第14話

「わざわざご足労いただき、申しわけない、ミズ・DD」

 国王がデスクの前から立ち上がり、目の前のソファに腰を下ろした。

「いえ、とんでもありません」

 DDは深々と頭を下げた。

「いまは大切な客が来ているそうだね。忙しいときにすまなかった。まあ、かけてくれ」

 国王はそういって、DDに向かいのソファを勧めた。

「ありがとうございます」

 DDは静かに腰を下ろした。

 国王陛下から直々に話がしたいといわれ、宮殿に呼び出されたのだが、ホテルの一スタッフである彼女に、いったいなんの話があるというのだろう?

「話というのは、ほかでもない、ノアのことなんだ」

 ノアの?

 DDはすばやく頭をめぐらせた。

 まさかノアったら、わたしとのことを陛下に告げてしまったの?

「ノアの結婚相手についてなんだが」

 嘘でしょう? 結婚の話まで?

「きみは知らないと思うが、われわれの遠い親戚に、マカナという娘がいてね」

 マカナ?

 いやな予感がした。

「とてもいい娘でね。ノアとは幼なじみも同然なんだ。高校を卒業したあと、イギリスに留学していたんだが、最近帰国して、宮殿にちょくちょく顔を出してくれるようになった。昨日もここで久しぶりにノアと顔を合わせたんだが、ふたりとも、それは大よろこびしていたよ」

 昨日……。DDの胸がずっしりと重くなってきた。

「ノアも、もういい歳だ。次期国王として、そろそろ身を固めてもらいたいと思っている。しかし、だれか好き合った女性はいるのかとたずねても、いないというじゃないか。そこで、ぜひマカナを妻に迎えてもらいたいと思ってね」

 国王のひと言ひと言が、DDの胸に突き刺さるようだった。

「マカナのほうは、昔からノアに首ったけだったので、なにも問題はない。しかしノアのほうが、どうも踏ん切りがつかずにいるようなんだ。ノアがマカナを気に入っていることは、見ればわかる。おそらく、結婚というものに躊躇しているだけなんだろう」

 国王はそこでコホンとせき払いし、先をつづけた。

「きみは、ノアから非常に信頼されているようだ。ホテルの運営で、ノアがなにかと頼りにしていることは、たびたび聞いている。わたしも心から感謝している。そこで、だ」

 それまでソファの背にもたれかかっていた国王が、ぐっと身を乗りだしてきた。

「きみからノアに、助言してもらえないだろうか? 早く結婚するように。マカナを相手に選ぶように」

「あ……」

 DDは、なんと答えたらいいのかわからなかった。

「きみも知ってのことかもしれないが、今朝早く、ノアをヨーロッパに向かわせた」

 DDはようやくまともに反応することができた。

「はい。それについてはうかがっております」

「じつは、マカナも一緒なんだ」

「え……?」

「今回のヨーロッパ行きは、マカナの両親がEUのお偉方と繋いでくれたおかげでもあるのだよ」

「……つまり、仕事として、殿下と同行されたということですか?」

「ああ、それもある。しかし――」

 国王が意味ありげにウインクした。

「わたしとしては、これがふたりを結びつけるきっかけになればと願っている。しばらくふたりきりで過ごすことになるからな」

 DDは頭がくらくらしてきた。

 ヨーロッパへは、マカナと一緒に? ふたりきりで?

 そんなこと、昨日の電話ではひと言もいっていなかった……。

 さまざまなシナリオが浮かんでは消えていったが、どれもDDにとってうれしい展開のものではなかった。

「話が長くなって申しわけない。とにかく、あいつがヨーロッパから戻ってきたときも、まだぐずぐずしているようなら、きみからけしかけてもらえないだろうか?」

「わたしが……ですか?」

「ああ、そうだ。きみの助言なら、あいつも受け入れるのではないかな。そもそもマカナは、ノアにとって打ってつけの相手だ。王族の血を引いているし、国際的な視野も持ち合わせている。なにより、王族の一員であることの意味を、しっかりとわきまえている娘だ」

 王族の一員……。

「もちろん、わたしもノアの気持ちを第一に考えているつもりだ。なにしろわたし自身、父親の反対を押し切って、好きな女性と結婚した男だ。しかしいま、ノアに意中の女性がいないのであれば、将来の王妃として最適な相手を選ぶよう、親として背中を押す義務があると思っている――」

 意中の女性がいない……。将来の王妃として最適……。

 DDの頭の中で、国王のそんな言葉が渦を巻いていた。

 国王がさらになにか言葉をつづけているのはぼんやりと意識していたが、そのどれとして、DDの頭には入ってこなかった。

「――そんなわけで、協力してもらえないだろうか?」

 DDははっとわれに返った。陛下に返事をしなければ。

「かしこまりました。わたしにできることがあれば、できるだけご協力いたします。ただ、わたし自身、明日、アメリカに一時帰国することになっておりまして、戻ってくるのは数か月後になります。そのときもまだ殿下が心を決めかねているようであれば、なにか助言するのにやぶさかではありません」

「そうなのか? 明日アメリカに帰るとは知らなかった。貴重な時間を取らせてしまったな。なんにしても、きみの協力が得られるとあれば、心強い。よろしく頼む」

 そのあと、DDはどうやって国王のもとを辞したのか、どうやってホテルの自室に戻ったのか、よくおぼえていなかった。

 当然ながら、国王の話は衝撃的だった。深く心が傷ついていた。

 しかし自室でひとりきりになったDDは、まるで魂の抜け殻のような状態になっていた。涙すら出てこなかった。ただひたすら、虚しく空っぽな気持ちになっていた。

 気がつくと、すでに数時間が過ぎていた。

 もうノアは、ヨーロッパに到着しているだろうか? それとも、まだ上空を飛んでいるのだろうか? マカナと一緒に……

 なにか、得体の知れない感情が胸にこみ上げてきた。DDはさっと立ち上がり、その感情から気をそらそうとするかのように、部屋の中を行ったり来たりしはじめた。

 やがて足を止めると、激しく頭をふった。

 やっぱり、わたしは幸せになる運命にはない女なのだ。幸せになれるかもしれないと期待するとは、なんと愚かな女なのだろう。

 そもそも、結婚なんて考えられないと思ったのは、あなた自身でしょう?

 DDは自分を激しく責め立てはじめた。

 ならば、ノアがほかのだれかと結婚するかもしれないからといって、傷つく権利がある?

 それに、そうよ、陛下がいっていたとおり、次期国王のノアには、それにふさわしい、、、、、妻が必要なのよ。アメリカの貧民街でろくでなしの母親に育てられた、わたしのような女ではなく。

 DDは自虐的な笑い声を上げた。

 まったくわたしときたら、何様のつもりなの?

 人並みに幸せになれると思うなんて。ノアといつまでも楽しいひとときを過ごせると期待するなんて。

 DDはひとつ大きく息を吐きだすと、いつしか頬を流れ落ちていた涙を乱暴な手つきでぬぐい、翌日の出発に向けた準備に取りかかった。

 もうなにも考えないようにしよう。故郷アメリカに戻れば、例によって仕事が山積みで忙しくなるし、ノアのことなんて、すぐに忘れられる。

 そう、そうにきまっている。

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