第23話 光の速さで
息をするのも忘れて一心不乱に自転車を漕いだ。渋滞しているクルマの横を走り抜け、バスよりもタクシーよりも速く、速く、速く。
すぐにビル街は背後へと消え、大きな道路を渡ると景色は住宅街のものへと切り替わる。
通るべきルートは浮かんでいるが意識するよりも先に手がハンドルを切った。稼いだを速度を殺して曲がるための全力ブレーキから焦げ臭さが漂い、鼻の中を焼く。
センカギケンの建物が見え、芝生の広い庭を自転車のまま突っ切り、倒れ込むように玄関の前へ自転車を置いた。扉に近づくと自動で開く。開閉の時間すら惜しくて隙間に身体を捩じ込んだ。
メモリストレージはメンテナンスベッドのある部屋の机の上にある。
散らかった廊下でダンボール箱にぶつかりつつ走り、目的の場所に辿り着く。低く唸る機械が並ぶ中でハジメが専用のベッドの上で寝ていた。目を瞑って手を組んだ姿は眠り姫のようである。
明かりを点けたサトルはすぐに机の上を探す。
しかし、紙のファイルや本が散らかっていてそれらしいものが見当たらない。あとはリペアキットと書かれた箱が置いてあるのみ。試しにそれを開けてみたがストレージは入っていなかった。
(もしかして床に落ちているのか!?)
今度は床に頬を擦り付けてくまなく視線を巡らせる。散らかっているため障害物だらけで見通しが悪い。
やはりストレージは見つからず、捜索範囲を広げるしかなかった。
一度、立ち上がってみると血流が途絶えて眩暈がする。ここまで全力で走ってきたせいでひどく消耗していて、倒れそうになった。
「は、早くしないと……」
嗚咽を漏らすマヒロの姿が思い浮かぶ。
あんなのはもう見たくない。もっと自信満々に威張っていてほしかった。
そうしているのが彼女らしい。らしくあってほしい。
何度もメンテナンスルーム内を見渡す。壁に埋め込まれたディスプレイは真っ暗だった。まるでこの先の未来を暗示しているみたいである。あと何分残っているか考えたくない。
(なんで俺、こんなに頑張っているんだろ……?)
期待されたわけじゃない。
やってくれと頼まれたわけでもない。
最初は、妙なことに巻き込まれたと思った。
本当は就職なんて適当に済ますつもりだった。
マヒロの力なんて借りなくても……別に良かったのである。
(俺は)
本当に天才だと思った。
自分よりも年下なのにすごいと感じた。
なのに人前で喋れなくて、偉そうで、ズボラで、見ていて危うくて……
「あ」
ふとメンテナンスベッドに横たわるハジメの姿で視線が止まる。競泳水着のような格好で首筋からは何本もコードが伸びていた。普段なら露出の高さに狼狽えてしまうところだが、緊急事態なのでそこまで気が回らない。
ハジメの大胆な格好よりも、もっと注目すべきものがあったのだ。組んだ手の中には……メモリストレージが握られている。
「あった!」
反射的にハジメの手の中から奪おうとするが、セメントで固めたみたいに動かない。
目的のものがすぐそこにあるのに取り出せないのだ。
指を引き剥がそうとしてもサトルの力では全く歯が立たない。
「どうなってんだよ、これ! おい、ハジメ! 手を開いてくれ! そのストレージが必要なんだよ! それがないと戸森先生が……」
眠り姫は反応しない。時間ごと凍りついてしまったようだ。
最近は人間臭いと感じるようになっていた相手が、あらためて機械なんだと思い知らされる。
(そういえば、戸森先生はハジメをディープスリープしたって言ってた。起動させるには……端末からコマンドを入力するか、強い衝撃を与えるか……)
その端末というのはマヒロの持っているモバイルPCのことだろう。
となるとできるのはサトルにできるのは『強い衝撃を与えること』だ。
しかし、どのくらい強ければいいのかとか、どこに与えるのかとか、肝心な情報が無い。
(リミッターさえ解除すればクルマを持ち上げられるとも言ってた。ということは、1トンくらいの力がかかっても平気なのか? でも殴るなんて……)
ここにきて、ハジメが人間型であることが仇になっている。ましてや姉妹のようにマヒロと似ているのだ。いくら機械だと分かっていても、無意識にストッパがかかってしまう。
(ダメだ。もう時間がない! 強い衝撃、強い衝撃……)
極度の疲労に時間制限。それらがサトルから判断力を根こそぎ奪う。
もう目の前のストレージを持ち去ることしか考えていない。そこいらに転がっている工具を拾い、一か八かぶん殴ってみる。あとでハジメにもマヒロにも全力で謝るし、もし許してもらえなかったら…… そのときは諦めよう。そう決意した。
しかし、限界を超えた足が痙攣を起こして力が入らなくなる。
もつれたサトルは前のめりにこけて……
「ぶっ!?」
メンテナンスベッドのハジメの顔目掛けて、思い切り頭突きをかましてしまった。
異様に固くて、頭蓋骨が悲鳴をあげる。脳みそが揺さぶられて意識が彼方へ飛んでいった。
「痛てぇっ!?」
この瞬間だけ元気を取り戻し、床の上に倒れて悶絶する。世界は容赦無くグルグルと回っていた。
目眩がおさまると天井とサトルの間に天使のような笑顔が割り込んでくる。
「大塚くん。キスの練習したほうがいいよ。キスはね、おでことおでこじゃなくて唇と唇でするんだよ。さっきのだと女の子は逃げちゃうよ?」
「は、ハジメ?」
「衝撃を感知して緊急起動したけど躯体に損傷はないみたい。大丈夫? 立てる?」
起き上がったハジメは首にケーブルを刺したままだ。差し伸べられた手を取り、サトルは身体を起こす。ハジメの手はひんやりしていて気持ちよかった。
「そ、そうだ! こんなことしてる場合じゃない! ハジメが握っていたストレージを俺に渡してくれ!」
「これ?」
首を傾げながらストレージを見せてくる。すぐにでも持って行きたいサトルが手を出すも、ハジメは咄嗟に頭上に掲げて避けてしまった。
「ダメだよ。これはマスターのものだから」
「そのマスターがピンチなんだよ! くそっ、もう時間がない!」
壁にかけてある時計に目を遣ると、講演のスタートまであと8分しかなかった。
自転車を全力で走らせても駅前のホテルまでは10分かかる。その間、信号が全て青だという条件を加えて……である。
絶望が頭にもたげて泣きそうになった。
「説明してもらえないと渡せないよ。マスターがどうしたの?」
「実は……」
マヒロの身に起きていることを、自分でも信じられないくらい簡潔に説明できた。情報を得たであろうハジメの顔色が少しだけ引き締まる。
「大塚くん、タイムリミットは?」
「あと7分しかない! そ、そうだ! ハジメの運動性能なら自転車より速く走れるんじゃないか!?」
「本気なら自動車よりも速く走れるよ?」
「じゃあ、頼む! 俺の足じゃもう間に合わない! そのストレージをマヒロに届けて……」
「でもダメ。躯体にはリミッターがかかってるし、メンテナンス用のケーブルを外さないと動けないの。どっちもマスターしかできない」
「そんな……」
ハジメの手を握ったまま崩れ落ち、頭の中が真っ黒に塗り潰される。
今度こそ打つて無し。
もっと早く自転車を借りられれば。もっと速く走れれば。もっと強くハジメの指を引き剥がせれば……
際限ない後悔に呑み込まれると涙が出てきた。
自分が情けなくて、どうやってマヒロに詫びればいいのか分からない。
今頃、サトルが戻ってくるのを待っている筈なのに……
「泣かないで、大塚くん」
「ハジメ?」
しゃがんだハジメが目元を拭ってくれた。
こんなに追い詰められた状況だというのに笑っている。けれどそれは諦めの色をしていなかった。マヒロの笑みとよく似ていて、自信に満ちている。
「マスターに電話を繋いで。私が話すから」
「でも、もう……」
「大丈夫。メンテナンスケーブルに繋がった範囲だけ動ければ十分だから」
ハジメの視線の先には床に転がるデスクトップパソコンがあった。これまで何度か研究所に来たことはあるが、マヒロがそれを使っているところは見たことがない。
「なにをするつもりだ?」
「すごく簡単なことだよ。私は光と同じくらい速いの」
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