骨の砕ける音がする
藤原くう
第1話
ぐしゃり。
骨が砕けた音がした。
植木鉢を落としてしまったときとも、ガラスが割れたときとも違う乾燥した音。
音は体中に響いて、足元でうごめいた。
いつもと違う感触。
いつもと違う蹴り心地。
足元を見れば、スローモーションになった視界に、ボールはない。
今まさに僕に蹴られたのは生首だった。
短い髪の生えた、小さな頭。サッカーボールとは似ても似つかないそれに、僕の足の甲は突き刺さっている。
ゾッと、冷たいものが走った次の瞬間にはもう、それは僕の足から離れている。
ゴールめがけて蹴ったボールは、相手ゴールを揺らすことはなかった。
呆然とする僕に、観客の悲鳴が降り注いでくる。――この瞬間、日本代表の挑戦は終わったのだから当然だ。
だけど、僕には悲しみも怒りもなかった。
あったのは、困惑だ。
ゴールの向こうを転々と跳ねるそれは人の頭――などではない。ただのサッカーボールだった。
夏の日差しを受けながら、建ったばかりと思われるその建物を見上げる。
ちょっとしたカフェみたいな外見だけど、入り口前には『天草心療内科』と書かれた看板。僕は首を傾げながら、扉を開けて中へ入る。
入ってもやっぱり病院って感じはあまりしない。受付には女性がいたけど、誰もが紺色の服を身にまとっている。白衣に似てるけど白くはない。椅子だって壁だって、病院に置かれているものとは違う。シックでお店っぽい。
そんな中でスポーツ新聞を読んでいると、僕の名前が呼ばれる。受付室にいる人たちの視線が僕に集まるのをひしひし感じたけども、無視して診察室へ。
扉を開けると女性がいた。この人もまた、紺色の服を着ていた。たぶん、この心療内科のユニホームなのだろう。
僕は扉を閉め、女性の前の椅子に座る。
「こんにちは。私の名前は天草ひなたと言います」
首からぶら下げた名札を持ち上げて天草先生が言う。僕は小さく頭を下げる。
「今日は、どういったことでいらしたのですか?」
「えっと、先ほど受付で話したんですけど、幻覚が見えるんです」
「幻覚ですね。話せる範囲で、どのような幻覚なのか教えていただけますか」
正面に座る天草先生は柔和な笑みを浮かべて言う。幻覚のことを嘘とか出まかせとは思っていないのが伝わってくる。受付では多くの人が診察を待っていたし、人気というのは本当のことらしい。
「サッカーボールが、人の頭に見えるんです」
「ふんふんそれから」
「それからってどういうことですか」
「詳しく教えてもらいたいんです。状況とかどんな些細なことでも構いません。……無理にとは言いませんが、診療のためなんです」
診療とためと言われたら、答えないわけにはいかない。
目を閉じて、シュートするときに現れる悪夢みたいな映像を思い出す。
飛んできたボールでもドリブルしていたボールでも、ゴールめがけて脚を振り上げた途端、白黒のボールは人の頭へと変化する。
僕はため息をつく。
「シュートしようとしたら人の頭に変わりますね。顔は見えません」
「なるほど」
僕の言葉に逐一相槌を打ちながら、天草先生は手元の紙にペンを走らせている。さらさらと書いている文字は、少なくとも日本語ではない。
「最近、嫌なことってありました?」
「イヤなこと、ですか?」
「はい。もしかしたら、心因性のものかもしれません」
「心因性……」
「トラウマ、とも言い換えられます」
天草先生が、目を伏せる。
ああ、と僕は呟いていた。彼女が何を言おうとしているのか、何を口ごもっているのか、なんとなく察した。
「ワールドカップのPKのことなら、別に気にしてませんよ」
「……本当ですか?」
天草先生の目が、僕をじっと見つめてくる。心配そうな視線が、くすぐったい。
僕は顔を背ける。
「本当です」
「それなら、ほかに心当たりは――」
「ないです」
「……そうですか」
空気は最悪。その原因といえば、僕に他ならない。
――お前は不愛想が過ぎる。
そんなことを同僚から言われたことがある。いつもむっつりとしていて、怖いと。……むっつりしているつもりはないし、怖がらせる意図があるわけでもない。
しいて言うなら、どうしてそこまで喜んだり悲しんだりできるのだろう。当てこすりとか皮肉じゃなくて、純粋な疑問だ。
それを、先生に尋ねて見ようかとも思ったけれども、こんないたたまれない空気の中では、答えが返ってくるとは思えなかった。
それきり、僕は心療内科の戸を叩くことはなかった。
トラウマ。
天草先生はそう言っていた。だけども、僕に心当たりはまるでない。トラウマって心的外傷とも言い換えられるとネットに書いてあった。僕の心は傷ついちゃあいない。
あの時、僕がPKを外してしまったらその瞬間、日本代表は敗退してしまうという状況だった。プレッシャーがないといったらウソになる。でもそれはいつだって感じているものだったし、心は凪いだ海みたいに落ち着いていた。
いつも通り冷静だった。
だというのに――。
夕日が降り注ぐピッチの上で一人、僕はボールを弄んでいる。
頭ではない、普通のサッカーボールだ。それをつま先で転がし、ひょいっと乗せる。とんとんと蹴り上げる。うん、いつも通りリフティングできている。
骨を蹴り上げるような硬くて脆い感触はない。
あの幻覚がやってくるのは決まって試合中だ。それも、シュートする瞬間。まるで、僕を怖がらせるために、神様か悪魔だかが仕組んでいるかのようなタイミングにやってくる。そのせいで、コントロール出来なくなって、シュートを外す。
人々には僕がシュートを外したという結果しか残らないというわけ。観客どころかもっと近いところにいる選手から見たって、ボールはボールなのだ。
幻覚は僕しか見ていない。
一度高く蹴り飛ばして、胸でトラップ。落ちてきたボールを、だれもいないゴールへとキックしようとした。
その手前で、脚が止まった。
重力に従って落ちたボールが、足元をてんてんと転がっていく。
生首などではない、ただのボールでさえ、僕はシュートできなくなっている。
いつからそうなったのかはわからない。気が付けば、脚は動こうとしなくなっていた。幻覚を見ていようがいなかろうが、関係なかった。
まるで、生首を蹴るということを嫌がっているかのよう。
いいや、そんなわけがない。
僕は怖がってなんかいない。
停止したボールに狙いをつけて、僕は蹴る。鞭のようにしなる脚が、ボールをとらえて飛ばしていく。その白い球体は、ゴールポストのはるか上を通り過ぎていった。
意志に反して、両足はぶるぶる震えていた。
どうすればいいのかわからなかった。
ゴールへと何度も何度もシュートしたけれども、ポストの外へと放物線を描いていく。ゴールに入ったものもありはした。でも、それはたまたまといっていい。
以前のそれと比べたら、子どものようなシュートだった。
しまいには蹴り損ねて転んでしまった。
地面は芝生だったけれど、すごく痛い。うった体もそうだけど、心がずきずきと痛んだ。
これ以上練習をしても無意味だ。
僕は、日が落ち、真っ暗になったピッチを後にした。
そこからのことはあまり覚えていない。気が付けば、練習場近くの酒屋の前にいた。
手には、缶チューハイ。僕が所属しているチームのスポンサーの製品だった。
震える手でプルタブを引き上げると、カシュっと炭酸が抜ける音がした。
口をつけ、あおるように一気に飲み込む。
しゅわしゅわぱちぱちと炭酸が口の中で弾ける。レモンサワーのさわやかな味に遅れて、噴き上げるような熱が喉から落ちていって、心臓を焼いていく。
むせた僕は、思わずせき込んでいた。むかむかすると思った次の瞬間には、僕は吐いていた。
近くに排水溝があったのは幸いだった。そこめがけて、僕はげえげえ吐しゃ物をまき散らした。
24時間経営の酒屋からは誰もやってこない。
やっとのことで、吐き気が収まった。口元を拭い、視線を左右へと向ける。日付が切り替わる前の街は静寂に包まれており、人気もなければ車の往来もほとんどない。店内からの刺すような蛍光灯の光に照らされた僕の痴態を見ているものは、監視カメラくらいだ。
立ち上がると体がふらついた。頭もなんだか重くて、一秒だって考え込むことができない。
ふらついた拍子に、手から缶チューハイが滑り落ちて、地面をバウンドした。転がったアルミの口から、アルコールがこぼれ、歩道を濡らしていく。
僕はそれをぼんやり見つめる。
同僚たちは勝っても負けてもあれを飲んでいたが、ろくなもんじゃない。
こんなの飲んでいったい何になるっていうんだ。
缶を蹴る。中に入った液体のせいか、僕のつま先の方が痛かった。
吐き気がするし、視界はぐにゃぐにゃにゆがんでいる。まっすぐ歩いているつもりでも、気が付けば目の前に電灯が迫っていた。なんとか避けたところで、閉店した建物のシャッターにぶつかり、ガシャンと騒音が寝静まった街に響く。騒々しい音に反応してか、遠くで犬が吠えた。
僕はシャッターに体重をかける。
見上げた空は、どんよりと曇っていて、月も星もない。
「なにしてんだろ」
口から、言葉が漏れた。答えてくれる人はいない。
シャッターへ体重をかけた体がずるずると滑って、落ちていく。地面へとへたりこんだ僕は、ため息をつく。
心にぽっかり穴が開いたみたいだった。こんなこと、生まれて初めてだった。
これまでは、サッカーの練習をしていたらそれでよかった。それだけで満足だった。
でも。
「僕はどうして練習をしてた……?」
どうしてサッカー選手になろうとしたのか。
答えてくれる人間はいない。
遠くで車の音がした。車は闇夜を切り裂くように光を伸ばしながら、こちらへと走ってくる。
目の前で止まった。
「こんな夜更けに何をしているのですか」
車から降りてきたのは、天草先生だった。
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