第20話 止まない雨、墜ちる光

 百地魅遊に本格的に喧嘩を売った紗希に待っていたものは容赦無い攻撃であった。第一波を軽くあしらっても第二波、第三波と来たら間違い無く戦火は広がる一方だろう。


「はぁ~……ほんっとにダルいわねぇ」


 望の提案により、紗希は学校近くのホテルを暫くの避難先とした。二束三文の家とはいえ、反社会的勢力相手に特定されようものならどんな嫌がらせをしてくるか分からないからだ。


「荷物をお持ちしました。ソーニャもメイド長に連絡して一時的に本宅へ預かっておくよう頼んでいます」


 備え付けのクイーンベッドで寛ぎながら大きく溜息をついていると、分厚いトランクケースを二個担ぎながら望が入室してきた。ふと窓の景色を眺めていると、さっきまで小降りだった筈なのにいつの間にか本降りとなっていた。


「何で私がこんな逃亡者みたいな事をしなきゃいけないんだか」

「手っ取り早く解決する方法ならありますよ。それは――」

「駄目に決まってるでしょ」


 聞くまでも無い。どうせ全員抹殺するとか一生足腰立たせなくさせるとかの類だろう。紗希が一蹴すると、望は少しばかり不服そうな顔をしていた。


「まだ何も言っていませんが」

「どうせ物騒な事言うつもりなんでしょ? 私の事を喧嘩っ早いって言ってたけどアンタも人の事言えないわよ」


 どうやら図星らしく、望は何も言わずに微笑んでいた。法治国家であるこの日本において何でもかんでも暴力で解決しようなんてのは下賤な輩がする事であり、下劣な手段を用いて父の沽券を穢すのは決してあってはならない。この男はそれを未だ分かっていない様だ。


「ですがこのままだと埒が明きませんよ?」

「分かってるわよそんな事。……ま、暫くは大人しくしておきましょ」


 あの精神異常者が簡単に諦めてくれるとは考えられない。色々考えても最善策は思いつかない。一先ずリフレッシュしようとベッドから降りた紗希はトランクケースから着替えを取り出し、浴室へと向おうとした。


 ブレザーのボタンを外している最中、ふと気が付いた。信頼している従者と言えども歳上の男と同じ部屋で共にするのは危険な事なのでは、と。


「……望!! 言っておくけどヘンなコト考えないでよね!!」

「……紗希。変な事とは一体何の事でしょうか?」


 寝込みを襲われる所を思わず想像してしまった紗希は、急いで洋室で一人佇んでいる望の所へ戻って釘を刺した。いつもの様に揶揄からかってくるものかと思いきや、男は皆目見当がつかないとばかりに呆けていた。


「~~っ! バカ!! エッチ!!」

「……?」


 これではまるで、此方が如何わしい事ばかり考えている変態みたいではないか。思わぬ反撃を食らってしまった紗希は、激しく顔を紅潮させながら悔し紛れにブレザーを望の方へ放り投げ、浴室へと逃げ込んだのだった。



「全然眠れなかった……」


 あれから紗希はベッドに潜って寝ようとしても、近くの床で臥せている男の動きが気になってしまって目を閉じる事が出来ずにいた。当の本人は起きる所か、寝返りすら打たずにピクリとも動かないままであった。

 夜中の三時頃まで横になりながら見張っていたが、結局睡魔に勝てず、気を失う様に寝てしまっていた。時刻は六時五十四分。二度寝する時間は一切無い。


「紗希。朝ご飯が届きましたよ」


 そんな彼女の気も知らず、望はいつもの様に身支度を済ませており、いつもの表情と共に受け取っていたルームサービスの朝食を配膳していく。


 旬の野菜と時鮭ときしらずを包み込んだエッグベネディクトに、上質なメイプルとキャラメルでほんのり甘い香りを漂わせているパンケーキの組み合わせという、最高の朝の一時を迎えるにはうってつけのブレックファストだ。快眠出来て尚且つ今日の天気が雨でなければ、の話になるが。


「どうかしましたか?」

「……うっさい」

「――大変失礼致しました」


 向こうに落ち度は無いのは百も承知だった。だが寝不足で気分が優れていない時にその澄まし顔を見ていると、何故か無性に腹が立って仕方がない。軽く小突いて憂さを晴らすと、望は軽く微笑みながら空いているグラスに果肉入りオレンジジュースを注いだのであった。


「ふぁぁ~ねむ……」


 欠伸あくびを零しながら、紗希は学校目指して土砂降りの雨の中を歩く。今日はどうにもやる気が出ないので体調不良でも装って保健室で休もうかと考えていると、ふと後ろから何者かが接近してくる。

 並走してきたので横目で確認すると、思わず変な声が出そうになった。


「おはようございます。……どうしました? 体調が優れない様に見えますが?」


 どの面下げてノコノコ現れてきたのやら。慇懃無礼な態度と共に百地魅遊が此方の顔を覗き込んで微笑みかけてきた。


「何処かの誰かさんのお陰でね」

「まぁ、それはでしたね」


 何が災難だ、ふざけるのも大概にしておけ。飽く迄も白を切るつもりらしいが、昨日の刺客に関しては間違いなく黒と見ていいだろう。


「……昨日はごめんなさい。私、風間さんの事を少しばかり見誤っていたようです」

「……そう。アンタが何もしてこなければ私は別に何もしなかったのにね」

「ええ、その通りです。……私、もう貴女には近付かない様にします」


 一体どういう風の吹き回しなのだろうか。昨日の襲撃の時点で無駄だと知ったという事なのだろうか。どちらにせよこの女は信用ならない。きっと何か裏があるに違いない。


「――ですので、貴女も金輪際近付かないで下さいませんか?」

「何それ。……ま、別にいいけど」


 密かに後ろで見張っている望に視線を送る。男はほんの僅かに首を横に振った。伏兵を張っている気配は無いようだ。本当に手を引くつもりの様にも見える。今は下手に刺激しない方が良いのかもしれない。


「ふふ、有難うございます。――では」


 そう微笑みかけて魅遊は先行していった。つくづく癇に障る奴だと紗希はその背中に軽く舌打ちをした。


「紗希」

「わぁっ! 急に後ろに来ないでよっ!?」


 雨が降り頻っている筈なのに、足音どころか物音一つせずに望が真後ろに来ていた。驚愕によって昂ぶっている鼓動を抑えながら紗希が振り返ると、男は彼女の背に合わせて屈み、耳打ちしてくる。


「あの女狐、まだ腹に一物抱えている筈です。どうかお気をつけて」

「分かってるわよそんな事。それよりアンタは隠密行動でしょうが――」


 また振り返ってみると、今度は一瞬の内に影も形も無く消え去っていた。せめて返事位してから下がるものだろう、と紗希は辟易のあまり大きな溜息を吐いた。


 雨が止む気配は一向に無い。寧ろ激しさを増す一方だ。空を支配している濃灰色の分厚い積乱雲が雷鳴を轟かせる。傘を差しても防ぎ切れない程の豪雨が地上の人々を襲う。


 急いで校舎に入ろうと紗希が学校近くまで早足で向かっていると、目の前に人集ひとだかりが出来ていた。こんな横殴りの雨の中、何を立ち止まっているのだろうと興味本位で近付いてみると、突如として望が目の前に現れて立ち塞がった。


「紗希。あまり見ない方が宜しいかと」

「心臓に悪い! いきなり出てくるんじゃないわよもうっ!」


 伸ばしていた男の腕を強引にどかし、紗希は人混みの隙間から覗き込んでみた。停車している白く大きな車が見えた。地面に黒い破片のようなものと赤黒い丸が飛び散っているのが見えた。


 ――嫌な予感がする。そう思いつつも紗希は身体をくねらせ、群衆の合間を縫って前に飛び出してみた。白い車の正体は救急車で、黒い破片は車のボディの一部で、赤黒い丸は血痕だと判明出来た。


「交通事故? 物騒ねぇ……!?」


 丁度ストレッチャーに乗せられて負傷者は搬送されるらしい。紗希は生気を失っているその顔を見て思わず言葉を失った。


「鳥嶋!! おい死ぬな鳥嶋!!」

「しっかりなさい鳥嶋!! 死んだら一生許しませんわよ!!」


 交通事故に遭ったのはどうやら絵里香の取り巻きの一人だった。頭から出血してぐったりしている鳥嶋と懸命に怒声を浴びせる絵里香と牧瀬。患者を乗せた救急車はけたたましいサイレンを鳴り響かせながら走り去っていく。


「何……それ……」


 ――紗希はそれをただ立ち尽くして見ている事しか出来なかった。

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