第7話

 翌日、ノアがホテルの事務室に顔を出すと、すでにDDがデスクについていた。ピシッとした色気のないスーツに、引っ詰めにした髪、分厚いメガネ、ローヒールの靴……。

 いつものDDに戻ってしまったのか。

 ノアは一瞬、落胆したものの、ここは職場なのだからあたりまえだ、と考え直した。

 DDはノアの姿に気づくと、椅子からすっと立ち上がり、その場で深くお辞儀をした。

「おはようございます。昨日は大変お世話になりました。あらためまして、お礼を申し上げます」

「あ、いや……い、いいんだ」

 ノアは言葉を詰まらせたあと、ふっと肩の力を抜き、DDに笑みを向けた。

 DDはすぐに腰を下ろし、目の前のPCに視線を戻した。

「あの、ミズ・DD……」

 ノアが声をかけると、DDがふたたびすっと立ち上がり、問いかけるような視線を向けてきた。まるで、主人の指示を待つ執事のような雰囲気で。

「いや、そんな、かしこまらないでくれるとうれしいんだけど」

 ノアは頭をかいた。DDの他人行儀な態度に一瞬ひるんだものの、すぐに気を取り直した。昨夜、心に決めたことがあるのだ。

「あの、ミズ・DD、よかったら……」

 一度せき払いをしたあと、先をつづける。

「……今度の休みの日、一緒にランチでもどうかな?」

「え?」

 DDがきょとんとした顔をした。

「ほら、最近、ケアラビーチにおしゃれなカフェがオープンしただろ? 一度視察に行ってみたいと思っていたんだが、あんなおしゃれな場所にひとりで行くのもなんだか気が引けて」

「視察……ですか?」

「あ、いや……視察も兼ねて、というか」

「はあ……」

 ノアは少年のようにどぎまぎしていた。

 昨夜、宮殿に戻ってからというもの、ずっとDDのことが頭から離れなかった。自分はいままでなにを見ていたのだろう、と不思議でならなかったのだ。ほんの数日前までは、どちらかといえば苦手だと思っていた女性に、いまはとてつもない魅力を感じている。

 しばらくベッドで悶々としていたのだが、やがて、そんなに気になるならデートに誘ってみればいいじゃないか、彼女のことをもっと知ってみればいいじゃないか、と自分を納得させたのだった。

「……で、どうかな?」

 DDは少し戸惑っているようだったが、少なくとも、即座に拒否するつもりはなさそうだった。

 ノアは分厚いメガネの奥の瞳に目をこらしてみたが、その表情を読み取ることはできなかった。


 これって、デートの誘い?

 DDは心底戸惑っていた。

 いえ、まさか。そんな、バカな。この人が、わたしをデートに誘うなんて、ありえない。たしかに昨日は、うっかり隙を見せてしまったかもしれない。でも今日は、いつものように鎧を身にまとっている。たとえ昨日のわたしに多少の女っ気を感じたとしても、この姿を見れば幻滅するに決まっている……はずなのだから。 

 でも……。

 いえ、さっき、はっきり「視察」と口にしていたじゃないの。とすれば、これは仕事の一環と捉えるべきかもしれない。

「あの、視察、ということでしたら、休日ではないほうがありがたいです」

「あ、いや……あ、でもそれってつまり、ランチにつき合ってくれるという意味かな?」

「たしかにあのお店は、〈ザ・ハート〉としても把握しておくべき場所だと思っていました。お客さまにお勧めできるのか、お勧めできるとしたら、どのようにお勧めするのが最善か、知っておく必要がありますから」

「そ、そうだね。そうだ、そうだよ。だったらどうかな、今日のランチに――あ、いや、今日は会議が入っているからだめだ。では、明日のランチに行くのはどうだろう?」

 DDは一瞬迷ったものの、仕事なのだから、ともう一度自分にいいきかせた。

「はい、結構です。でも、ずいぶん人気のお店のようですし、いまから予約できるかどうか」

 DDはさっそく携帯電話を取りだした。

「いや、だいじょうぶ。ぼくのほうから予約を入れておくから」

 ノアはそういいながら、すでに出口に向かっていた。

「じゃあ、明日12時に迎えにくるよ。よろしく!」

 そして去って行った。

 DDはしばしその場に立ちつくし、ことのなりゆきについて考えをめぐらせていたが、やがてひとつため息をもらすと、デスクの前に戻った。

 これはデートではない。視察だ。仕事だ。

 そう何度も自分にいい聞かせながら。

 

「ロケーションも、お店の雰囲気も、料理の味も、サービスも、文句なしですね」

 DDが片手でメガネの位置を直しつつ、メモから顔を上げた。

「ホテルのお客さまに、安心してお勧めできるお店かと思います。それに――」

 DDの視線がテラス席に注がれた。

「――お子さまが自由に、しかも安全に遊べるスペースをテラス席の前に設置している点は、高く評価できます。その点をしっかりお伝えすべきかと」

 ノアは、仕事熱心なDDに感心しつつも、もどかしさをおぼえていた。

 たしかに店の〝視察〟とはいったが、それがたんなる口実であることくらい、察してくれてもよさそうなものなのに。

「たしかに評判通りの店のようだ。ホテルのお勧めリストに載せておくよう、担当者に伝えよう」

「いえ、わたしから伝えておきますので、ご心配なく」

 DDはそういうと、メモをハンドバッグに戻し、ノアに問いかけるような視線を向けた。さあ帰りましょう、といわんばかりの顔だ。食後のコーヒーもすでに飲み終えている。

「ええと……デザートは? デザートの味も試しておくべきじゃないかな?」

 ノアは時間稼ぎをしようと必死だった。

 DDは一瞬、ノアを見つめたあと、小さなため息をもらしてメニューに手をのばした。メニューを開き、デザートのページをめくる。あまり気乗りしていないようすだ。

「デザートはあまり好きじゃないのかな? 女性はみんな甘いものが好きだと思っていたんだが」

「いいえ、嫌いではありません、もちろん」

 DDはそっけなくそう答えたあと、色鮮やかなカップケーキの写真を指さした。

「では、これをいただきます」

「了解。じゃあぼくは……この……〝ズッパイングレーゼ〟っていう、へんてこな名前のやつを頼もう」

 DDがまゆを軽く吊り上げた。

「ズッパイングレーゼ……ご存じないのですか?」

「ああ、知らない。有名なデザートなのかい?」

「イタリアのデザートです。このお店は本格的イタリアンというわけではありませんが、イタリアンの要素を多く取り入れていることはまちがいありませんね」

「イタリアンか。イタリアには行ったことないな」

「たしか殿下は、イギリスに留学なさっていたんですよね?」

「そうなんだ。そのとき、もっとヨーロッパをあちこちめぐっておくべきだったと後悔している」

 よし、話題がプライベートな方向に傾きつつある。いいぞ。ノアは内心ほくそ笑んだ。

「このズッパイングレーゼの〝イングレーゼ〟というのは、イギリスという意味なんですよ」

「あ、やっぱりそうなのか。なんとなくそんな気がして、だから食べてみようかと。じゃあ、〝ズッパ〟というのは?」

「スープという意味だと思います。スポンジにシロップとかリキュールとかを、スープなみにたっぷり染みこませたデザートですので」

「へえ、そうなのか」

 ノアは近くを通りかかったウェイターを呼び止め、DDの選んだカップケーキとズッパイングレーゼを注文した。

「きみ、ヨーロッパへは?」

 DDの表情がいくぶんやわらいだようだ。

「何度か行きました。歴史を感じさせる街並みや、中世のお城が、とても印象深かったのをよくおぼえています」

「ヨーロッパへは仕事で?」

「はい。〈ザ・ハート〉は世界各地で展開していますので」

 仕事で、か……。ここで話題を仕事に戻すわけにはいかない。当たって砕けろだ。

 ノアは意を決してDDをひたと見つめた。

「ミズ・DD……あ、いや、ただDDと呼んでもいいかな?」

 DDが表情を曇らせた。

「……だめ……かな?」

 ノアはDDの目から視線を外さなかった。

「いえ……だめということは……。殿下のお好きなように呼んでいただいてかまいませんが、でも……」

「殿下はやめてほしい。ノアと呼んでくれ」

「それは無理で――」

 ノアはDDの言葉を遮り、いっきにまくしたてた。

「DD、ぼくとつき合ってくれないか? つまり、男と女として、という意味で。いままできみの魅力に気づいていなかった自分が信じられない。先日、きみの新たな一面……というか、いままで知らなかった一面を見て、目から鱗が落ちた気分なんだ」

 ノアはテーブル越しに身を乗りだした。

「どうだろう? ぼくとつき合ってくれないだろうか?」

 DDは目を大きく見開き、口を半開きにしてノアを見つめていたが、しばらくするとふと横を向き、皮肉な笑みを浮かべた。

「ずいぶん直球でものをおっしゃるんですね」

 DDはノアに向き直ると、かすかに軽蔑するような視線を向けた。

「ステフを口説いたときも、こんな感じだったんですか?」

 え……?

 ノアは意表を突かれ、言葉をのみこんだ。

「よくおぼえていますよ。わたしたちがここマルルに降り立ったそのときから、殿下が必死にステフにアプローチしていたときのこと」

「あのときは――」

「彼女とうまくいかなかったことはお気の毒だと思っています。でもだからって……」

 DDの口もとにふたたび皮肉な笑みが浮かんだ。

「わたしたち、知り合ってすでに数年になりますけれど、いまになって急にそんなことをおっしゃるのは、どうしてですか? わたしの新たな一面というのは、先日の、カジュアルな恰好をしたわたしのことでしょうか?」

「いや――」

「ああいう恰好をすると、男性に変な目で見られてしまうことは、昔からよくわかっていました。ですから、仕事のときはそういう一面を極力隠すようにしてきたんです」

「変な目って……そういうことではなくて。ぼくが――」

「殿下はわたしの仕事をとても認めてくださっています。それだけで結構です。女として見ていただく必要はありません。うっかり殿下の欲情をかきたてるような恰好をしてしまったことは、おわびいたします。ではわたしは、お先に失礼いたします」

 DDはそういい放つと席を立ち、出口に向かってすたすたと歩いて行ってしまった。

 ノアが追いかけようとしたそのとき、ウェイターが「お待たせしました」とデザートを運んできた。

 ノアはカップケーキとズッパイングレーゼなるものを見下ろしながら、わけがわからずにいた。

 なんなんだよ、いまのは? どうしてあんな辛辣な態度を取られなきゃいけないんだ?

 彼女、なにか誤解しているのでは?

 たしかにDDのカジュアルな姿は魅力的だったが、でもそれ以上に……。

 ノアはフォークを手にすると、ズッパイングレーゼの半分を口に放りこんだ。

 スポンジにたっぷり染みこんだ甘いシロップでも、ノアの苦々しい思いを消せそうになかった。

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