19~退院~

 六月二十五日。

 朝起きて、とても驚いたことがある。


――寝れた。寝れたのだ。


 お医者さんに処方された睡眠薬を飲み、今日、久しぶりに寝れた。


「おはよう、愛彩ちゃん」


 そう声をかけてきた碧ちゃんに、笑顔で「おはよう」と返した。


 だから看護師さんに、「ご飯が食べたいです」と言った。看護師さんは驚いた顔をしたが、「いいよ」と優しく言ってくれて、私はご飯を食べることになった。


 看護師さんは、量を少なめにして朝食を持ってきてくれた。


 白飯、お味噌汁、サラダ、卵焼き、牛乳。


 お腹がぐー、と鳴り、私は一人で小さく笑う。


「いただきます」


 その言葉を発するのは、久しぶりだと思った。


 恐る恐る白飯を口に入れ、もぐもぐと咀嚼する。そして、ごくりと飲み込んだ。


「食べられた」


 思わずそう呟く。


 ついに、食べられた。


 目の奥が熱くなり、視界がぼやけた。


 袖で目を拭い、私はまた朝食を食べ進める。


 これで退院して、いつも通り寝て、ご飯を食べて。そして、食堂リオマに行くんだ。


 私はひそかにそう決意をしたのだった。




「愛彩ちゃん、退院かあ……」


 六月二十六日。

 急遽退院が決まり荷物をまとめている私に、悲しそうな笑みを浮かべた碧ちゃんが声をかけてきた。


「うん。これまで話し相手になってくれて、ありがとね」


「ううん。こちらこそありがと。ミサンガ、楽しかった」


「よかった」


 悲しそうに笑う碧ちゃんに微笑みかける。


 そして一つ、私は訊きたかったことを口にした。


「……碧ちゃんって、なんで入院しているの?」


 健康に見える碧ちゃん。なにか、秘密があるのだろうか。


 すると彼女は一瞬目を見開き俯く。

 私が慌てて「ごめん」と謝ると、碧ちゃんは小さく首を横に振った。


「実は私、病気なんだ」


 次は私が目を丸くするばんだった。


 予想外の碧ちゃんの答えに、私は口を噤む。

 彼女に声をかけられない自分に嫌気が差した。


「それで――余命宣告をされて」


 うそ、と声を漏らす。


 余命宣告。


 碧ちゃんに余命があるなんて。


「余命一年、って。……去年、言われたの」


 碧ちゃんが力なく笑った。


 余命一年って言われたのが去年って、それって、つまり――。


「――私、もうすぐ死ぬの」


 あはは、と碧ちゃんが乾いた笑い声を上げた。


 死ぬ、と言った彼女の声は震えていて、そして体も小刻みに震え始めた。私は思わず彼女の小さな体を抱きしめる。

 抱きしめることをせずにはいられなかった。どうにか彼女の震えが収まってほしくて。彼女の恐怖を、少しでも小さくしてあげたくて。折れてしまいそうな細い体を、優しく抱きしめた。


「愛彩ちゃん。あのね、……一つ、言っておきたいことがあるの」


 目に涙を滲ませた碧ちゃんが、そう力なく笑う。


「なに……?」


 私が首を傾げると、少し間が空いたあと、碧ちゃんが口を開いた。


「――ううん。やっぱりなんでもない!」


 碧ちゃんが声を上げる。

 私はそっか、と頷いた。


「あ、実は私もね、ちょうど先月――五月二十六日に、余命三ヶ月って言われたんだ」


 そう言うと、碧ちゃんが「えっ」と困惑した表情を浮かべる。


「碧ちゃん……生きられると、いいね」


 私は驚く碧ちゃんから視線を外し、窓の外を見ながら小さく呟いた。

 私の言った言葉が聞こえなかった彼女は、「聞こえなかったからもう一回言って」と言う。


「なんにも言ってないよー?」


 私がくすくすくと笑いながら振り向くと、碧ちゃんも「うっそだー」と笑った。


 暖かい日差しが差す病室。

 窓の外に広がる大きな空に、碧ちゃんが生きられますように、と私は密かに願いを込めた。

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