第4話

 翌日、会議が予定よりかなり早めに終わったため、ノアはヒナノの面倒を見ているDDを手伝おうと考えた。

 手伝う、といえば聞こえはいいが、正直なところ、あのDDに赤ん坊の世話がうまくできるとは思えず、不安でならなかったのだ。

 ベビーベッドのなかでヒナノが泣き叫ぶすぐ傍らで、耳栓をして読書にいそしむDDの姿が目に浮かび、いてもたってもいられなかった。失礼だとは思いながらも、DDから家庭的なものや母性本能的なものはいっさい感じられず、赤ん坊の世話をするにしても、あくまで機械的にこなすとしか思えなかったのだ。

 ステフはカイと結婚してマルルに定住したが、DDはいまもアメリカとマルルを数か月おきに行き来しており、マルル滞在中は、いつも〈ザ・ハート〉の一室を利用していた。

 部屋の前に来ると、ノアはヒナノの泣き声を確認するかのように、ドアに耳を近づけてみた。

 しかし、物音ひとつ聞こえなかった。

 少なくとも、ヒナノは泣いていないようだ。泣き疲れて眠ってしまったのかもしれない。

 ノアは部屋のインターフォンを鳴らした。

「ミズ・DD? ノアだ。仕事が早く片付いたから、なにか手伝おうと思って」

 応答はなかった。

 ノアはふたたびインターフォンを鳴らした。ノックもしてみる。

 それでも、なにも反応は返ってこなかった。

 どこかに出かけているのかな? まさか、ヒナノを残して出かけてないよな?

 ノアは一瞬、スタッフに命じて合い鍵を持ってこさせようかとも思ったが、さすがに若い女性の部屋に勝手に入りこむようなまねは、王太子といえどもできるはずがなかった。よほどの理由がないかぎりは。

 もしかしたら、テラスやビーチでひなたぼっこをしているのかもしれない。今日は比較的陽射しもやわらかで、爽やかな風が吹いているから。

 そうであってほしいと願いながら、ノアは1階の広々としたテラスに向かった。


 平日ということもあって、白木づくりのおしゃれなテラスにいる客はまばらだった。

 ノアはテラスじゅうにざっと目をやり、スーツ姿の女性を探した。

 やはりいないか……。

 そのとき、見覚えのあるベビーカーに目が留まった。

 あれは……もしや!?

 日陰になったテーブルの前にヒナノのベビーカーが置かれ、そのすぐわきに、見知らぬ女性がすわっていた。ノアから見ると斜め後ろの姿しか見えないが、短パンから伸びる長い脚とゆるやかにカーブを描く豊かな髪からして、どうやら若い女性のようだ。

 ノアの脳裏に、ひとつのシナリオが浮かび上がった。

 泣き叫ぶ赤ん坊をもてあましたDDが、金を支払ってべつのベビーシッターを雇ったのだ。そして自分は例のごとく、仕事に精を出している。なにしろ彼女の頭には、仕事のことしかないのだから。

 DDは、いつも取り澄ましているとはいえ、けっして冷淡な人間ではないはずだし、責任感はひと一倍強いはずだ、と思いながらも、もしかすると、という気持ちをぬぐい去ることができなかった。

 なんにしても、赤の他人にヒナノを任せておくわけにはいかない!

 ノアはヒナノを引き取ろうと、急ぎ足でそのテーブルに向かった。

 しかし途中、その女性の横顔がはっきり見えてきたところで、はたと足を止めた。

 あれは……彼女は……ひょっとして……?

 女性はベビーベッドのなかにいるヒナノに、やさしく、にこやかに語りかけていた。

「そろそろお腹空いてきちゃったかしら? お部屋に戻ってマンマにする? それとも、もうちょっとひなたぼっこしてる?」

 そういいながら、ヒナノの頬をやさしくさすっている。ヒナノは愛らしい笑みでそれに応えていた。

 そのとき、視線に気づいたのか、女性がふとノアをふり返った。

 ノアがすぐそこにいることに気づくと、女性はさっと両手で口もとを覆い、あたふたと立ち上がった。

「あ、あの……」

 頬をまっ赤に染め、あわてふためいている。

「きみ、もしかして……ミズ・DD?」

「……も、申しわけありません!」

 DDがいきなり頭を下げた。

「え? なんであやまるんだ?」

「ですから、その、なんていいますか……」

 ここまで取り乱したDDを見るのははじめてだった。

 ノアは、あたふたしているDDをあらためてまじまじと見つめた。

 スーツではなく短パンとTシャツ姿のDDは、驚くほど若々しかった。すらりと伸びた長い脚と腕は贅肉とは無縁でありながら、女性らしい丸みと色気を帯びている。Tシャツの「I♥Maruru」と書かれたロゴを歪ませるほどの、豊かな胸。いつも引っ詰めにしている髪は、顔の横でふんわりとまとめられていた。そしてなにより、メガネをかけていないので、アメジスト色の美しい瞳をまともに見ることができた。

 なんて……美しいんだ。こんなに美しい瞳は、いままで見たことがない。

 ノアはその瞳に吸いこまれそうになったところで、はっとわれに返った。

「今日は……メガネをしていないんだね。見ちがえたよ」

「……はい。なにかの拍子にメガネが落ちて、赤ちゃんに当たったりしたら困りますので、今日はコンタクトにしました」

「きれいだ……」

「え?」

「あ、いや」

 ノアは急いで話題を変えた。

「じつは仕事が思ったより早く片付いたんで、なにか手伝えることはないかと思って、さっき部屋を訪ねてみたんだ」

「そうでしたか。申しわけありません。今日は比較的過ごしやすい陽気ですので、ひなたぼっこをさせてあげようと思いまして連れてきました。赤ちゃんは、ときどき日光浴させてあげた方がよいので。お部屋のテラスより、こちらの方が海を近くに感じられますし」

「そうか」

 DDはあいかわらず立ったまま、どうふるまったらいいのかわからずにいるようだった。

「一緒にすわってもいいかな?」

「え? あ、はい、もちろんです」

 ノアが椅子に腰を下ろすと、DDもようやく椅子にすわり直した。

 ノアの顔を見て、ヒナノがきゃっきゃと笑い声を上げた。

「やあ、ヒナノ。よかったね、ひなたぼっこしてるんだ。気持ちいいね」

 いつものように、ノアの胸にヒナノへの愛おしさがこみ上げてくる。しかし同時に、すぐ隣にいるDDにたいする複雑な気持ちもわき起こってきた。

 ベビーシッターとしての彼女を一瞬でも疑ったことへの後ろめたさ。カジュアルな恰好をすると意外なほど若々しく、はつらつと見えること。あの分厚いメガネの奥に、ここまで美しい瞳が隠れていたこと。そして、いつもの冷静さからは考えられないほど、温もりと感情のこもったヒナノへの態度。

「あの」

 いつしかぼうっとしていたノアは、DDの声でわれに返った。

「せっかく来ていただいたんですけれど、そろそろお部屋に戻ってお食事させようかと思っていたところなんです」

「あ、そうか、そうだよね、そろそろ食事の時間か」

 ノアは立ち上がった。

「じゃあ、ぼくも一緒に行くよ」

「え、一緒に、ですか?」

「だめかな?」

「いえ、そんな……でも、お忙しいのでは?」

「いや、今日はもう仕事はしない。ヒナノと一緒に過ごしたいんだ」

「そうですか。それでは……どうぞ」

 ほんとうは、ヒナノだけでなく、DDとも、もう少し一緒にいたかった。なぜかはわからないが、DDの意外な姿を目にして、ノアの胸はざわつきはじめていた。

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