第8話

 少しいいすぎてしまっただろうか。あそこまで激しく反応しなくてもよかったのでは……。でも……やっぱり彼もひとりの好色な男にすぎなかった。ただそれだけのこと。

 早朝の海面をぷかぷかと漂いながら、DDは怒りのような、悲しみのような、やるせないような、複雑な気分を味わっていた。

 マルルに通いはじめてからというもの、DDはかけがえのない癒やしのひとときを得られるようになっていた。早朝、だれもいない海に入り、波間を漂いながら、思いきり心を解き放つのだ。最初は水着姿だったのだが、マルルの人たちは朝が遅いのか、だれかと遭遇することは一度もなかった。そんなことから、しだいに大胆になり、いまでは一糸まとわぬ姿で海に入るようになっていた。

 そしてこのときも、DDは生まれたままの姿を朝日にさらしながら海に浮かんでいた。ノアのことを、あれこれ考えながら。

 いままでまったく見向きもしなかったのに、わたしのTシャツと短パン姿を見たとたんに、〝男と女としてつき合ってくれ〟だなんて、見え見えもいいところだ。わたしをベッドに誘いこむ――目的はただそれだけ。

 DDはため息とともにかつての日々を思いだした。

 いままで、ずっとそうだった。

 自堕落な母親が家に連れこんだ男たちから向けられた視線や、大学時代のボーイフレンドたちから受けた扱いを思いだすと、ぞっとした。

 みんな、わたしを性の対象としてしか見ていなかった。会えば必ずベッドに連れこまれ、拒めばすぐに捨てられた。拒んだとき、暴力を振るわれたことすらある。

 そういうことを経験したあと、DDは女らしさをことごとく切り捨てたスタイルで身を固めることにより、ようやく安心して勉強や仕事に打ちこむ環境に身を置くことができるようになったのだ。

 男なんてこりごりだと思っていた。高校時代も大学時代も、相手から交際を申しこまれてつき合いはじめるパターンばかりで、自分からだれかを好きになることなどなかった。ならば一生このまま男なしの人生でもいいかもしれない、と思いはじめたところだった。

 ここマルルで、ノアと出会うまでは。

 あの日、空港に降り立ち、ノアの出迎えを受けたとき、DDはそれまで経験したことのない気持ちを味わったのだった。

 表面ではいつもの冷静さを装いながらも、頭の中はひどく混乱していた。ただひたすら、ノアから目が離せなかった。ノアの笑顔、ノアの物腰、ノアの言葉、どれを取っても、DDの琴線に触れるものばかりだった。そしてあの瞬間から、DDの意識にノアがどっかりと居場所を占め、追いだそうにも追いだすことができなくなってしまったのだ。

 もしかしたら、これが〝ひと目ぼれ〟というものなのだろうか。ハートを射抜かれるというのは、こういうことなのだろうか。

 そう思うと、いきなり恐ろしくなってきた。それまで自分が積み重ねてきた人生が根底から覆されてしまうようで、心底恐怖を感じたのだった。

 しかし幸いなことに、ノアはステフにご執心だった。DDのことなど、最初から目に入っていなかった。ふつうならそんな状況に傷つくものなのだろうが、DDはちがった。安堵に胸をなで下ろしたといってもいいくらいだ。おかげで、ノアとのあいだに心の距離を保つことができたのだから。ノアにたいする気持ちは、たんなる憧れ。芸能人に憧れを抱くのと同じ。そう自分にいい聞かせ、納得することができた。深入りしなければ、傷つくこともない。

 ステフがノアではなくカイを選んだときは、少々心乱れもしたが、ノアが自分をひとりの女として見ていないことがはっきりしている以上、妙な関係性に気を揉む心配はなかった。

 そもそも、わたしが恋する相手と結ばれるはずはない。わたしは、そんな幸せを手にできるような運命のもとには生まれついていないのだから。

 そんなことを考えているうちに、ふと気づけば、岸からかなり離れたところまで流されていた。

 いけない!

 泳ぎは得意だったが、それでも海には危険が潜んでいる。DDはすぐに岸に戻ろうと泳ぎはじめた。ところが、泳いでも泳いでも、どんどん流されていく。

 まさか、離岸流にはまってしまったのだろうか? 気をつけていたつもりなのに!

 しかしそこは冷静なDDのことだ。ひとつ深呼吸して自分を励ました。

 だいじょうぶ。このまま流れに身を任せておけば、いずれ岸まで運ばれていくはず。ここでなにより避けるべきは、あわててあがき、体力を失ってしまうこと。

 DDは恐怖心をぐっと飲みこみ、からだから力を抜こうとした。

 と、そのとき、なにか得体の知れない力によって、からだごと海中へ引きずりこまれていく感触がした。

 え!?

 必死に浮き上がろうとしても、なぜかからだがいうことをきいてくれない。腕を動かそうにも、脚をばたつかせようにも、まるで金縛りにあったかのように動かない!

 さすがのDDもパニックに陥った。

 助けて! だれか、助けて!

 一瞬、海面に顔が出たのも束の間、ふたたび海中に引きずりこまれそうになった。そのとき、なにか聞こえたような気がした。だれかの声が。深く、慈悲深い女性の声が。

 しかしそれと同時に、DDの意識は遠ざかっていった。


 ノアは車から降りると、朝焼けを映した海面を見わたした。

 また早朝に目が覚めてしまったのだ。そして気づけば、車でここキイアカ海岸に向かっていた。

 またあの女性が海にいるのではないか。あの……女神のような人が……。

 ノアは沖に目をこらした。

 なにも見えない。ゆらゆらと光る海面がどこまでも広がっているだけだ。

 ノアはふっと小さく笑った。

 そう都合よくいくはずもないか。それにそもそも、あれは現実の光景だったのだろうか?

 そう思いつつ、車に戻ろうとしたときだった。視界の隅に、なにか動くものが飛びこんできた。

 ノアは視線をさっと海に戻した。

 いた!

 またあの女性だろうか。しかし……。

 なにかようすがおかしかった。女性はこの前のように波にゆらゆら揺れているのではなく、全身をばたつかせているように見える。

 まさか、溺れているのか!?

 一刻も猶予はなかった。

 ノアは車に飛び乗り、すぐ近くにあるモーターボート乗り場に急行した。


 激しい震動を感じ、DDはうっすらと目を開いた。

 見えるのは、青い空ばかりだ。

 一瞬、どこにいるのかわからなかった。しかし――

「あ!」

 DDはがばっと起き上がった。

「え……?」

 そこはモーターボートの上だった。ボートは勢いよく走っていた。左右に目をやると、どうやら岸に向かっているようだ。

 前方で操縦桿を握っていた男性がさっとふり返った。

「……殿下?」

 DDは一瞬わけがわからなかった。顔に手をやろうとしたとき、胸にかけられていたシャツがはらりと落ちるのがわかった。そのときになって、自分が全裸であることを思いだした。

 はっ!

 DDはあわててシャツを胸に戻し、ノアに目を向けた。

「よかった。気がついたんだね」

「わ、わたし……」

「いまはなにもいわなくていい。とにかく岸に戻ろう」

「……」

 DDは、頬が燃えるように熱くなるのを感じた。


 岸に着くと、ノアが「ここで待っていて」といい残し、モーターボートの管理小屋に走って行った。

 やがて戻ってきたノアの腕には、毛布が抱えられていた。

「さあ、これでからだを包むといい」

「……どうも」

 DDはノアに背中を向け、からだをきっちり毛布で包みこんだ。そのあと立ち上がろうとしたのだが、足もとがふらつき、ボートに倒れこみそうになった。

 しかしすんでのところでノアの腕に抱きとめられた。

「す、すみません!」

 DDはあわてて体勢を立て直そうとしたが、ノアが腕を絡めたまま、彼女を放そうとしなかった。

「まだふらついてるじゃないか。ぼくが部屋まで運んでいくよ」

「え!? いえ、そんな! わたし、だいじょうぶです!」

「いいから」

 ノアはそういうと、DDをさっと抱きかかえた。

 ここまでくると、DDには毛布で顔を隠すことしかできなかった。

「あの……」

 DDは毛布の中からノアに声をかけた。

「なに?」

「この先の岩場の陰に、服と荷物が……」

 ノアのふくみ笑いが聞こえたような気がしたが、無視した。というか、無視する以外、DDにできることはなかった。

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