第24話 カノジョの理想
講演の開始時間になっても戸森マヒロは会場に姿を見せなかった。段上の席に着いているのは大学教授に、精密機器メーカーの社長に、政府関係者…… 東堀に言わせれば『錚々たる面子』は次第にざわつき始めている。
「とっくに時間は過ぎているぞ?」
「おかしいな。さっき、ロビーで戸森博士を見かけたが……」
「運営のアナウンスはどうしたんだ?」
形式としては先端科学技術研究所を含めた、複数の研究機関による共同発表である。産官学の社会交流を目的としており、ここでの発表内容が翌年の研究費や設備の入手・人材の確保などにも影響してくるのだ。
東堀は所長という立場であり、もしマヒロがヘマをやらかせば責任の一端を追うことになる。しかし長い目で見れば大した傷ではない。この失敗を口実に目障りな天才研究者を排除するつもりでいた。
一時的に東堀の実績に傷はつくかもしれないが、それでも構わなかった。戸森マヒロをヒロインのようにチヤホヤする後援者たちを黙らせないと所長の地位も危ういのである。
(くっくっくっ……)
各所に挨拶を済ませ、会場の片隅で壁に背を預けた東堀は口元を歪めていた。
戸森マヒロの性格を考えれば、わざわざ顔を出して謝ることもしないだろう。
おそらくアナウンスで講演の中止を告げて終わりにする。
あとは東堀自身が周囲に申し訳なさそうな演技をして、マヒロを見つけて叱責すればいい。
(完璧だ。今度こそ上手くいった)
腕時計を確認すると既に定刻を5分過ぎている。中には席を立って、近くのスタッフに事情を聞いている者もいた。
もう限界だろう。次の公演も控えているし、そろそろアナウンスを入れなければ混乱は広がる一方だ。主催側だってそれを承知している筈である。
「おや、東堀所長ではありませんか」
「ん? あ、あぁ! これはこれは、フューチャーロボティクス社の大塚技術本部長ではありませんか!」
ソワソワしている最中で声をかけられ、驚きが隠せない。
作業着の上着にワイシャツとネクタイという格好の老人に声をかけられたのである。
センカギケンが長年、世話になっている機械メーカーのお偉いさんだった。
「いえいえ、既に引退しています。定年後の再雇用プログラムでね、今は役職なしの技術顧問ですよ」
「そうでしたか。ご無沙汰しておりましたので……」
新しい名刺を受け取った東堀だったが心ここにあらず。一分一秒がこれまで感じたことがないほど長かった。怨敵の決定的な失敗を待つのが楽しくて仕方ない。
「私も戸森博士の講演目当てで来たクチですが、なかなか始まりませんね」
「はぁ…… 申し訳ありません。うちの戸森がご迷惑をおかけして」
いかにも申し訳ないといった風体を取るも、内心は逆である。飛び上がって喜び出しそうなのを必死に堪えていた。
「とんでもない。センカギケンさんから弊社への引き合いが多くて助かっていますよ」
実際、無茶な仕様や納期の仕事を依頼しているので東堀でもフューチャーロボティクスの人間には頭が上がらない。こういった重要な面々が集っているのだから、その前で失態を晒すなど本来は論外なのである。
客観的に見れば(既にそんな視点は本人から失われているが)愚かしい破滅へと向かっているのはマヒロではなく東堀の方だった。若い才能を認める素直さがあれば、あるいは若さ故の奔放さを許容できる心の広さがあれば、また結果は違っていたのだろう。
大塚技術顧問の横で笑いを堪えていると、会場の前方の扉が大きな音を立てて開いた。視線が一気にそこへと集中する。入ってきたのはブレザーの制服の上に白衣を羽織った、小柄な少女だ。
「おぉ、ようやく始まりますか」
「えぇ、そのようですね」
(驚いた。姿を現すとは……)
遠くて表情は確認できない。だが足取りはしっかりしていた。
弱っている様子なんて微塵もない。
(なんだ? まさか開き直ったのか?)
猛烈に嫌な予感がしてきた。その予感を、センカギケンのサーバーにも主催者のパソコンにも発表資料は存在していないという安心感がどうにか支えている。万が一、バックアップの入った記憶媒体を持っていたとしたらとっくに公演が始まっている筈だ。
「お集まりの皆さん、こんにちは! センカギケン所属の戸森マヒロです! 遅れて申し訳ありません!」
壇上に立ったマヒロは深々と頭を下げ、それから笑顔で会場を見渡した。集まった面々のざわめきは急速に収まっていく。
喋り方も、立ち振る舞いも、忌まわしい人形のやり方と同じだった。科学に関する発表というよりはアイドルのステージみたいで見れたものではない。東堀の苛立ちは一気にマックスまで膨れ上がるが、その間もキャラクターをコピーしたかのようにマヒロは喋る。掴みのトークでアイスブレイクから入り、聴衆の待ち時間の苛立ちを自然と宥めていった。
(あの自信はなんなんだ!? プレゼンはできないんだぞ!?)
場内を巡るマヒロの視線が混乱する東堀を捉えた。これ以上ない極上のスマイルを見せつけてくる。その瞬間、背筋が凍りついて脚から力が抜けてしまう。
戸森ハジメが幾度となく東堀に向けてきた、あの笑いだ!
(ま、まさか……)
「失礼、ちょっと外します」
慌てて会場の隅まで移動し、自分用のモバイルPCを取り出した。センカギケンのサーバーに所長権限でアクセスする。マヒロのプレゼンのファイルは壊れたものに差し替えておいた筈だ。主催者に送られたデータにも同じ細工をしてある。登場が遅れたということはバックアップも持ってきていなかった線が濃厚なのに……
(何故だ!? データが復旧している!?)
これから発表されるファイルをビューワーで開くと、問題なく閲覧できてしまった。
念入りに何度もチェックし、壊れたファイルを上書きした筈なのに!
いったい、どうなっているのか見当が付かず東堀の脳みそは完全にショートする。あれだけ妨害してなお、マヒロはそれらを乗り越えてしまったのだ。
「それでは始めましょう。わたしの研究のテーマとその先にあるビジョン。『限りなくヒトに近づくAIと、その共存社会』について」
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