第5話

 DDは心底動揺していた。

 わたしったら、どうしてこんな恰好をしてきてしまったのだろう? よりによって、こんな恰好で彼と出くわすなんて。しかもこのTシャツ、サイズが小さめなので、からだの線がいやでも強調されてしまう。

 でも、ヒナノの面倒をみるのなら、動きやすい恰好の方がいいと思ったから。でも、まさか彼がようすを見にくるとは。

 それに……。

 DDは、先ほど自分の姿をまじまじと見つめていたノアのようすを思い浮かべた。

 あの視線……。やはり彼も、ほかの男たちと同じなのだろうか。部屋でふたりきりになって、だいじょうぶだろうか……。

 いえ、曲がりなりにもこの国の王太子なのだから、まさかへんなことはしないだろう。それに、ヒナノもいることだし。

 DDは赤ん坊用品をまとめた重いバッグを肩にかけ、ベビーカーを押そうとした。しかしいきなり肩がすっと軽くなった。驚いて見上げると、ノアがにこやかな顔でバッグを持ち上げてくれていた。

「持つよ。赤ん坊のための道具って、意外と重いよね」

 さらにノアは、ベビーカーのハンドルにも手をのばした。

「いえ、こちらはわたしが。それにあなたは背が高いから、ベビーカーは押しにくいのでは」

 しかしノアは譲らなかった。

「だいじょうぶ。ほら」

 そういって、ノアがベビーカーのハンドルの長さを慣れた手つきで調節した。

「いまどきの乳母車って、優秀だよね」

 〝乳母車〟という古風な呼び方に、DDは思わずくすりと笑った。するとノアが目をまん丸にしてまゆを吊り上げた。

「なにか……おかしかった?」

 DDはあわてて首をふった。

「いえ、なにもおかしくありません」

 ここはいつものとおり、毅然とふるまわなければ。

 DDはすっと背筋をのばし、ていねいにお辞儀をした。

「では、お言葉に甘えさせていただきます。ありがとうございます」

 ノアが困ったような笑みを浮かべつつ、ベビーカーを押しはじめた。

 DDは歩くたびに揺れる胸とむき出しの脚を必要以上に意識しつつ、ノアと並んでエレベーターホールに向かった。


 ノアは、ヒナノに離乳食を食べさせ、おむつを替え、ベビーベッドに寝かせるDDの姿をずっと目で追っていた。

 驚くほどテキパキとしている。彼女、仕事だけじゃなく、赤ん坊の世話にかんしても優秀なんだな。

 ノアはすっかり感心していた。

 だからといって、DDはけっして機械的に作業を進めているわけではなく、なにかするごとにヒナノにやさしく声をかけ、にこやかに笑いかけている。

「赤ん坊の世話に、ずいぶん慣れているんだね?」

 ノアがそう問いかけると、DDは一瞬、表情を曇らせたあと、小声で答えた。

「昔、弟と妹の世話をしていましたから」

「そうか。歳の離れたごきょうだいがいるんだね?」

 DDはベビーベッドのなかのヒナノを見つめたまま、しばらくなにも答えなかった。

 なにかまずいことを訊いてしまったのだろうか?

 ノアが話題を変えようとしたとき、DDが口を開いた。

「そうでもないんですけれど、両親が忙しかったものですから」

「……なるほど。で、ご両親はどんな仕事を?」

 DDがまたしても黙りこくった。

 家族のことを詮索するのはあまりよくないな。

「申しわけない。個人的なことを訊いたりして」

「いえ」

 DDはぽつりとそういうと、表情を緩めてヒナノの頭をなでた。

「もう寝てしまいました」

 ノアもベビーベッドの前に行き、すやすやと眠るヒナノを見下ろした。

「かわいいな。ほんとうに」

「そうですね」

 ふたりして肩を並べたまま、しばらくヒナノの寝顔に見入った。

 穏やかな時間だった。まるで、わが子を見守る夫婦になったような……

 そう思った瞬間、ノアの心臓がどくんと鳴った。

 なに考えてるんだ? 夫婦? DDと? ありえない。

 それにしても……。

 ノアはすぐ隣に立つDDをちらりと盗み見た。

 いままで自分は、DDのなにを見ていたのだろう? まさかここまで魅力的で、母性本能にあふれる女性だったとは。これまで、そんな一面をわざわざ押し隠してきたのだろうか。

 そうだとしたら、なぜ?

 ノアはふんわりとまとめられたDDの髪を見下ろした。そこからいい香りが漂ってくるような気がして、つい鼻を近づけてみたくなる。

 DDがふいにノアを見上げた。

 ノアは心を見透かされた気がして、いつになく動揺した。

「あ、ええと、ぼくたち、食事はどうする?」

「食事、ですか?」

「だって、なにか食べなきゃ、だろ? ヒナノはさっき食べたからいいけど」

「そうですね……わたしはパンでもかじってすませようと思っていたんですけれど」

「カイたちの帰りは、夜遅くになるってことだったよね? じゃあぼくらはルームサービスを頼もう」

「……そうですね」

 もしかすると、そろそろ退散すべきなのかもしれない。DDはあきらかに迷惑そうな顔をしている……ような気がする。

 ノアはそう思いつつも、なぜかDDのことをもっと知りたいという気持ちに抗えなかった。食事をしながら話をすれば、DDももう少し心を開いてくれるかもしれない。

 そうだ、ワインでも飲みながら……

 しかしDDにワインの好みをたずねると、すかさず制された。

「赤ちゃんのお世話をしているときに、アルコールは禁物です」

 そうか……そうだよな。やはりDDは優秀だ。ビジネスウーマンとしても、ベビーシッターとしても。

 ノアはコホンとひとつせき払いをしたあと、あらためて提案した。

「じゃあ、ハンバーガーでも?」

 DDは少し考えるように視線をさまよわせたあと、ノアを見つめた。

「はい。ではハンバーガーで」

 ほんとうにきれいな目をしている。

 ノアはしばしその目に見入ったあと、ルームサービスを頼むために館内電話に向かった。

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