第15話
「おかしいな」
ノアはパリの街を歩きながら、しきりに携帯電話をチェックしていた。
「どうかした?」
隣にいるマカナが心配顔でたずねてきた。
「いや、べつに」
ノアはそう答えながらも、しばらくすると、ふたたび携帯画面を確認した。
ヨーロッパに到着して以来、何度もDDにメールを送っているのに、いっこうに返事がかえってこないのだ。
なにかあったのだろうか? それとも、仕事が忙しいのか。
もしかすると、まだアメリカに向かう機内にいるのかもしれない。
ノアはそう自分を納得させることにした。
「おかえりなさい、DD!」
高層ビルの最上階のオフィスで迎えてくれたのは、〈ザ・ハート〉の最高経営責任者であるエリザベス・ハートだった。
「あなたの帰りを、心待ちにしていたの」
「ありがとうございます」
DDは深々と頭を下げた。
「またマルルに長居をしてしまい、申しわけありませんでした。すぐに本社での仕事に取りかかりますので」
「いえ、ちょっと待って、話があるのよ」
エリザベスがデスクをまわって応接セットに向かい、DDを手招きした。
「どうぞ、すわって」
「はい……」
DDは腰を下ろすと、エリザベスに問いかけるような視線を向けた。
「それで、お話というのは?」
エリザベスがにこりと大きな笑みを浮かべた。
「以前、イタリアのカプリ島にある大型ホテルが売りに出されているっていう話、したわよね? 覚えている?」
「カプリ島……ええ、おぼえています。たしかオーナーが世代交代したあと、経営がうまくいかなくなったとかで」
「そうそう、そのホテルのこと。じつはね、〈ザ・ハート〉が買い取ることになったの」
「そうですか! それはおめでとうございます」
DDも笑みを浮かべた。イタリアへの進出は、エリザベスが長年夢見ていたことだったはずだ。いままでさんざん世話になってきた恩人の夢が叶うとあれば、DDとしてもうれしかった。
「ありがとう」
エリザベスが心底うれしそうな笑みを浮かべた。
「そこで相談なんだけど。DD、あなた、そのホテルではたらく気はない?」
「え? カプリ島で、という意味ですか?」
「そうよ」
DDはエリザベスを見つめながら、考えをめぐらせた。
カプリ島。イタリア。マルルから、遠く離れた土地。そして、ノアからも……
「まずは、副支配人としてはたらいてもらいたいの。でも、総支配人には経営が軌道に乗るまでをお願いするつもりだから、そのあとは、あなたに総支配人になってもらいたい」
総支配人……。
〈ザ・ハート〉ではたらきはじめたときから、いつかひとつのホテルを自分の裁量で切り盛りしてみたいと夢見ていた。それが近々、叶うかもしれないというのか。
DDは目をきらめかせ、エリザベスをまっすぐ見つめた。
「はい。よろこんではたらかせていただきます。カプリ島で。新しいホテルで」
「よかった! そういってくれるのを期待していたの」
エリザベスがすっくと立ち上がった。
「そうと決まれば、忙しくなるわよ。とりあえず向こう1か月はここアメリカでイタリアサイドとやりとりしながら準備を進めてもらいます。そのあと現地に飛んで、具体的な準備に入ってちょうだい」
「かしこまりました。ただ――」
DDはかすかに表情を曇らせた。
「――マルルのほうは、だいじょうぶでしょうか? まだいろいろとするべきことが残っているのですが」
「だいじょうぶ。すでに後任の人材を確保しているから。その点は安心して」
「そうですか。わかりました。いろいろとありがとうございます」
「じゃあ、さっそく仕事に取りかかってちょうだい。楽しみだわ」
エリザベスはそういうと、きびきびとした足取りでデスクに戻っていった。
DDは自分のオフィスに戻り、デスクの前に腰を下ろしたあと、小さなため息をもらした。ハンドバッグから携帯電話を取りだし、メールを開く。
ノアからのメールが10通以上たまっていた。こちらからの返事は一通も出していない。しかしイタリア行きが決まったいま、はっきりと線引きをしておく必要がありそうだ。
DDはノアからの最後のメールを開いた。
〝ちっとも返事をくれないから、心配でたまらない。元気でいるのかい? 何度か電話もかけたけど、出てもらえなかったね。ほんとうに心配なんだ。ひと言でいいから、返事をくれないか?〟
DDはさんざん迷った末、携帯画面に指を走らせた。
〝なかなかお返事できなくてごめんなさい。少し考えたいことがあるので、しばらく連絡しないでください〟
もっと、ノアとの関係をきっぱり断ち切るような言葉を送るべきであることは、DDにも充分わかっていた。しかしいまのDDには、これくらいの返事を送るのが精いっぱいだった。
送信ボタンをクリックしたあと、先ほどよりも大きなため息がDDの口からもれた。
イタリア行きは、渡りに舟のようなものだ。これでノアとのことは、きれいに忘れられる。きっと……。
DDは思いをふり切るかのように頭をふると、PCを開き、仕事に没頭しはじめた。
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