第2話 ひとりぼっちのお嬢様

「――まったく。朝っぱらからワザワザ走って追い掛けなくったって、昼休みの時間にでも持ってきたらいいのに」


 家に忘れてしまっていた弁当を渡し終えた使用人はソーニャを背負って帰っていく。数十キログラムは優に超える大型犬を背負いながらバスを追い越す程の速度で走り、尚且つ汗一つ掻いていないという本当に人間かどうか怪しい身体能力の持つ男、風間望。彼と出会ってからもう一年経つが、未だに謎多き人物である。紗希はそんな男と一つ屋根の下で暮らしているのである。


「……あれからもう一年が経つのかぁ」


 望とソーニャの背中を見届けた後、紗希は教室へ向かいながらふと一年前の出来事を思い出していた。



 風間紗希の父は日本人なら知らない人は殆ど居ないであろう企業の社長であり、紗希はそんな父の一人娘として産まれ、父子家庭で育った。

 物心つく前から母を亡くした影響からか、父が母の分まで愛情を注いでくれた。それはもう、世界が自分を中心に回っていると思い上がってしまう程に。


 溺愛されて育った紗希は父の期待を裏切る事無く育つ。容姿端麗、成績優秀で運動神経も抜群。文武両道の完璧な美少女として育った。何事に対しても直ぐに自分の物に出来る天才肌の持ち主であったが、そんな彼女にも唯一にして致命的な欠点があった。


—―本当に世の中ってバカばっかりで嫌になるわ。


 中高一貫の名門私立校での入学式。新入生代表としての挨拶を終え、演壇から生徒や教員、保護者達の顔を見下ろしながら紗希は内心毒突いていた。


「正解です。完璧な解答ですね風間さん」

—―当たり前でしょ。アンタが掛けてるその眼鏡はちゃんと機能してるの?


 傍若無人にて唯我独尊。そう、紗希は齢十二にして非常に傲慢な女へと成長してしまった。なまじ天才として生を授かってしまった彼女は挫折も失敗も苦労も殆ど経験しないまま生きてきたので、努力を必要とする凡人に共感出来ずに居た。


「おはようございます風間さん! 今日もとても美しゅうございます!」

「お荷物お持ち致します! 風間さん!」

—―類人猿が何の許しを得て話しかけてきてるワケ? とんだ身の程知らずね。


「はぁ~ダル。風間と同じクラスとかマジ憂鬱なんだけど」

「金持ってて勉強も出来て運動も出来てちょっと可愛いからって調子乗り過ぎだよね」

—―蝿ってのはどうしてこんなにも品の無い羽音しか出さないのかしら。


 高嶺の花として男子達から羨望の眼差しを、不俱戴天ふぐたいてんとして女子達から嫉妬の眼差しを向けられる事となったが、常に学園の頂点に君臨していた紗希に近付ける者は教師含め一向に現れず、三年間孤独な中学生活を送っていた。


「お、お帰りなさい。紗希お嬢様」

「……パパは?」

「だ、旦那様は今日から九州の支店に出張に行くと——」

「……ふぅん。あっそ」


 ロクに友達も出来ず、使用人からも腫れ物扱いされ、最愛の父も最近は仕事で家を空ける事が多く、常にひとりぼっちの日々を送っていた。そんな紗希の心の箱は穴が空いていた。寄り添える誰かが居ない寂しさは薄々感じてはいた。しかし有象無象如きにへりくだるのだけは自身のプライドが許せなかった。


「ソーニャ、散歩に行くよ!」


 そんな彼女に心を許せる存在は少なからず居る。父が中学の入学祝いとして買ってくれた雌のボルゾイ、ソーニャである。彼女は紗希の忠実な飼い犬として育ち、紗希以外の言う事は絶対に聞かない為、ソーニャの世話や散歩は全て紗希がやっているのである。


「そういや聞いてよ、ソーニャ。今日学校でね——」



 言葉を返してくれる筈がない。マトモに話を聞いているのかどうかすら分からない。それでも紗希にとってはソーニャが唯一の話し相手であり、ソーニャとの散歩こそが唯一嫌な事を何もかも忘れる事が出来る時間なのである。


 昨日一昨日と大規模な台風が続いた事もあって外に出られなかった分、紗希とソーニャは今までの鬱憤を晴らすべく今日は少し遠出をしようと海辺近くの道を散歩する事にした。


「きったない道……。やっぱ別の道にしない?」


 だがその選択は間違いだったと紗希は後悔していた。嵐によって巻き上がったゴミや草葉が辺り一面に散乱していて思わず顔をしかめた。引き返そうとリードを引っ張るもソーニャは今更戻るつもりは無いらしく、逆に引っ張り返した。


「……ちょっとだけだよ?」


 高飛車な紗希でも唯一の友であり相棒であるソーニャの意思は尊重する。生乾きと腐敗の臭いに鼻を摘みながら堤防沿いを歩いていく。

 人間の何万倍もある嗅覚を持っておきながら臭くないのか、と疑問に思いながら散歩をしていると、突然ソーニャが吠え出し、我を忘れて走り出そうとしていた。慌てて制止しようとするも、少女の腕力だけでは大型犬の全力に対抗出来ず引っ張られる始末であった。


「ソーニャ! やめなさい! ソーニャってば!」


 気高く美しく思慮深い。そんなソーニャがまるで獣に退化したかの様に荒れ狂い、咆哮を上げ続ける。踏ん張り切れずにリードを手放してしまうと、解放されたソーニャは真っ先に堤防を降りて砂浜へと走り出した。急いで紗希も追い掛けていく。


「もう、どうしたの? 普段はお利口なのに——」


 立ち止まったソーニャがに対して吠え続けている。追いついた紗希が目線の先へと顔を上げてみると、見るからに大きいが浜に打ち上げられていた。

 危険があるかもしれないのでソーニャを下がらせ、恐る恐る漂流物に接近し、覆い被さっている布を捲ってみた。その正体が発覚した瞬間、紗希は思わず悲鳴を上げた。


「ひ……人!?」


 それは人間だった。男の人間の死体がこの浜辺に漂着していたのであった。死体なんてものはフィクションの世界にだけ見受けられる存在だと思っていたので紗希は狼狽えるばかりであった。


「と、取り敢えず警察に——」


 急いでスマホを取り出し、一一〇番通報しようとすると、後ろに待機させていたソーニャが前に出て再び吠え始める。視線を戻してみると、何と死体だった筈の男はまだ生きている様で、ほんの微かに呻き声をあげていた。


「生きてる!? え、ええっと、こういう時はどうすれば——」


 天才と謳われている少女も目の前の非現実的な現象にはどうしていいか分からず、てんやわんやする始末。取り敢えず一一九番通報はしたが救急車が到着する前に死んでしまったらどうしようと悩んでいた。


「そ、そうだ! 確か、こういう時って——」


 以前、学校の授業でやっていた事を思い出した紗希はうろ覚えではあったが心肺蘇生を試みる事にした。

 波が届かない所まで引き摺り、仰向けにしてみた。少しばかり肌が蒼白くなっていたが、よく見てみると意外と悪くない顔をしていた。


「……って見惚れてる場合じゃないでしょうが!!」


 思わず両頬を叩いて気合を入れ直した紗希は男の顎を上げて、気道確保する。次に人工呼吸をするのだが——。


「……嘘でしょ? 私のがコイツになるの?」


 人工呼吸は口と口を合わせて息を吹き込まなければならない。恋人すら出来た事が無いのにこんな形で奪われるのは不本意であった。


「……あぁもう!! 一生賭けてでも償ってよね!!」


 破れかぶれになりつつも紗希は意を決して男の口を自身の口で覆い、息を吹き込む。その後、胸骨圧迫を開始する。すると直ぐに口から海水が溢れ出て咳込み始めた。無事、峠を越した様である。


「ちょっと! 生きてるんでしょ!! 早く起きなさいってば!!」


 息を吹き返した事を確認した紗希は男の頬を叩いてみる。ゆっくりと瞼を開け、男は眼球を少女の方へと向けた。


「…………」

「な、何よ? 何か言いなさいよ?」


 男が何かを言おうとした瞬間、サイレンが鳴り響き始める。丁度、救急車が来た様なので後の事は救急隊員に引き継ぐ事にした。担架に乗せられ車に乗せられる前に男はゆっくりと口を開けて紗希に言い放った。


「貴方の事は絶対に忘れない」


 男はそのまま病院に連れていかれた。この男こそが後の風間望となり、後に紗希の使用人として働く事となるのである。

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