第9話

 幸い、早朝だったこともあり、ふたりは人と会うことなく部屋にたどり着くことができた。ノアは部屋の前でようやくDDを下ろした。DDは先ほど回収した荷物の中から鍵を取りだし、ドアを開けた。

 部屋に入ると、DDはからだに巻きつけた毛布をさらにきつくたぐりよせ、くるりとノアをふり返った。

「ご迷惑をおかけして、申しわけありませんでした。でも、もうだいじょうぶですので」

 そういって、さっと頭を下げた。

「そうか。とりあえず、よかった。ただ、ボートに引き上げるとき、脚をどこかに強くぶつけてしまったんじゃないかと思うんだが」

 ノアがDDの毛布にくるまれた脚に視線を落とした。

「痛くないかい?」

 それを聞いてはじめて、DDは左のふくらはぎあたりがずきずき痛むのを感じた。そっと毛布を持ち上げてみると、はたしてそのあたりが赤く腫れ上がっている。

「やっぱり。気をつけていたつもりなんだが……。手当をしないと」

 ノアがふくらはぎに手をのばしてきたので、DDはとっさにあとずさり、ふたたび脚を毛布で隠した。

「だいじょうぶです。ほんとうに」

「でも――」

「だいじょうぶですったら!」

 DDは、らしからぬ大声を出したあと、はっとした。そのとき、海中で聞こえた声が、なぜかいまになってはっきり脳裏によみがえった。

 ――素直になりなさい。心を開きなさい――

 見上げると、ノアが困惑したような、悲しげな表情を浮かべていた。

「あの……申しわけありません! 殿下は命の恩人だというのに。つい声を荒げたりして。でも、わたし……」

 ノアが問いかけるような視線を向けた。

「わたし、親切にされることには慣れていなくて。ほんとうに申しわけありません!」

 DDは何度も頭を下げた。

「そんなにあやまらないでくれ」

 ノアはそういうと、やさしい笑みを浮かべた。

「まずは、シャワーを浴びてきたほうがよさそうだね。熱い湯を浴びれば、気持ちも落ち着くだろう」

「そうですね……」

「さっきの箇所、切り傷は?」

 DDはおずおずとした手つきで、ふたたび脚にかかった毛布を払いのけてみた。

 ノアがしゃがみこみ、左右から丹念にDDのふくらはぎを観察した。

「うん、だいじょうぶ。切り傷はない。打ち身になっているだけみたいだ」

 ノアが立ち上がり、DDをまっすぐ見つめた。

「湿布薬はある? なければ、届けさせるが」

「あります。常備していますので」

「そうか。それならよかった」

「ご迷惑をおかけしたこと、心からおわびいたします、殿下」

 ノアの笑みを見るうち、DDは気持ちが少しずつほぐれていくのを感じた。

「じゃあ、ぼくはもう行くよ。そのほうが、きみもゆっくりシャワーを浴びることができるだろう。ただし――」

 ノアはそこでいったん言葉を切ると、いたずらっぽい笑みを浮かべた。

「――頼みがある。さっき、ぼくにしきりにあやまっていたよね。ぼくにたいして申しわけないという気持ちがあるなら、この頼みはぜひ聞いてほしい」

「……はい。なんでしょう?」

「〝殿下〟と呼ぶのはやめてくれ。少なくとも、プライベートな時間は」

 ノアが視線を左右に向け、両手を広げた。

「たとえば、いまみたいなときは」

「……はあ……。そうですか……かしこまりました」

「それと、敬語も」

「でも、それはちょっとむずかしいかと――」

「仕事以外のときだけでいい。先日は、先走って申しわけなかったと思っている。まずは、友だちからはじめられないかな?」

「先日?」

「ほら、つい、つき合ってくれ、なんていってしまって」

 ノアが照れくさそうに頭をかいた。

「だから、せめてプライベートな場では、名前で呼んでほしい。敬語も使わずに。友だちとして」

 DDは数秒ほど考えこんだのち、ぽつりといった。

「ドロシー・デズデモーナ」

「え?」

「ドロシー・デズデモーナを略して、DD」

「あ!」

 ノアの顔がぱっと明るくなった。

「やっと教えてくれたね」

 DDはそう口にしたはいいものの、すぐに落ち着きを失った。

「そろそろシャワーを浴びないと。今日は出社日なので」

「今日は休んだほうがいい」

「でも――」

「ぼくはきみの直属の上司というわけではないが、それに近い立場にいると思っている。それに、一応、この国の王太子だしね。だから、今日は休むよう命じる」

 ノアの得意げな顔を見て、DDはいつになく愉快な気分になった。

「かしこまりました、殿下」

 そういって、頭を下げる。

「だから――」

「だって、いまのお話は業務上のことじゃありません? プライベートなことじゃありませんもの」

 今度はDDが得意げな顔をした。

「そうか、さすがだな。了解」

 ノアは満面の笑みを浮かべると、DDの部屋をあとにした。

 残されたDDの顔にも、心からの笑みが浮かんでいた。


 廊下に出たところで、ノアは思いきりのびをした。朝から大騒ぎに巻きこまれたとはいえ、いまは妙に浮かれた気分だった。

 ドロシー・デズデモーナ……。

 デズデモーナ?

 少し変わった名前だな。どこかで聞いたことがあるような……。

 まあいい。今度本人に由来を聞こう。それに、だれがつけてくれた名前なのかも。

 いや、そんなことよりも、なぜあんなふうに裸で海に入っていたのかを知りたい。まさか彼女がそんな大胆なことをしているとは。なんて不思議な女性なんだろう。こちらの想像を超えている。

 全身ビジネスモードのDD。裸で海を漂うDD。素顔のDDは、いったいどういう女性なのか?

 DDのことをもっと知りたい。いままで、どんな人生を送ってきたのか。子どものころのこと、学生時代のこと、〈ザ・ハート〉ではたらくようになってからのこと、ほかにもいろいろ……。

 だが、話してくれるだろうか?

 ノアはそんな思いをふり払うかのように頭をふった。

 急ぐことはない。まずは友だちとして、心を開いてもらおう。

 それにしても――

 ノアはあらためてこの数年間に思いをめぐらせた。

 ほんとうに、いままでぼくは、いったいなにを見ていたのだろう?


 熱いシャワーは、たしかに気持ちを落ち着かせてくれた。Tシャツと短パンを身につけたあと、DDは冷蔵庫から炭酸水を取りだし、ごくごくとのどを鳴らして飲んだ。

 とんでもない朝だった。

 まさかこんな展開になるとは……。

 DDは左のふくらはぎに湿布を貼ろうとして、ふと手を止めた。

 ボートに引き上げるときにぶつけてしまった――ノアはたしかそういっていた。そのときの自分の状態を想像すると、いやがおうにも頬がほてってくる。

 さぞかしぶざまな恰好だったことだろう。素っ裸で、気を失って……

 つまり、ノアには見られてしまったということだ。生まれたままの姿を。

 それでもノアは、紳士的な態度を崩さなかった。欲情のかけらも見せず、ひたすら気遣ってくれた。

 そういう男の人もいるのか……この世には。しかもそれがノアだということ――ひと目で恋に落ちた相手だということを考えると、さすがのDDも胸の高鳴りを抑えることができなかった。

 でも……用心しなくては。なにしろ、わたしが幸せになれるはずはないのだから。なにもかもうまくいきそうだと思ったとたんに、なにか不都合が生じるにきまっている。どこかに落とし穴があるはずだ。人生でうまくいくのは仕事だけ。恋の成就は最初からあきらめたほうがいい。そのぶん、傷つかずにすむのだから。

 それでも……。

 DDはほとばしる気持ちを持て余していた。

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