第25話 いまならまだまにあう
こんなにドキドキしながら研究所に帰る経験はない。無事に講演を終えたマヒロは、与太話で引き止めようとする連中を振り切ってタクシーを拾った。だが駅前の道は混んでいてなかなか進まず焦れてしまいそうだ。後ろの窓に目を遣ると、傾きかけた太陽が先ほどまで滞在していたホテルを照らされている。ゲームをクリアした余韻に似ていて、勝ち誇りたい気分になった。
(また助けられた……)
講演の開始直前にディープスリープにしておいた筈のハジメから電話がかかってきた。
電話番号はサトルのものだったから借りたのだろう。
『マスターのアカウントのパスワードを教えて。メモリストレージに保存されている発表資料のファイルをセンカギケンのサーバーにアップロードし直すから』
ハジメにパスワードを伝えると1分と経たずに、サーバーに発表資料のファイルがアップロードされたのである。今度は壊れていなかった。
あまりにも焦っていたせいでサトルもマヒロも見落としていたが、わざわざストレージを持ってホテルまで戻ってくる必要はない。マヒロのアカウントのパスワードさえ分かれば、ストレージに残ったファイルを送ることができる。そのことにすぐ気付いたハジメはさすがだった。
しかし、勲章を授けるとしたら……サトルにだろう。
(ど、どんな顔を会えばいいのかわからないな……)
泣き崩れてしまったマヒロには、あのときのサトルは誰よりも頼もしく映った。待っている間は……大丈夫だと自分に言い聞かせられた。
思い出すと心臓が大きく跳ねた。
タクシーは混雑した区域を抜け、研究所に到着する。料金を払って領収書を受け取ったマヒロはなかなか足を踏み出せなかった。
広い庭の真ん中に円柱状のコンクリートの建物は見慣れたものである。
けれど今日は違った色に見えた。
(ご苦労だった! いや…… これじゃ偉そうだな。ありがとう! むぅ…… それだとハジメの真似してるみたいじゃないか)
せっかく梳かした髪を指でクシャクシャにしながら考えても、これだ!という第一声は思い付かなかった。
感謝の気持ちは本物だ。
胸の内側がくすぐられるような、けれど心地いい気分である。晴れやかで、世界が明るく照らされているような……
「わたしは……」
小さく手を握って胸に手を当てた。
ちゃんと言おう。助けてくれてありがとう、と。
ハジメの真似じゃない。これは戸森マヒロの本当の気持ちなのだ。
倒れて助けてもらったときは恥ずかしくてちゃんと言えなかった。でも今なら……
「よし」
勇気を振り絞って歩を進める。自動ドアのロックは開いたままで、マヒロは建物の中へと入った。
我が家と呼ぶほどの愛着はなくとも、棲家と呼ぶには相応しい。ゴチャゴチャとダンボールの積み上がった廊下を抜けてメンテナンスルームの前で足を止める。
息を大きく吸った。一度吐いて、もう一度吸う。それから髪の毛と白衣の襟元を整えた。
「サトル! 助けてくれてありがと……」
「あ、おかえりなさいマスター」
ベッドの上に腰をかけたハジメが微笑みかけてきた。露出度の高いボディスーツ姿のままで、首にはコードが何本も刺さっている。
そのまま視線をスライドさせるが、消灯したままのディスプレイの壁しか見当たらない。
渾身のお礼は対象となる人物がおらず肩透かしを喰らってしまった。
「どうしました、マスター?」
「サトルはどこだ?」
「自転車を返しに行きました。ホテルからここに来るのに、偶然会ったクラスメイトから借りたそうです」
「そうか……」
「残念そうですね」
「そんなことないぞ!」
落胆した様子を見せたつもりはないが簡単に見透かされていた。
意地を張る意味がないと悟るとマヒロはヘナヘナと壁に寄りかかる。
「お疲れのようですね。食事を用意しましょうか?」
「ハジメはそんなことしなくていいんだ」
「大塚くんと一緒に料理したことあります。買い物したこともあります。プラグコードを外していただければ対応できますよ」
「いいんだ。適当にその辺にあるものを食べる」
「では、お背中を流します」
「それもやらなくていい。サトルに臭いと言われてからちゃんと風呂に入っているんだぞ。自分ひとりでできる」
妙にハジメが気を遣ってくる。それが鬱陶しく感じられた。
自分が苛立っていることを認めるまで、少しだけ時間がかかる。AIに当たり散らしても意味がない。そういうためにハジメを作ったわけではなかった。
最高傑作たる人型AIは珍しく困惑した顔をする。
「こんなにも落胆するマスターを見るのは初めてです」
「わたしだって落ち込むことはある」
「10年以上もマスターを見てきて初めてのことです」
「やめろてくれ、ハジメ。親御視点で見られると、さすがに恥ずかしい」
「ですが」
「認識をアップデートしろ。お前はもう箱の中の教育AIじゃない。何度も何度も改良を重ねてきたんだ」
「はい」
自分では苛立っていると思ったのに、ハジメの目には落胆しているように見えたらしい。その違いがマヒロにとっては驚きだった。
(わたしは、落胆している?)
お礼を言うために気合いを入れたのに。
ちゃんと伝えようとしたのに。
肩透かしを喰らったショックがこんなに大きいなんて。
「マスター」
「まだ何かあるのか!」
「今ならまだ間に合いますよ」
「わたしにまた追いかけろとでも言うのか? 講演で疲れて帰ってきたんだぞ?」
それも悪くないと、内心では満更でもなかった。
サトルを探しに行ってお礼を言う。想像するだけで、心の芯が温かくなってくる。
照れ隠ししきれず頬を赤らめながらチラッとハジメの方を向く。
ハジメは……笑っていなかった。冷め切った無表情でマヒロを見ている。
「お、おい? その目は……」
「今ならまだ間に合います。大塚くんのことを好きになるのはやめてください」
「なっ……!? なななな何を言ってる!?」
好きになる?
天才・戸森マヒロがあんな冴えない男子高校生を?
ありとあらゆる否定のフレーズが脳内を駆け巡るも、そのどれもが弱々しくてすぐに吹き飛んでしまった。
煮えたぎるマヒロの心とは真逆で、ハジメはどんどんと温度を下げている。あれだけ人間らしく振る舞うようにプログラムされていたというのに、留守電のメッセージよりも淡々と続けてくる。
「私は高度に人間をシミュレートする存在として作られました。ですが今回は『恋愛支援AI』として試験の場に送り込まれています。その成否が次の予算にかかっています」
「確かにそうだが……」
「マスターがターゲットである大塚サトルと恋仲になった場合、『失敗』となります。計画の遂行者自らが、計画の成功条件を満たしたなどと報告して認められることはないでしょう」
「っ……!」
言わんとすることは理解できる。
ハジメがターゲットに選んだ生徒に恋人ができれば『成功』なのだが、その相手がマヒロでは『やらせ』と見做されても文句は言えない。そんなアンフェアな手がまかり通るわけなかった。
「わ、わたしは別に! あんなしょぼくれた奴のことなんか好きじゃない! ただ、今日のお礼をしようとしただけだ」
「そうですよね、安心しました。危うく私が使命を果たせぬ『失敗作』となってしまうところでした」
冬から急に春が来たように、ハジメは温和な笑みで口角を持ち上げる。
対照的にマヒロは底冷えした心を温められずにいた。
突き付けられた現実が重くのしかかって押し潰されそうになる。
「マスター、ディープスリープモードの仕様変更を提案いたします。緊急事態が発生した場合、対応が遅れる可能性があります。今回は偶然にも、大塚くんが私に頭突きをしたおかげで緊急起動できました。ディープスリープ時も意識を残し、私の判断で起動できるようにしていただきたいのです。ケーブル類のパージの権限も付与してください」
「……」
「マスター? 聞いておられますか?」
「き、聞いているとも! そうだな。早速、仕様変更だ!」
「ありがとうございます。ですがその前に、お食事を摂って下さい。顔色が優れませんので」
「そうか。うん、そうだ。とりあえず食べよう」
「もうひとつよろしいですか?」
「まだ何かあるのか?」
「マスターは今、幸せですか?」
長い時間、沈黙してしまった。
すぐには答えられない。どうしてAIが幸せかなんて聞いてくるんだろう。
「……」
「幸せではありませんか?」
「質問の意図が分からないから答えようがない。さっさと食べて、アップデートするぞ」
「わかりました」
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