「ねー、なに寝てんの?さっさと起きろよ」


「っ…!、げほ、っがぁ“!」



 びしゃ、と冷たい水が容赦なく私に襲い掛かる。それも顔面から。 

 水が鼻に入ったらしく、思わず咽せ返り意識が浮上した。当然痛みに襲われるが、同時にゾクリと悪寒を覚える。


 幾ら秋といっても十月下旬である今日の気温はとても低く、冷たい水は制服に染み込みどんどん重くなる。

 肌に伝わって、冷えていくのがわかり全身の毛がよだつような感覚に襲われた。

 このまま放置していると間違いなく風邪を引く自信がある、さっさと着替えないと。体操服は教室にあっただろうか。


 顔の水を裾で拭い、ゆっくりと視線をあげると二人の男女と目があう。



「ははっ、きったねぇなぁ。穢れてやがるから洗ってやったのに、泥水浴びて真っ黒じゃん」



 うげ、と嫌そうに顔を歪めているが、その表情には嘲笑が浮かんでいる。

 私を下に見ていて、この状況を楽しんでいることがよくわかった。



「相変わらず陰気なやつねぇ…ってうわこっち見ないでよ。あんたの目、気持ち悪いんだからっ」



 私の目は赤い、それも生まれつきではなくて途中から。原因は不明。

 それをクラスメイトに気味悪がられ、いわゆる虐めを受けていた。


 別にどうだっていい、いつものことだ。

 こうして物を隠されるのも、罵詈雑言を浴びせられるのも、殴られるのも、慣れている。


 だけど、どうしようもなく今はそれが辛くて仕方がない。

 痛い、辛い、寒い、苦しい。どこにも逃げ場のないドロドロとした負の感情が私の中で渦巻く。

 夢の中に逃げて、もう一度母さんの優しさに触れたいと思ってしまう。


 まぁ、あんなに優しかった母さんも私を置いていなくなったから、どうしようもないのだが。

 嫌われ者の自分に、穢れ呪われた自分に、味方なんているはずがない。

 期待したところで、自分が辛くなると言うことをここ数年で嫌というほど学んできた。



「まぁいいや、それじゃ帰ろーぜ」



 無反応な私に飽きてしまったらしい二人は、そそくさと帰宅準備を始めた。

 二人がいなくなったのを確認してから、重い身体に鞭を打ち覚束ない足取りで立ち上がる。


 口内から出血したのか、鉄臭い味がして気持ち悪い。殴られた箇所に鈍痛が走って動きたくない。

 だけど帰らないと何も進まないから中庭から校舎の方へ足を向けて、ゆっくりではあるものの一歩ずつ着実に歩みを進める。

 教室にカバンがある、さっさと回収して帰ろう。そして布団で眠りに着こう。


 これがいつもの日常、当たり前の光景、変わり映えのない日々__


 だからこそ、疑問に思う。



「…なんで、、?私は…」



 生きているのだろう。


 家に帰っても誰もいない部屋、教室にいても誰もが自分を軽蔑する、先生は気付いているが保身に走り決して助けてくれない。

 必要とされていない、穢れた人間。

 むしろ生きているだけで、誰かの迷惑となる。


 こんな私は、いらなくないか?



 そう思った瞬間鈍器で頭を殴られたような衝撃を受け、気付いたら自分は屋上の前に立っていた。

 どうやら教室を通り過ぎたのも気づかず、最上階まで登り切ってしまったようだ。



「ははっ、開いてるわけないのに……なんでここにきたんだろ」



 思わず嘲笑してしまった、屋上に来たからなんだというのだ、飛び降りて死ぬとでも言うのだろうか。

 どうせ開いていない、屋上は原則立ち入り禁止。鍵がかかっていて誰も入れやしないんだから。


 そんなことはわかっていた、だけどそれでもドアノブに手を伸ばす。そして息を呑み、目の前の光景を疑った。



「っ…あ、あいてる…」



 ドアノブに手を掛けると、ギィィと耳障りな音を立てそのまま扉が開いたのだ。

 なんで使われないこの扉が開いてる?誰かいるのだろうか。


 ごくり、と唾を飲み込み興味本位でそのまま足を踏み出せば、屋上に立ち入る。

 生温く、なんとなく嫌な風が自分自身の頬を撫でた。

 周囲を見渡すがどん曇りの空が広がるだけで、そこに人の気配はない。


 更に言うなら何もない。まぁ、それはそうだ。

 屋上が立ち入り禁止なのはフェンスがついておらず、誤って立ち入り落下したら危険だから。

 だから誰も入らないわけで、物を置く必要はない。閑静な空間が広がっていた。



「…高い、なぁ…」



 端まで歩いてみると、4階建ての校舎の屋上は流石に高い。

 下はコンクリート、確かにここから落ちたら危ないだろう…私からすれば、好都合だ。


 このまま一歩、踏み出せば死ねる。

 こんな生きていても無意味な世界と、大嫌いなこの世界と、おさらばすることができる___だけど



「っ…や、だ…やだ…い、やだ…!!いやだ!!!いやだ!!!!」



 どうしようもなく怖い、いやだ、まだ死にたくない。

 もし死ねなかったら、痛いのがずっと続くだけになる。苦しいのは嫌だ、辛いのは嫌だ。

 ただただ、漠然と怖い。そんな感情に支配されてしまう。


 飛び降りる度胸なんて自分にはなくて、ただその場に膝を着き、震える体を抱きしめる。

 体全身を襲う恐怖に、鳥肌がたち爪が食い込むほど腕を掴むが、それでも震えは止まらない。

 ただただ、震えが収まり涙が止まるのを待つことしかできなかった。


 生にしがみつく、それが一体どれだけ惨めなことか。我ながら呆れてものも言えない。

 咽奥が熱くなり、少しずつ痛みを持ち、目にはジワリと涙が滲む。


 泣いて許される、そんな甘い世界じゃない。


 この世界は、残酷。


 それは、とうの昔に学んだことではないか。

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