉であったが、なるほどと思わせる。
しかも、その映像は、ハツカネズミが小屋の中で、永遠に回り続ける丸い檻を先を知るとも知れず、走っている。ハツカネズミに意志があるわけもないのだが、走らされていることをいかに感じているだろうか。そもそも、
「やらされている」
という意識があるのだろうか。
いくら前を向いて追いつこうと走ってみても絶対に追いつけるわけがないのが、世の中である。
時間の流れ、歴史の流れ、それは果たして一緒なのだろうか。歴史の流れ、時間の流れ、自分と相手を比較してみれば、よく分かるのかも知れない。相手のことを考えようとすれば、まるで自分のことを見失っていくようで怖いのだ。
時間の流れは、落ち着いて自分たちを冷静な場所に置いてはくれない。絶えず動いている中で判断させたり、考えさせる。しかも相手も動いているのだ。まるで慣性の法則を見ているかのように、飛び上がった場合、どこに着地するかが当たり前のように分かっている自分たちは、時間に支配されることはないだろう。
それが人間というものだ。
歴史を勉強していると、前と後ろの関係を嫌というほど思い知らされる。歴史は新しい人が出てきたかと思うと、すぐに違う人に変わっている。人間というのは寿命があるから当たり前のことなのだが、よく言われる話で、
「私は歴史に選ばれたものだ」
などというセリフをよく聞くが、果たしてそうなのだろうか?
時代がその人を欲したのだとすれば、歴史に選ばれたという表現とは少し違っているように思う。時代はその時々に存在している者であり、歴史は後から作られるものだ。
歴史に学ぶことはできるが時代に学ぶことはできない。逆に時代は追いかけることができるが、歴史は追いかけることはできない。あくまでも受動的なものだからだ。
小説にも歴史と時代があるが、史実に忠実なものが歴史小説。時代小説は少々歴史が違っていても、フィクションとして読めるものを差すというが、考え方としては同じようなものではないだろうか。歴史小説と、時代小説、どちらが好きかは人それぞれだが、清水はどちらかというと歴史小説である。ただ、基本的に歴史ものを小説で読むことは少なかった。
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