Day27 渡し守

 目覚めると見知らぬ河岸に立っていた。重苦しい曇天。湿って淀んだ空気。川の流れは穏やかだが、水は大雨の後のように濁っている。何処までも見透せはするものの、大小様々な石ころが転がるばかりで何もない。地平線の先まで陰気な河だ。

 どうして此処に居るのだろう。というより、どうやって来たのだろう。僕は記憶を引っ掻き回す。が、断片さえ思い出せない。摑めそうで摑めない霞さえ現れない。もしや、知らない間に廃墟で眠っていた弔路谷怜ちょうじたにれいの似非夢遊病に感染してしまったのだろうか。だとすれば、弔路谷からうつされたに違いない。

 さあ、困った。空虚な河を意味なく眺めていると、何処からともなく陽気な声が聞こえてきた。次第に近付いているのが判る。

 そちらへ視線を遣れば、ひとりの男が居た。彼は小舟を漕ぎながら歌っていた。何の歌かは判らない。少なくとも日本の歌ではなかった。外国の民謡のように聞こえる。

 じっと見ていると必然、男と眼があった。にかっと眩しいぐらいの笑顔で「やぁ!」と声を上げ、僕の傍に小舟を寄せてくる。

「オニーサン、乗ってくかい!?」

 僕は反応に困った。乗るか否かで迷ったわけではない。

 小舟の男は襤褸を纏い、無精髭を生やしていた。が、どう見ても弔路谷怜だった。正しくは「弔路谷怜を男体化させたら、こうなるだろう」姿をしていた。まさか。あいつが此処に居るはずがない。僕は内心で頭を振って否定する。

「はい、乗ります」

 この場に留まっても埒が明かない。僕は、弔路谷くんの言に頷いた。すると

「じゃあイチオボロスね」

 と言われた。

「イチオボロス……?」

「そ、乗船賃」変わらぬ笑顔で人差し指を立てる弔路谷くん。

「……持ってないです」

「んぬえっ、持ってないの!? マジかー……じゃあ、今回は特別、タダで良いよ!」

「え、良いんですか?」

「うん。良いよ良いよ! オニーサン、俺の大親友にクリソツだから。サービスサービスゥ!!」

 そういうことなら。と、僕は有り難く無賃乗船をさせてもらう。

 小舟は、獣の皮を縫い合わせて作られていた。最初こそ沈むのではと不安で仕方がなかったけれど、思いの外、頑丈に出来ているらしい。弔路谷くんの櫂捌きも見事なもので、全く揺れることなく滑るように進んでいく。乗り心地は申し分なかった。

 河の中ほどに来たところで電子音が歌声を遮った。音の正体は、男が持っているスマホだった。

 小舟を止め、「ちょっと失礼」と電話に出る弔路谷くん。

「しもしもー? いっちゃんどしたー? …………うん。え? うん。うん。……えぇ!? マジ!? 嘘でしょ!? アッううんへーきへーき! セーフセーフ! アウトよりのセーフ! うあー、あっぶねー!!」

 男体化しても〈弔路谷怜〉は〈弔路谷怜〉だな、と思った。非常に喧しい。まあ、彼が弔路谷怜(♂)である確証はないけども。寧ろ、生き別れの二卵性双生児と言われた方が納得できる。弔路谷に兄弟姉妹がいない説は、過去の会話から僕が勝手に立てた推測に過ぎない。

「いっちゃんありがと、愛してる!」

 んーっま、とキスを送るような仕種を最後に、弔路谷くんは通話を終えた。スマホを襤褸の中にしまい、振り返って僕を見る。

「ごめんね、オニーサン。いや、俺はぜんっぜん、爪の先ほども悪くないんだけど。取り敢えず謝っとくね。ごめん」

「あの、何がです……?」

「オニーサン、死んでないって」

「は?」

「だから、まだ生きてんだって。だから、あっちに渡すのはまた今度ね!」

 そう言って、弔路谷くんは僕の胸あたりをドンッと蹴った。崩れたバランスを整えることもままならず――というより、何故か脱力しきった僕の身体は、背中から呆気なく河へと落ちる。

 濁った水が、口や鼻から容赦なく入ってくる。どれだけ深いのだろう。足が河の底につく気配がしない。それどころか、どんどん沈んでいく。誰かの手で引き摺り込まれるみたいに。

 もがきながら、僕は男体の弔路谷怜を思い出す。彼は言った。

「あっちに渡すのはまた今度」

 つまり、先の未来で再び相見えるというわけだ。その時が来たら、今度は僕が彼を河に落としてやろう。絶対にだ。そう堅く決心して、僕は一切の抵抗をやめて目蓋をおろす。

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