第3話

「ノア! いらっしゃい! 待ってたわ」

 ドアを開けてくれたのは、ステフだった。

 あいかわらず明るくて、はつらつとしていて、美しい人だ。ノアは心からそう思った。

「どうぞ、入って」

 ステフに案内されずとも、ノアにはすでに勝手知ったる家だった。

「よお、ノア」

 リビングのソファにカイがゆったりと腰かけていた。そしてそのひざには薄いクッションがのせられ、その上で、生まれて半年になる娘のヒナノが手足をばたつかせていた。

「どうぞ、くつろいで」

 ステフがそういってソファを指し示したあと、カイの肩にそっと手をおき、かがみこんでヒナノのおでこにキスをした。

「ご機嫌ちゃんね。ノアが来てくれたわよ」

 幸せそのものの家族の風景だ。自分も早くこういう幸せを味わってみたい。

 温かな家庭――ノアがなにより望むのは、それだった。自分と一緒に温かな家庭を築き上げてくれる、家庭的な女性と出会えれば。そんな女性を愛し、愛されるようになれば。

 はたして自分にそんな運命は待っているのだろうか……。

 ノアの脳裏に、先日、国王からいわれた言葉が蘇った。

 マカナか……。たしかに気立てのいい娘ではある。しかし、彼女をひとりの女性として見ることができるだろうか。いままでずっと、妹のように思ってきたのに……。

 ノアがそんなことを考えていると、ふと、ヒナノと目が合った。

「ヒナノ」

 ノアはカイの隣に腰を下ろし、ヒナノを胸に抱きよせた。

「元気だったかい? 久しぶりだね」

 そういって、やわらかな頬にちゅっちゅとキスの雨を降らせる。

「久しぶりとはよくいうぜ。先週も遊びに来たじゃないか」

「ああ。でもかわいいヒナノに1週間も会えなかったとなると、久しぶりともいいたくなるさ」

「まったく、このおじちゃんは、ヒナノに首ったけみたいだぞ~。ヒナノはパパの方がいいよなぁ?」

 カイも見るからにメロメロで、ノアからヒナノを奪い返すと、自分の胸に抱きよせた。

おじちゃん、、、、、はないだろう、お兄ちゃんといえよ。それに、もっと抱かせてくれ」

 カイとノアに代わる代わる抱っこされながら、ヒナノはきゃっきゃとはしゃいでいた。そこへ、ビールを手にしたステフが戻ってきた。

「ヒナノったら、いまからふたりの男を手玉にとるとは、将来が楽しみだわ。はい、ノア、ビール」

 ステフはそういってノアにビールを手わたした。

「今日はもう仕事は終わりなのか? まだ昼前なのに?」

 カイがからかうようにいった。

「ああ、今日は1日オフだよ。ほんとうは明日が休みだったんだが、急な会議が入ったんで、代わりに今日、休むことにしたのさ」

「え!? そうなの!?」

 いきなりステフが声を上げた。

 その大声に驚いたノアは、もう少しでビール瓶を床に落とすところだった。

「びっくりした。どうかしたのかい?」

 ステフががっくり肩を落としてソファにすわりこんだ。カイが彼女を慰めるように、その脚をぽんぽんと軽く叩く。

「仕事じゃしょうがないよ。だれかほかを当たろう」

「そういうけど……」

 ノアはわけがわからず、ステフとカイを交互に見やった。

「どういうことだ? なにかあるのか?」

 カイが、先ほどノアから奪ったヒナノをステフにわたし、ノアに向き直った。

「じつは明日、おれとステフが急遽仕事でオアフに行くことになったんだ。ヒナノは置いていかなきゃならないんだが、いつも頼んでいるベビーシッターが、明日、従姉妹の結婚式があるとかで、どうしてもヒナノを預かれないというんだよ。そういうときは、臨時で来てくれるベビーシッターがもうひとりいるんだが、そちらも外せない用事があるとかで」

「なら、宮殿に連れてくればいいじゃな――あ、そうか、いま母はヨーロッパに里帰り中だった……でも宮殿なら赤ん坊の面倒を見てくれる人がいくらでもいるだろうから――」

「でも、わたしたちのことも、ヒナノのことも、よく知らない人に預けるのは気が進まなくて。だからあなたに頼めれば、って思ってたんだけど。あなた、いつもよろこんでヒナノのおむつを替えてくれるし」

 ステフがくすりと笑いながらいった。

「そうか……そうだよな……いや、そういうことならもちろん引き受けたいけれど、明日の会議だけは、ちょっと外せそうにないな……」

「そう……」

 ステフがふたたび肩を落とした。

 カイが立ち上がって窓辺に行き、眼下に広がる海に目をやった。

 カイとステフが暮らす家は、ザ・ハートから車で10分もかからない高台に建っていた。職場に近いうえに、毎日絶景をのぞめる最高のロケーションだ。

「どうするかな」

 カイがそういったとき、インターフォンが鳴った。

 ステフが立ち上がり、抱いていたヒナノをカイにわたすと、壁に取りつけられたモニターの前に行った。

「あら? DD? ちょっと待ってね」

 ステフはそう応じると玄関に向かい、しばらくすると、DDの手を引っ張るようにして戻ってきた。

「ねえ! DDに頼めばいいんじゃない?」

 カイがきょとんとした顔をした。

 DDはわけがわからないようすだったが、そこにノアがいることに気づくと、一瞬、視線をさまよわせたあと、ステフに問いかけるような目を向けた。

「わたし、先日の契約書をお持ちしただけですけど?」

「いいからいいから、ちょっとすわってちょうだい。そうそう、いまからノアも交えてランチなんだけど、あなたも一緒にどう?」

「いえ、まだ仕事がありま――」

「いまは急ぎの仕事なんて、なにもないはずよ。それにあなた、いつもはたらきすぎ! おいしいパスタを用意したから、ぜひ食べていって!」

「……そうですか。では、お言葉に甘えて」

 DDはそういうと、ノアとカイの正面に静かに腰を下ろし、ふたりに向かって軽く会釈した。

「失礼します」

 きょうも、例によって例のごとくだな。

 ノアはDDを見るともなしに見ながら思った。

 DDは数年前にここマルルに到着したときから、滞在中はずっと同じスタイルで通していた。南国にいるにもかかわらず、パリッとしたスーツに身を包み、髪は1本も乱れることなく引っ詰めにまとめている。顔には礼を失しない程度の薄化粧と、黒縁のスクエア型メガネ。足には歩行に支障をきたさない程度のローヒール。

 ある意味、ここマルルでは非常に個性的なスタイルといえるだろう。

 ザ・ハートから派遣されたこのふたりがはじめてマルルに降り立ったとき、見るからに弾けたカリフォルニア娘のステフと、見るからに堅物のDDという正反対の組み合わせを、おもしろく思ったものだ。

 しかしDDは、堅物というだけでなく、非常に優秀な人材でもあることがすぐに判明した。ザ・ハート成功の半分、いや、3分の2がDDの功績といっても過言ではないだろう。

 とはいえ、牛乳瓶の底ほどはあろうかという分厚いメガネレンズの奥にどんな瞳が隠れているのかもよくわからず、いつもツンと取り澄まし、冗談をいっても通じないどころか、相手にもしてもらえない。

 そんなことから、ノアはDDにたいして、かなりの苦手意識を抱えていた。

 しかし、DDの顔がヒナノに向いたとたん、その表情がいくぶんやわらいだように見えた。

「お嬢さま、お元気そうで、なによりです」

「ありがとう。おかげさまで、元気いっぱいだよ」

 カイがにこやかに応じた。

「ところで、さっき奥さまがおっしゃっていた、わたしに頼めばいいとかなんとかというのは、どういうご用件でしょうか?」

「ああ、そうだな、ええと」

 カイはキッチンに消えたステフに助けを求めるかのようにそちらの方向をしきりに見やっていたが、やがてあきらめたのか、DDに向き直った。

 ノアは心の中でカイに同情した。

 そうだよな、ぼくも不得意だ、ミズ・DDと話すのは。常日頃から、できるかぎり避けたいと思っている。

「じつは、明日ヒナノを見てくれるベビーシッターが見つからなくて。知らない人間に預けるのはいやだし。だから妻は、あなたに頼みたいと思ったんじゃないかな。でも、忙しいならべつにいいんだ。迷惑をかけてしまうし」

 カイは申しわけなさそうにそう説明した。

 ところが、カイにとっても、そしてノアにとっても意外なことに、DDはすんなりこう答えたのだった。

「そうですか。では明日、お嬢さまをお預かりいたします」

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