第16話 君の頑張りに「ありがとう」
夕餉は温かい野菜スープだった。丁寧に煮込まれていて食べ易かった。買ってきたパンを浸して口に運び、よく噛んでから飲み込んだ。身体に力が戻ってくるのが分かる。いつもはお菓子とコーラで済ませてしまうから、温かい食事で元気になるという感覚は久しく忘れていたのだ。
それからハジメに付き添われて風呂に入る。
本当は、こんなことにハジメを突き合わせたくない。定期的に表皮や髪のクリーニングは必要だが、人型AIが湯船に浸かる道理はないのだ。第一、申し訳程度の広さしかない研究所の浴室は狭いのである。
「戸森先生がちゃんと身体を洗うか見張ってくれ」
「大塚くんは一緒に入らないの?」
「俺を犯罪者にしたいのかよ……」
そんな会話が入浴前に繰り広げられたが、マヒロは異論を挟目なかった。
バスタオル1枚になったハジメに付き添われ、言われた通り頭と身体を洗うとサッパリして気持ち良かった。
食事と風呂を終えると抗い難い眠気に襲われる。
そこでようやくサトルは帰ると言い出した。
「スープは多めに作っておいたから、明日の朝にでも温めて食べて。食器とか包丁とか置いておくから。パンはハジメに頼めば、食べ易い大きさに切ってくれる。ソファじゃなくてちゃんとベッドで寝てくださいよ」
「いちいちうるさい」
「というか、ちゃんとベッドあるの? この研究所って」
「一番奥に職員用の休憩室がある。そこで布団を敷いて寝ているぞ。狭いが、まぁ寝起きするには問題ない」
「大塚くんは泊まっていかないの?」
「散らかっていて寝る場所すらないだろ」
「私のメンテナンスベッド、二人くらいなら寝られるよ?」
サトルの焦った反応に、ハジメは満足しているように見えた。こんな風に人間を揶揄うようになったのは進歩と言える。実際のところ、ハジメの躯体に沿って窪んでいるメンテナンスベッドでは二人寝ることなんてできない。
(ちょっとは回復したか)
帰宅してから疲れてぼんやりとしていたマヒロだが今はそれなりに回復していて、少しは頭が回りそうだ。
しかし、見張りを頼まれたハジメがいるから大人しく床についた方が良さそうである。
勿論、ハジメの命令を上書きすることは容易い。サトルの依頼はあくまで顔見知りが出したものであり、命令となれば優先権はマヒロにある。彼が帰った後で憎き講演原稿を書き上げて発表練習することもできるのだ。
けれどそれは、ここまで面倒を見てくれたサトルの気持ちを踏み躙る行為であり、絶対にしたくなかった。
(なんなんだろうな、これは)
久しく味わってない感覚だった。
釈然としないまま寝巻き姿になって、出入り口でサトルを見送ろうとしている。
「じゃあ、おやすみ」
「うん。おやすみなさい、大塚くん」
「……」
挨拶して去っていく。扉が閉まり、ハジメと二人きりになる。
胸の内側には何かが渦巻いていた。その正体をなんと呼べばいいのか、マヒロの天才的な頭脳でも分からない。
「マスター、料理は美味しかったですか?」
「ん? あ、あぁ。少し柔らかすぎたけどな」
「大塚くん、食べ易いようにって柔らかく煮た野菜スープにしたんですよ。スープなら多めに作っておけば、温めればまた食べられるから……って」
「お節介な男だ。わたしを子供扱いして」
「あと、応援したいって言ってました」
「わたしを? どうせ就職のためだろ。そういう約束だもんな」
ハジメはゆっくりと横に首を振る。
「自分はもう頑張れない人間だから、頑張っている人を応援したくなった……って」
「なんだそれ。勝手な奴だ。まだ高校生なのに『もう頑張れない』だと? まったく呆れる。いくらでもやることがあるだろう。それを見つければいいだけの話だ」
なんという情けない男だ。
憤慨のあまり、通路に積んであるダンボールの箱を殴りそうになった。そんなことしたら崩れて面倒なので思いとどまったけど。
戸森マヒロは全力で生きている。やりたいことがたくさんある。それを成し遂げるために日々の努力を欠かさない。
その正反対の大塚サトルは『もう頑張れない』と抜かした。
許せなかった。どういう理屈でこんな感情が湧いてくるのか理解不能で、そのことがさらに苛立ちに輪をかける。
あのやる気のない面を引っ叩いてやりたい。本当にやりたいことがないのかと聞いてやりたい。頑張れないなんて言うなと喝を入れてやりたい。
「ハジメが見定めた通り、しょぼくれた男だな! 嘆かわしい! 本当に嘆かわしい!! あんな奴にカノジョができるわけもないだろう。これではわたしたちの実績作りは絶望的だな!」
「どうしてマスターが怒っているんですか?」
「怒ってない! ただイライラしただけだ!」
「そうですか。でも、『しょぼくれた』はもう違うかも」
調理のために白衣を着たというハジメを鋭く睨みつける。
しかし、迫力はない。ハジメの笑顔で毒気を抜かれてしまったのだ。
「マスターが倒れたとき、大塚くんがクラスで一番最初に行動したんです。みんな慌てふためいて何をすればいいか判断できなかったのに、私に保健の先生を呼ぶように指示して」
「……」
「だからもう、しょぼくれてなんかいないですよ」
あのとき、本当は恥ずかしかった。画面越しとはいえみんなの前で倒れて、自分が情けなくて仕方なかった。
たかだか講演ひとつでここまで憔悴して、なにが天才だ。
結局、誰にも相談できず自分で解決しようとしてこのザマである。生活はいつも以上になおざりで、体調を崩して頭が回らなかった。それなのに学校では特別講師の仕事をしなくてはいけない。より追い詰められていった。
「大塚くんにお礼を言うべきだと思います」
「私に命令するのか?」
「提案ですよ、マスター。私は命令などできない存在です」
「涼しい顔して…… 学校に通うようになってから小賢しくなったぞ」
「そうでしょうか? でも、私はマスターの娘ですからお考えになっていることもなんとなく分かります」
「まどろっこしい! ハッキリ言ったらどうだ!」
「今ならまだ間に合いますよ」
そこまで聞いて、マヒロは顔を真っ赤にして給湯室へ走った。コンロの上には鍋が置かれていて、未だに良い匂いが立ち込めている。
冷蔵庫から瓶のコーラを二本取り出し、握り締めると急いでセンカギケンの出入り口から飛び出す。
靴は履いていない。スリッパのままだ。体力がないからすぐに息が切れた。
通りに出ると、遠くの電灯の下にサトルの背中を見つける。
「待て!」
走る。走る。瓶の重みで腕を振るとバランスが崩れた。倒れそうになると歯を食いしばって、振り子のように元に戻ろうとする。
疲れなど忘れて、無我夢中で走る。
足を止めて振り返ったサトルの前に到着すると、マヒロは肩で大きく息を繰り返した。
「と、戸森先生? いや、何してんだよ。もう寝てろって」
「これ!」
右手と左手に一本ずつの瓶をサトルに差し出した。
酸素の足らない身体が悲鳴をあげて、膝から崩れ落ちそうである。
「あぁ、鬼ごっこの賞品でコーラ貰えるんだっけ。ハジメが譲ってくれるって言ってたし。でもそんなに急がなくたって」
「これは、お礼!!」
「えっ?」
「お礼!!」
すごい剣幕に押されてサトルは瓶を受け取ってしまう。
一方、オーバーヒート気味のマヒロは苦しそうだった。必死に酸素を取り込もうと息をしている。
今度はサトルの顔が赤くなった。視線を逸らして「あー」とか「うー」とか呻いている。
「ひゃ、150円だっけ? 2本だから300円?」
「す」
「す?」
「す」
「いや、『す』ってなに?」
マヒロの消え入りそうな声を拾うため、腰を曲げて耳を近づけてきた。
それがサトルなりの照れ隠しであることは十分に伝わっている。
けれども、勇気を振り絞って駆け出した女の子にしてみれば屈辱でしかない。
「素直に受け取れ、バカ!!」
「ひっ……」
ありったけの罵声で鼓膜を叩かれ、仰け反ったままサトルは硬直している。
あたりはすっかり静かになっていたが、あまりの声量に反応したのかどこかの飼い犬が吠え始めた。
呆気に取られているサトルの前で、寝巻きにスリッパという格好のマヒロは精一杯胸を張って仁王立ちする。
「そもそもの話だ! サトルに心配されなくても、講演くらいやりきってみせる! わたしは天才だからな!」
「人前でガチガチになるくせに……」
「けど!」
背後で足音がした。追いかけてきたハジメのものだろう。
そちらは振り返らず、あくまでサトルに向けて。
「これからはちゃんとご飯は食べるし、夜更かしはしない! どうだ! これだけ時間のハンデを背負っても私は余裕だ! すごいだろう!!」
果たして、伝わっただろうか。
マヒロも素直に感謝を口にできないタイプだ。
さっきの言葉で、良かったのだろうか。少しの間、不安になったがすぐに払拭される。
サトルは呆れたような、けれど嬉しそうな顔で笑ってくれた。
それがとても満足で、マヒロも満面の笑みで応えた。
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