第6話 暴走追跡者

 ハジメの顔がどんどん迫ってくる。ふっくらとした唇に目を奪われていたサトルだったが、このままなされるがままというわけにはいかない。


「おい、あっち! 誰かに見られてるぞ!」


 人気のない校舎裏では苦しい嘘だったがハジメの手から力が抜ける。美貌から一瞬で笑顔が消え、ニュートラルな表情に戻って周囲を見渡した。


(いまだ!)


 背にした壁を蹴り、その勢いでハジメの身体を押し抜けて細い通路を駆け出した。

 運動は得意じゃなかったが逃げ足は速い。みるみるうちに引き離し、校舎裏を抜けるタイミングで背後を振り返る。点のような大きさで突っ立ったままのセーラー服姿が見えた。


(よし、逃げ切った)


 これだけ距離が開けば追いつけまい。そうタカを括ってスピードを緩めた瞬間、ハジメの両眼が赤い光の糸を引いて揺れた。

 高さ2メートルほどの土埃が舞い上がり、狂った距離感でハジメが走ってくる。


「うぇっ!?」


 速いなんてモンじゃない。瞬きしているうちに追いつかれそうだった。

 サトルはその場で向きを変え、校舎の外階段へと飛び込む。あまりにダッシュが速過ぎたハジメはオーバーランしてしまい、低い姿勢でブレーキをかけて止まろうとしていた。ローファーの底が駐車場のアスファルトと擦れ、不快なゴム臭が漂っている。サトルはもう振り返らない。痙攣しそうな脚を引き摺って階段を駆け上がった。


(なんなんだよ、あの女!?)


 考察している余裕が全く無い。

 そもそも逃げる必要があるのかすら分からなかった。

 けれど、あのまま抵抗しなければ大事な何かを失っていた気がする。

 そしてここで足を止めたらこれまでの抵抗が無駄になってしまう。こんなピンチの時こそ、呼吸を整えて脳に酸素を回さなければならない。


(落ち着け! 相手は今日来たばかりの転校生! 校舎の中なんて分かってないハズ!)


 三階まで登って校舎の中に入ると、幸か不幸か人の気配が無く静まり返っている。このフロアは理科室や調理室が並んでいるため、放課後は文系の部活動に所属している生徒しか来ないのだ。ちょうど彼ら彼女らの部活がない日なのだが、そんなこと帰宅部のサトルは知らなかった。

 背後からは階段を駆け上がる足音が聞こえてくる。

 サトルは咄嗟に理科準備室の中に入り、扉を閉めて息を潜めた。鍵のかかった棚の中に薬品が並んでいて、ホルマリン漬けの魚やら爬虫類やらも置いてある。こんな不気味な場所には長居したくなかった。


「大塚く~ん、どこ~?」


 澄み切った美声なのに、耳にしただけで腹の底から冷える。

 呼ばれたのは自分の名前だが精神を壊す魔法のように感じた。

 緊張で震えていると廊下の方では規則正しい足音が響いている。ハジメが近づいてきたのだ。


(なんで俺が追い回されなきゃいけないんだよ! 俺が何したっていうんだ!?)


 それを本人に質問したところでまともに答えてくれそうにない。

 思えば、ハジメとの会話は最初からズレていた。受け答えはしているのに意味が通らず、こちらのことは公然と無視されている。


(俺が女の子と付き合ってどんなメリットがあるんだ? そういうのって強制するもんじゃないだろ。あぁ、腹立つ……)


 募る恐怖は徐々に怒りの色を帯び、動かぬ身体をどうにかしようと本能が鼓舞してくる。

 ただし、十全に動けたところでハジメよりも運動神経がいいとは思えなかった。


(あのパワーに、あのスピード…… 俺なんかに構わず運動部にでも入りやがれってんだ。どうして、俺みたいな奴に……)


 足音がピタリと止まる。

 扉のちょうど向こう側だった。

 見上げると、曇りガラス越しにハジメが覗き込んできている。


(怖い、怖い、怖い、怖い…… ホラー映画のモンスターじゃないか、お前!?)


「見つけたぁ」


 サトルは近くにあったパイプ椅子を横に倒して引き戸の間に挟んだ。素直に鍵をかけてしまえばよかったのだが、パニックに陥ってそんな簡単なことにすら頭が回らない。

 つっかえ棒代わりの椅子は数秒間だけハジメの侵攻を止めてくれる。

 しかし、鉄製のパイプは扉に押されてグニャッと曲がってしまった。ハジメが尋常でない力で扉を開いたのだ。扉側もレールがひしゃげてしまっている。


「ひっ……」


 情けなく床を這って逃げる。

 出入り口に陣取ったハジメはこちらを見下ろしてくるが、やはり笑顔だった。そこから温かみや可愛さを感じ取ることは到底無理になってしまったが。


「な、な、なんで俺を追い回すんだよ!」

「女の子の魅力を教えてあげようと思って」

「もう十分に堪能しましたぁ! 100メートルを5秒くらいで走ったり、パイプ椅子をヒン曲げたり、女の子ってすごいなぁ!」

「じゃあ、もっとすごいところ見せてあげる」


 ドキドキの意味が二重になって、汗が吹き出してくる。

 片膝をついたハジメはサトルの手を掴んで引き寄せて……

 うなじの辺りがパカっと開いたかと思うと、圧縮された空気が抜ける音がする。


「え」


 一気にハジメから生気が失せ、あれほど強烈に動いていたのが嘘のように沈黙する。

 目は開いたままだが光は宿っていない。


「え? え?」

「……まったく、こんなことになっているなんて」


 独特の鼻声が理科準備室の外から聞こえる。

 扉の向こうには白衣姿の小さな女の子が立っていた。ボサボサの髪の毛を掻き毟り、首から下げた栓抜きをハジメのうなじに向かって差し込む。カチャっと金属音がして、ハジメは静かに目を瞑った。


「戸森マヒロ……先生?」


 今朝の体育館で見た顔だ。

 新任講師にして天才少女の戸森マヒロ博士その人である。


「こんなに早い段階で非常停止用の物理キーを使う羽目になるとは。まぁ、音声認識の停止コードを使わずに済んだのは不幸中の幸いか……」

「あの、何してるんです?」


 首筋に栓抜きを刺されたハジメは、膝を突いた姿勢のまま硬直している。呼吸している様子すら無かった。

 マヒロは半目になってサトルのことをジロジロ見る。


「なるほど。キミがハジメのターゲットというわけか」

「ターゲットって…… いや、確かに追い回されたけど」

「キミ、口は固いか?」

「え?」

「非常停止させてしまうと面倒なんだ。研究所に戻らないとリブートできない。この子を背負って、わたしのラボまで来てくれ」


 ハジメのうなじから物理キーと呼んだものを抜き、マヒロは再び首から下げた。

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