第2話
軽自動車を運転する天草先生の姿は、診察を受けた時とそれほど変わらない。落ち着いた服装で、先生の好みなんだろうな、と察せられる。違うところといえば、目立たないが美しいイヤリングをしていることくらいだろうか。
「わたしは、ちょっと前まで仕事をしてたんです」
「こんな夜遅くまで?」
「忙しくて。開業したばかりで勉強不足なところもありますし」
それよりも、と天草先生が言葉を続ける。
僕のことを先生は車に乗せた。……僕としては乗るつもりなんてなかった。女性の車に乗るというのはどうかと思ったし、何より、今のくそったれな気分で誰かと一緒にいたくなった。自分がみじめに思えてならないから。
質問には、僕は答えなかった。同じ質問が何度来たって、僕は答えないだろう。答えられるわけがなかった。僕自身、わからないんだから。
答えが返ってこなくても、天草先生は何も言わなかった。こちらを見てくることもなく、まっすぐ前を見つめている。
その先には、うすぼんやりとした街頭に照らされた道路がずっと伸びている。
「仕事って何をしてたんです」
「患者さんの情報とか、現状とかどのような治療法がいいとか、そんな感じのことです」
「大変なんですね」
「サッカー選手ほどではありませんよ」
「……別に僕たちは練習した成果を出すだけで」
「観客から期待されるでしょう?」
「医者だってそれは同じだと思いますけど」
「一人二人と一億五千万人超では比べ物になりませんよ」
「そこまでの人が応援してくれたかなあ」
「してくれていたと思いますよ。……批判の声を考えても」
「別に、僕は気にしてません」
「それです」静かに天草先生が言った。「気にしてないのが、むしろおかしいんです」
「どういうことですか」
「普通、気にしますよ。かかる期待と失望の声を耳にしたら、誰しも恐怖を覚えるものです。ただ、感じ方には差があって、受け止め方によって、精神を病んでしまうこともあるというだけで」
「……何が言いたいんです」
「本当に感じていないのですか。それとも――感じないようにしているのですか?」
僕は頭の後ろで手を組む。
吐き気はいくぶんマシになっていて、天草先生の問いかけの意味を考えられそうだった。
感じないようにしているか、だって?
今の今まで、僕は恐怖を感じていないと思っていた。今でも、そう思っているつもりだ。
だけど。
そうじゃないと天草先生は言う。それがどうにも気になった。否定しようとしても、返しのついた釣り針みたいに、心に引っかかって外れなかった。
「トラウマ」
「トラウマなのですか?」
「いや……。トラウマかどうかわからないから、判断してほしいんだけど」
「いいですよ。それが仕事ですから」
僕は、思い出す。
幻覚を見始めるようになったW杯のPK戦から、はるか昔の出来事。
僕が、もっと小さかったころのこと。
まだ幼く、力も体格も、今の半分もなかったころだ。僕はその時からサッカーをやっていた。たぶん、そうだ。いまいち自信がないのは、よく覚えていないから。他人と同じように、僕もまた、子どもの頃のことなんてほとんど覚えちゃいない。
それでも覚えていることはある。
僕は、光のないグラウンドに一人立ち尽くしていた。足元にはボールが転がっている。
たぶん、僕は練習してたんだと思う。一人で。
その場には、誰もいなかった。みんな、とっくに帰ってしまっていた。踏み固められたグラウンドには、スパイクによって開けられた無数の穴。かすれかかった石灰のライン。
2対1と書かれたスコアボード。
PKのキッカーの場所を示す印の周りには、いくつもボールが転がっていた。僕はPKの練習をしていたのだろう。
でも、そんなことはどうでもよくて。
僕はそうしなきゃいけないと思ってたんだ。
そうしなきゃ、みんなから嫌われる――。
「これがトラウマってことなんでしょうか」
「おそらく。もうそのことを怖いとは思わなくなっているのか、それとも忘れてしまったのかもしれないけれど」
「思い出しても怖くありません」
「長い間に、恐怖を感じないようになったのかもね。貝が殻にこもるように、あなたは心の中に閉じこもった」
「そうだったのか」
言葉にされると、実感がこみあげてくる。
思えば、サッカーというものに好意的な印象はなかった。子どもの時からやっているのに、何を動機にしてやっていたのか。
才能があって、いい活躍をしたら、みんなが喜んでくれたから。ちやほやしてくれるから、サッカーをしていた。
それだけの理由で、僕はサッカー選手になった。
よくもまあ、ここまでやってきたものだ。みんな、サッカーのことが好きな人たちばかりなのに。道理で、話が合わないわけだ。合うわけがない、僕はサッカーというものを好きだと思ったことがないんだから。
むしろ――。
「そうか……」
言葉を口の中で繰り返す。重荷が下りたような心地よいだるさが、心をふわふわさせた。
気持ち悪さはいつの間にかなくなっていた。たぶん、酔いってやつが覚めてしまったんだろう。
窓の外を流れていく景色の中には、依然として重苦しい雲が漂っている。でも、雲の切れ間に、星のきらめきが無数に見えた。
「話を聞いてくれてありがとう」
車が揺れた。
「仕事ですからいいんですけど。……そういうことを言える人だったのですね」
「どういう意味?」
「患者さんにこういうのはどうかと思いますけど、もっと気難しい人かと」
テレビで見た時の印象ですよ、と慌てたように言葉が添えられる。そのたびに車がふらついていた。運転に集中してほしい。
窓に映りこむ僕は、笑っていた。
「そうだ。今度試合を見に来てください」
「な、なんですか。藪から棒に」
「今日助けてもらったので、お礼がしたいんです。それに、何かわかるんじゃないかって」
「出張サービスはしないんですけど、今回は特別ですからね」
「すみません」
「スーパースターに謝られるなんて、申し訳なくなるんでやめてください」
「そんなこと言われてもなあ」
そんな会話をしながら、車は日付をまたいで走り続ける。闇夜のその先へ。
満員の観客席から声が聞こえてくる。声援もあればヤジもある。いいものも悪いものもサラダボウルにぶち込んでぐちゃぐちゃにミックスしたような音は、ピッチから離れたところに置かれているトロフィーに降り注いでいることだろう。
ふうと息をつく。
目の前にはゴールがあって、その前に立ちふさがるゴールキーパー。
しゃがみこんだ僕の目の前には、サッカーボールがある。
生首がある。
僕は長いことその生首を見つめていた。チームメイトもゴールキーパーも怪訝な表情をしていたに違いない。
これが僕のルーティン。
いつかこっちを振り返るのではないか。なんとなく、そう思ってのことだった。
はたして、その瞬間は唐突に訪れた。
ペナルティマーク上の生首がくるっと回転した。僕の錯覚だったのか、風のいたずらだったのかはわからない。まあ、幻覚なんだから何でもありなんだけど、とにかく僕の方を向いたのだ。
そいつは、僕だった。
今よりもずっと幼い僕。
涙を流す少年の頭を、僕は撫でて、ぎゅっと抱きしめる。不器用な僕にできるのは、これくらいだ。
元の位置に戻して、立ち上がる。距離を取って、駆けだす。
思い切り、それを蹴り飛ばした。
骨が砕ける音はしない。心地の良い反発が返ってくる。
ゴールネットが揺れる。遅れて、歓声が競技場を震わせた。
光に照らされたサッカーボールは飛び跳ね、動きを止めた。
骨の砕ける音がする 藤原くう @erevestakiba
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