チアノーゼの口付け


 俺は、アイツを諦めたその日に、ようやく英汰えいたの本心を知った。



 放課後、電話に出ない英汰を探して校内をウロついていた俺は、屋上へ続く階段で目撃してしまった。英汰と下級生の女子がキスしているのを。俺は、あの子が彼女だなんて知らない。

 そうか。もう、この気持ちに整理をつけなくちゃいけないんだ。


 動揺して逃げ出した俺は、土砂降りの中を駆けて帰った。英汰と一緒に帰るのは、小学生の頃から毎日変わらない事なのに。


 夕立ちに降られるとそこそこ冷える初夏。雨宿りで潜り込んだ廃屋の軒先に、英汰が俺を追って駆け込んで来た。

 とにかく、英汰と口を聞きたくなかった。今は顔も見たくない。なのに、英汰はいつもと変わらない様子で、俺は無性に腹が立った。



「うへぇ~····びっしょびしょ。おいヒロ、なんで先帰んだよ。慌てて追っかけたから傘忘れたじゃん」


 馬鹿じゃないのか。雨が降ってるのに、傘を忘れる奴がいるかよ。いつもなら、そんな悪態をついて笑い合えただろう。

 けれど、言葉が喉を出ない。吐き出したい言葉と、建前のそれがつっかえている。苦しい。

 耐えられなくなって、俺は雨の中に消えようとした。それなのに、英汰が俺の腕を掴む。


「なっ!? 離せよ!」


「雨ン中帰んのかよ。つぅか··え、なに? なんか怒ってんの? 俺なんかした?」


 何もしていない。英汰は悪くない。俺がおかしいだけだ。

 明るい茶髪から滴る水滴が首筋を伝う。濡れて透けたシャツが、妙に色っぽい。きっと、幼馴染のキスシーンなんかを見てしまった所為だ。


「ごめん。違う····。分かんないけど、今··お前の顔見れない」


「なんで?」


「とりあえず、手離して」


「あぁ、ごめん····」


 英汰はパッと手を離し、捨てられた子犬の様につぶらな瞳を俺に向ける。

 

「つぅかさみぃな····」


 確かに、セミが泣き始めているとは思えないくらい、気温が落ちている。


「ヒロ、震えてねぇ? 大丈夫か?」


「····大丈夫。ちょっと寒いだけだから」


「あー····わりぃ。俺もびしょ濡れだから、服貸してやれねぇわ」


「バ、バーカ。頼んでないよ。そういうのは······か、彼女にしてあげなよ」


「は? 俺、彼女なんかいねぇし。知ってんだろ? 嫌味かよ」


「だっ··て····、今日、女の子とキスしてたじゃん! ····あ、えっと、ごめん。お前探してたら、たまたま見ちゃって····」


「あぁ、アレか。····告られたんだよ。んで、断ったら強引にされたの。思い出だとか言ってたけど、ないわ~」


 頭の後ろで手を組み、ゲンナリした表情で言う英汰。きっと、それが真実なのだろう。誤魔化したり嘘をつくような奴ではない。

 けれど、キスをしたという事実が、俺の中で黒い渦を巻いている。俺の知る限り、英汰のファーストキスだ。


「んで? ヒロはなんでそんな機嫌わりぃの?」


「別に····」


「あっ、俺の事とられたとか思った?」


 茶化すように言う英汰に、苛立ちが募ってゆく。けれど、日頃から『彼女ほしぃ~』なんて喚いてる奴に、男の俺が言える事などない。


「思ってないよ。遊べなくなるな~って、そんくらいだから」


「······強がってんじゃねぇよ」


 英汰がポソッと呟いた。雨の音で聞き取れなかったが、どうして苛立った顔をしているのだろう。


「え? ごめん、聞こえなかった。何?」


 英汰は何も言わずに、そっと俺の手をとる。ゆっくりと胸の前まで持ち上げ、スローモーションのように指を絡めた。

 絡む指先の熱が、これが夢ではないと思い知らせる。どうか夢であってくれ。これ以上、俺がコイツを想ってしまう前に。


「俺さ、ちっさい時からお前の事見てんじゃん。だから、だいたい分かんだよな。お前の表情かお見たらさ、お前が何考えてんのか」 


 一気に顔が熱くなる。

 俺は今、どんな表情をしているのだろう。コイツがここに駆け込んできた時からずっと、どんな表情だっただろうか。


「お前さ、俺のこと好きだろ。それもかなり前から」


「なっ··!? ち、違····」


「違わねーよ。俺がお前のこと間違えるかよ」


「何言って──」


「とっくにバレてんだって! なぁ、なんで“好き”って言わねぇの? ずっと待ってんだけど」


「····は? え、なに? どういう事?」


「お前が告ってきたらオッケーするつもりでいたの! どんだけ待ってると思ってんだよ」


「なんだよそれ····。いや、でもお前、いつも彼女欲しいって言ってたじゃん····」


「ダチの前で、お前に告られんの待ってるとか言えるかよ。あれは周りに合わせてただけ。····って、え、その所為で言えなかったの?」


 馬鹿だとは思ってたけど、本当に馬鹿だったようだ。そんなの聞いて、告白できる男が何処にいるんだよ。

 それより、オッケーくれるんだ。という事は、英汰も俺のことが好きなのか?


「あのさ、一応聞くけど、なんで告白断ったの?」


「今日の? あ~····だってさ、好きじゃねぇどころか、全然知らない子だし。つか彼女なんかいたらお前が告れねぇだろ? ヘタレだもんな」


 ニカッと笑う英汰。浮足立たせるようなリップサービスで、俺の純真な心を抉り続ける。意地が悪いのか、単純にバカなのかわからない。

 けど、こんなの日常茶飯事だ。いつだって揶揄うように甘い言葉を投げてくる。何度もこの罠に掛かり、結果俺はコイツの言葉に溺れた。

 ただのタラシなんだと思ってたけど、よくよく考えたら俺以外に言ってるのを聞いたことがない。その事実に気づいた瞬間、俺は上手く息ができなくなった。


「ヒロ、お前唇紫っぽくなってんぞ。ホントに大丈夫かよ」


「だ、大丈夫。ちょっと今、パニクってるだけだから」


「パニクって唇紫になんの? バカじゃねぇ····。落ち着けよ──」


 そう言って、俯く俺の濡れた頬にひたっと手を添えた。そして、ゆっくり顔を上げ一瞬見つめ合う。

 少しずつ近づいて、そっと触れるだけのキスをした。冷えて震える唇に、英汰の熱が乗る。

 目を瞑る余裕などない。すると、少しだけ瞼を持ち上げた英汰と目が合った。呼吸を忘れるほど、その瞳に魅入ってしまう。

 その瞬間、記憶がひとつ、火花を散らして蘇った。



「ヒロ、息して。マジで倒れるって」


「俺、英汰とキスした事ある?」


 英汰は少し頬を赤らめて答えた。


「キスっつぅか····まぁ、あるよ。ちっちゃい時だけど」


「いつ!?」


「やっぱ覚えてねぇんだ。んー··っと、小2くらいだったかな。学校のプールの後な、お前寒いの我慢して震えててさ、そん時は今より唇紫で、お前が死ぬんじゃねぇかって焦って····その····あっためてやろうと思って····」


 なんなんだ、その可愛い理由は。悔しいが、全く記憶にない。


「えぇ、全然覚えてないんだけど····」


「あん時、お前めっちゃふわふわしてたもんな。その後すげぇ熱出てさ、暫く学校休んだの」


「····あぁ! あの時!?」


「そう、そん時。ちなみに、俺のファーストキスな。どうせ、あの子がそうだと思ったんだろ。さっき、すげぇ嫌そうな顔してたもんな」


 表情で俺の事が分かると言ったのは、あながち嘘ではないらしい。見事なまでに図星だ。


「し、してな──」


 俺の言葉を遮って、英汰はもう一度キスをした。


「俺も嫌だったから、消毒して?」


「······バカ」


 それから俺たちは何度もキスをして、雨があがるのを待った。



 雨があがると辺りは既に暗くなっていて、俺たちは名残惜しくも別れた。

 家に帰っても、英汰に触れた箇所の熱は引かない。取り留め、唇は一入ひとしお


 シャワーを浴び、夕飯を食べ、段々と不安になってきた。全部、夢だったのではないかと。俺の願望が見せた妄想だったのではないかと。

 だって、こんなにも都合のいい話があるわけない。現実はもっと酷薄なはずだ。


 俺は、恐る恐る英汰に電話をしてみる。すると、思いのほか早く出た。


『はいはーい。どした?』


「や、えっと····特に何もないんだけど····。ごめん」


『何謝ってんだよ。あ、もしかして寂しくなった?』


 ふざけた英汰の言葉尻に、おそらく照れ隠しなのだろうと感じた。そして、ようやくアレが現実だったのだと受け入れる。


「うん。寂しいって言うか、さっきのアレが夢だったんじゃないかって不安になった」


『あっ!! それ!』


「え····どれ?」


『ちゃんと言ってなかったからだよな』


「何を?」


『ヒロ、付き合お?』


 スマホを落としそうになった。ぶわわわっと顔が熱くなる。

 まさか、英汰から告白される日が来るなんて、夢にも思わなかったのだから。


「は··はい」


『返事、乙女かよ』


 電話の向こうで英汰が笑っている。いつもの元気な英汰だ。


 英汰が俺のことを好きかどうかは、まだ聞く勇気がない。けれど、“付き合おう”と言うって事は、少なからず好意的に見てくれてるという事だ。上々じゃないか。

 高望みをしてはいけない。じゃないと、すぐに崩れてしまう。だから、慎重に関係を築いていきたいんだ。好きになってもらうのは、それからでも遅くない。


 そんな、臆病な俺とは真逆の英汰。早くもデートの話を切り出した。そして今週末、カラオケや買い物へ行く事になった。

 デートだなんて言うけど、きっといつも通りだ。これまでよりも、少し距離が近いだけ。


 1時間くらい話し、英汰が眠くなったと言って切ろうとする。いつもなら『おやすみ。また明日な』と言って、電話を切ってから沈む気持ちを溜め息に乗せていた。

 けれど、今日からは違うんだ。


「待って、お願い····」


 勇気を振り絞って、英汰を呼び止める。そして、一息吐いて素直に頼んでみた。


「切らないで、もっと声聴かせて····。英汰の声、いつももっと聞いてたいって思ってたんだ」


 明日もまた会えるのに。朝になれば、いつも通り英汰が迎えに来てくれるのに、寂しくて仕方がなかった。

 少し、焦りすぎた発言だったかもしてない。引かれたらどうしよう。瞬く間に不安に駆られる。

 けれど、そんな不安は無用だったと分かる。


『しゃーねぇな。もうちょいだけな』


 優しい英汰。こうして、ずっと甘やかされていたのだと実感する。

 俺がもっと早く勇気を出せていたら····。そう思うと、尋常じゃない悔しさが込み上げる。

 けれど、次に耳に流れ込んだ英汰の甘い言葉で、マイナスな気持ちは全て掻き消された。


『なぁヒロ、好きだよ』



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 診断メーカーにて

「諦めたその日に」

「絡む指先」

「切らないで、もっと声を聴かせて」


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