第10話

 その日の夕方。

 ドアを開けてくれたDDの顔色は、ずいぶんよくなっていた。ノアの姿を見て、その頬がほんのり染まった気がする。

「どうも……。今朝は、すっかりご迷惑をおかけしてしまって」

 DDがノアを室内に招き入れようと、戸口から一歩あとずさった。

「あ、いや、ここでいいんだ。それにほら、また敬語になってる。いまはプライベートタイムだよ」

「あ、はい。あ、いいえ、その……」

 DDは口ごもったあと、思わず苦笑した。

「友だちのように話すのって、なんだかむずかしい」

「そうかな?」

「ええ。だって、あなたは王太子なんですもの」

「そうか。まあ、それはともかく、元気になったみたいでよかった」

「おかげさまで」

「じゃあ、いまからディナーはどう? まだ食べてないだろ?」

「まだだけれど……」

 DDは一瞬躊躇したあと、意を決した。

「じゃあ、着替えてこなければ」

「わざわざ着替えることはないさ」

「でも、こんな恰好じゃ」

 DDはTシャツと短パン姿の自分を見下ろした。

「下のテラスで軽くハンバーガーでもどうかと思ってるから」

 ノアはパンツの両ポケットに手を突っこんだ。

 あくまでも、さりげなく誘わなければ。

「そう……。それなら」

 DDはいったんドアの向こうに消えたあと、ハンドバッグを手にふたたび姿を現した。


「脚の具合はどう?」

 ノアの視線がふくらはぎあたりに落ちたので、DDは少しはにかむようなしぐさで脚をすっと引っこめた。

「もうだいじょうぶです。あ、いえ、その、もうだいじょうぶ」

「そうか、よかった」

 ノアがにこっと笑ってハンバーガーを勢いよく頬ばった。

 その少年っぽいしぐさに、DDはついふくみ笑いをもらした。

「あれ? なにかおかしかった?」

 ノアのきょとんとした顔つきを見て、今度はDDの口から小さな笑い声がもれた。

「いえ、なにも」

 そういいながらも、DDはクスクス笑いつづけた。

 しかしノアにしげしげと見つめられていることに気づくと、DDは笑い声をのみこんだ。

「ごめんなさい」

「あやまることはないさ。なんかきみ、ぼくにあやまってばかりだね」

「そんなこと……」

「それに、きみ、もっと笑ったほうがいいのに。すごくすてきな笑顔だから」

 DDは胸の高鳴りを必死に抑えこもうとした。

 だめよ、そんなことをいわれたからって、心を許してはだめ。

 DDは口もとを引き締め、ノアを見つめ返した。

「そんなことより、なにも訊かないんですね。今朝、わたしがどうしてあんなことをしていたのかってこと」

 ノアが両まゆをさっと引き上げた。

「ふむ。たしかにその理由については興味津々だけど、ぼくのほうから踏みこむべき話題ではないだろうから」

 DDは視線を落とし、しばし黙りこんだあと、ふたたびノアを見やった。

「でも、あなたは命の恩人なのだから、きちんと説明する義務があるわね、きっと。ただ、たいした理由はないの。ときどき、身も心も解き放ってみたいと思う瞬間があって……」

 ノアはしばらく無言でDDを見つめていたが、やがて笑いまじりにいった。

「人間、だれしもそういう瞬間があるさ。ぼくも、あの口うるさい父親から解放されたいって、ときどき思うよ」

 あえて軽口を叩き、場の雰囲気を明るくしようとするノアのやさしさに、DDは胸に温かいものが広がっていくのを感じた。

「前に、弟と妹の面倒を見ていたって話したでしょう? あれって、母親がまったく頼りにならなかったからなの。母は若いときから女優に憧れていた。結婚して、わたしを産んでからも、なかなかその夢をあきらめられなくて。それで、わたしにドロシー・デズデモーナ、なんていう名前をつけたの」

「お母さんがつけた名前なのか。デズデモーナって名前、どこかで聞いたことがあると思うんだけど」

「シェイクスピアの『オセロ』に出てくる女性の名前。夫に殺されてしまうんだけど」

 DDはくすりと笑った。

「ドロシーは、『オズの魔法使い』のドロシー」

「あ、なるほど」

「母ったら、娘に映画や演劇に関係する名前をつければ、女優への道が切り開かれるとでも思っていたのかしら」

「まあ、その気持ち、わからないでもないかも」

「ほんとに?」

 今度はふたり声を合わせて笑った。

 DDは、緊張の糸が少しずつほぐれていくのを感じた。

 この人、こんなに話しやすい人だったのね。いままで、距離を置くことに必死になるあまり、気づいていなかった。

「けっきょく、父はあきれて出て行ってしまって。そのあとは、映画のプロデューサーとか舞台監督とか、ほんとうかどうか怪しいものなんだけれど、そういう肩書きの男の人たちと再婚、離婚、再婚をくり返して」

 DDは当時を思いだし、ため息をもらした。

「わたしと弟と妹は、みんな父親が違うの。でもいずれにしても、だれからも満足に世話をしてもらえなかった。なので、弟と妹の面倒は、わたしが見るよりほかなくて」

「そうだったのか……」

「でも、ふたりともとてもかわいらしい子どもだったので、つらくはなかったわ」

 DDはそういってノアに笑みを向けた。

 なぜか、この人にはなんでも話せる気がする。いままで、そんな彼の存在から必死に目を背けようとしてきたなんて……。


 ほんとうにすてきな笑顔だ。

 ノアはDDをうっとりと見つめた。

 それに……先ほどから明るい口調で話してはいるが、かなりつらい子ども時代を送ったようだ。ろくに子どもの世話もせず、夢見がちな母親と、つぎつぎと変わる父親……。いくらかわいいきょうだいでも、おそらくまだ年若かった彼女がいろいろ世話をするのは、さぞかし大変だったのでは?

 彼女がなんでもテキパキとこなすのは、そうした苦労を経験してきたからこそなのだろう。

「で、いま弟さんたちは?」

「弟はやっと大学を卒業して就職したところで、妹は大学在学中」

「ふたりとも、無事進学したんだね」

「ええ、奨学金のおかげで」

「きみのおかげでもあるんだろう」

「いえ……姉なんだから、世話をするのは当然だし」

「いや、世話をすべきは、本来はご両親のはずだろう?」

「……」

 DDがうつむいたので、ノアは話題を変えることにした。

「話を戻して悪いけれど、今朝、海で溺れかけたきみを見つけたときは、ほんとうに驚いたよ」

 ノアはわざと豪快に笑った。

「やめて。もう、忘れてほしい」

「でも、あんなふうに海に出るということは、泳ぎがそうとう得意なんだろうね?」

「ええ、弟たちを連れてよく海に出かけていたんだけど、あの子たちが溺れたら大変なので、泳ぎは必死に練習しておいたの。でも今朝は……どういうわけか、脚が動かなくなってしまって」

 DDは遠くを見つめるような目つきをした。

「なにか抗えない力で、海の中に引きずりこまれるような感覚がしたの。それに……」

「それに?」

「声が聞こえたような……女の人の声……」

 ノアははっとした。

「カイのときと同じだな」

「え?」

「カイも一度、溺れかけたことがあったの、覚えているかな? あいつも泳ぎは得意中の得意のはずなのに、なぜか溺れかけたんだ。同じキイアカ海岸で。で、やはり、声を聞いたような気がするといっていた」

「そうなの?」

「ああ。で、そのあと――」

 ノアはそこで言葉をのみこんだ。

「――いや、なんでもない」

 じつはカイは、そのとき溺れかけたことをきっかけに、ステフと結ばれることになったのだった。まるで、海中で聞こえたという声に導かれるようにして……。

「その声はなんていっていたか、覚えている?」

「……素直になりなさい、心を開きなさい……って」

 ふたりとも、しばらく無言で見つめ合った。

 ようやくノアは口を開いた。

「きみは、そのアドバイスにしたがうつもり?」

 DDはノアを見つめたまま答えた。

「そうね、いまは……それもいいかな……って」

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