第16話

 夜、パリのホテルで、ノアは携帯画面をひたすら見つめていた。

 どういう意味だ? 〝考えたいこと〟というのは、いったいなんのことなのか?

 しばらく考えこんだあと、ノアは返事を送ることにした。


〝きみからの、あまりに唐突な言葉にとまどっている。どういう意味なのか、きちんと説明してもらえないだろうか? わけがわからないよ〟


 しかし待てど暮らせど、DDからのメールは返ってこなかった。

 どうしてだ? マルルでは、おたがいあんなに激しく愛し合ったというのに。あのあと、なにかあったのだろうか? なぜ返事をくれないのか。なぜ電話に応えてもらえないのか?


 それから1か月が過ぎ、いよいよ翌日、DDがイタリアに出発する日になった。

 ノアからはあのあと数通ほどメールが届いたが、DDは心に蓋をするかのように、それのどれにも目を通さず、即座に削除した。

 これでいいのよ。おたがいのために。

 のどの渇きをおぼえたDDは、キッチンに向かい、ハーブティーをいれようとした。しかしいつもなら爽やかに感じられるはずの香りに、いきなりむせかえった。胃の内容物がいっきに逆流してくる。

 DDはあわててトイレに駆けこんだ。

 しばらくしてトイレから出たDDは、ぼうっとした頭でソファにすわりこんだ。

 風邪でも引いてしまったのだろうか? 明日には出発するというのに?

 洗面所に向かい、戸棚から薬箱を取りだしたとき、壁に貼られたカレンダーが目に飛びこんできた。

 DDはしばらくカレンダーを見つめていたが、やがてあることにはたと気づき、両手で口を覆った。

 もしかして、わたし……。なんてこと!


 1週間後。

 DDは空港に見送りに来てくれたエリザベスを抱きしめた。

「わざわざありがとうございます。それに、出発を1週間のばしてくださって、ありがとうございました」

「なにいってるの。それより、ほんとうにだいじょうぶなの?」

 エリザベスが心配そうにDDのお腹に視線を落とした。

「まだ飛行機に乗るのは早くない?」

「だいじょうぶです。からだだけは丈夫なので、わたし」

 DDはにこりとしてそう応じると、「では」といい残し、ゲートに向かった。

 しかし搭乗する直前、待合所の椅子にいったん腰を下ろし、携帯電話を取りだした。

 今度こそ、きっぱり告げなければ。

 ノア宛てに短い言葉を送信したあと、携帯電話の電源を切った。

 ノアを忘れるのはつらいけれど、いまのわたしには、新たな希望が宿っている。

 DDはお腹を軽くさすると、椅子から立ち上がり、機内へと、新たな世界へと、旅立っていった。


 宮殿の自室で、ノアは携帯画面から目を離すことができずにいた。

 何度読んだところで、その内容が変わるはずもないのはわかっていても、何度も読み返しては、その一語一句をたしかめずにはいられなかった。


〝楽しい思い出をありがとう。さようなら。マカナとお幸せに。DD〟


 そのとき、ドアをノックする音がした。

 ノアはようやく携帯電話を握りしめていた手を下ろし、「はい」と震えるような声で応じた。

 ドアを開けて入ってきたのは、国王だった。

「いま、ちょっといいか?」

「……はい」

 ノアは国王のために椅子を差しだした。

「どうぞ」

「ありがとう」

 国王は椅子にどっかりすわりこむと、力なくたたずむノアを見上げた。

「どうした? 顔色が悪いようだが?」

「いえ、べつに。ちょっと疲れているだけです」

「そうか」

 国王がせき払いをした。

「それで、その……そろそろ決めるころじゃないかと思ったんだが」

「決める?」

「ああ。マカナのことだ」

「マカナ?」

「そうだ。マカナだ」

 ノアは窓際に向かい、虚ろな目を外に向けた。国王は辛抱強くノアの返答を待っていた。

 しばらく静寂がつづいたあとで、ノアはようやく口を開いた。

「そうですね……マカナは、たしかにぼくの妻にふさわしいかもしれませんね」

 国王がぱっと顔を輝かせた。

「そうだろう? やっとそれに気づいたか。よかった。それで?」

「それで……ぼくも、ようやく決心しました」

 ノアは国王をふり返った。

「マカナと結婚します。きょうこれから、彼女にプロポーズしてきます」

「そうか!」

 国王が椅子から勢いよく立ち上がった。

「マカナの返事は聞かずともわかっているが、そうだな、ともかく、プロポーズしてこい! ああ、これで安心だ。よかったよかった。あとで報告に来てくれよ。楽しみに待っている」

 国王が年齢を感じさせない弾むような足取りでドアから出て行った。

 ノアはその背中を見送ったあと、ベッドに力なくすわりこんだ。


――前編 了――

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女神の腕に抱かれて〈前編〉― Falling Love in the Goddess Arm ― スイートミモザブックス @Sweetmimosabooks_1

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