第3話 最悪の誕生日
漂流していた男は一命を取り留め、そのまま緊急搬送される事となった。幸いにも外傷も後遺症も無くこれにて一件落着、かに思われた。
「記憶喪失!?」
なんと男は漂流した際のショックで逆向性健忘、要するに記憶喪失となっており、帰る場所は疎か、自分の名前すら分からないというのである。
遭難者である可能性が高いと見て水上警察が調査した結果、台風による
「……アンタ、行く宛ては?」
病室のベッドで呆然としている男に対して紗希は問いかける。男はゆっくりと首を横に振った。野良猫に餌付けした訳ではあるまいし、最後まで面倒を見てやる義理も無い。けれどこのまま放り捨てて路頭に迷わせ、この男が何かしらの犯罪を犯してしまえばその責任の所在は此方に向いてしまうのかもしれない。
「……じゃあ、私の所で働いてみる?」
見た感じ既に成人済みの大人に見えるし、使用人が一人や二人増えた所で何の支障も無い。ずっと浮かない顔をしていた男は忽ち目を輝かせ、瞬時にベッドから跳ね起きると跪礼で返答したのであった。
大仰な反応のあまり少しばかり呆気に取られてしまったが、咳払いをして気を取り直すと勢いよく人差し指を男の眼前に突き付けた。
「言っとくけど、あんまり調子に乗らないでよね! 役に立たないと感じたら問答無用で棄ててやるんだから! 死ぬ気で私に恩を返しなさい!!」
此れは飽く迄も合理的判断による提案であり、情に流されて身元を引き取る訳ではない。命を救った借りを文字通り死ぬ気で返して貰うだけである。
父の『下の存在に
「――仰せのままに。我が主」
※
男は記憶喪失と言う事もあって紗希の父、
遭難当時に着用していたズボンのポケットに折り畳まれていた紙が入っており、殆ど海水によって滲んで読めなくなっていたが『望』という文字だけ判別出来た為に
「全く紗希め、こんな得体の知れん馬の骨を養子にして使用人して欲しいなどと……」
出張から帰ってきて早々に紗希のおねだりによって手続きを終わらせた義之は望に対して難色を示していた。昔はいつも笑顔で何でも叶えてくれていたが、此処最近はずっと苛立っている様子であった。紗希はそんな余裕の無い父の姿に少しばかり戸惑っていた。
「いいか! 私はキサマの様な下賤な輩の存在など認めておらんからな!! 私の養子になったからと言ってキサマが偉くなったワケでない事を
この親にしてこの子ありと言う言葉を体現したのか、義之の傲慢な性格を紗希はそのまま受け継いだようである。怒声に対し望は何も言わず、深々と頭を下げて応えると義之もまたこれ以上言及する事無く眉間に皺を寄せたまま再び支店の視察の為に家を出て行ってしまった。
「……ちょっと其処のアンタ。コイツ何とかしておいて」
「お嬢様、何とかってのはどういう――」
「はぁ? イチイチ聞かなきゃ何も出来ないワケ? アンタの脳ミソ腐ってるんじゃないの?」
虫の居所が悪いのか紗希は悪態を吐き捨てると望の事を全部近くに居た他の使用人に丸投げして自室へと戻り、ベッド目掛けて倒れ込んだ。そして顔を枕に埋めた。
「……パパのバカ」
ここ最近は仕事が忙しいらしい。その事は理解しているつもりだが、度が過ぎていると感じていた。今日だってずっと不機嫌だったし、その前だって連絡一つも寄越さず出張に行っていた。紗希の心の穴が広がっていく一方であった。
※
「メイド長。廊下の掃除終わりました。ついでにトイレ掃除と風呂掃除と庭掃除も終わらせておきました。次は何をすればいいですか?」
「なっ!? あ、アンタ、随分手際良くなったわね!? えーっとえーっと……掃除はもう全部終わったわよ! だから――」
「……分かりました。次は料理の準備に取り掛かりますね」
「ちょっとノゾムちゃん!? アンタ一人で此処の仕事全部終わらせる気!?」
あれから数か月が経ち、望は此処の生活と仕事に順応していた。最初の頃の寡黙で無表情だった姿は消え失せ、柔和な笑みを浮かべて他の使用人達全員と仲良くなる程の変わりようである。
彼は驚異的な学習能力と身体能力で一目置かれる存在となっていた。しかし、それ以上に特筆すべき能力が望には備わっていた。
「お嬢様、お飲み物をお持ち致しました。本日の茶葉はお嬢様がお飲みしたいであろうベルガモットピーチです」
「……ねぇ」
「はい。アプリコットのジャムですね」
「……何で分かるの?」
「――何となく、です」
まるで心を読んでいるかの様に望は相手の気持ちを事前に察する事が出来るのである。それは的外れなんかではなく、見透かされたかのようにドンピシャで当てているのである。
常に先手を取られている事に対して紗希は内心恐怖していた。言うなれば、この男に優位に立たされているという事になる。こんな経験は今まで無かったから猶更であった。
義之との擦れ違い、望への恐怖心。それに伴い紗希の心は摩耗していく一方であった。
中々寝付けない日々が続く。どうしても眠りに就けず、水を飲もうと台所へ向かっていく。その途中で誰かの話し声が聞こえてきたのでそっと耳打ちしてみた。
「ノゾム君、頑張り過ぎじゃない?」
「そうそう。俺達給料分だけ働けばいいだけだし、あんな親の七光りなんてテキトーに顔色窺ってりゃいいだけだしよ~」
親の七光り。何気に放たれた言葉が紗希の胸に刺さった。
どれだけ成績が優秀だろうと、どれだけ運動で実績を残そうとも、社長である父の風間義之の威光に打ち勝てず、所詮自分はその娘というだけに過ぎない。
「まだまだです。まだ頑張れていませんし、お嬢様への恩義はまだ返せていません。それに——」
「それに?」
「お嬢様は優しい方です」
「……ノゾム君。あんなのが優しいってマジで言ってる?」
「いくらなんでも優しいは無いって!」
—―優しい? この私が? 何を言っているんだ? コイツは? だって私は、ずっと一人で、ずっと非情で、常にバカ共に勝ち続けなきゃいけなくて、パパに振り向いて欲しくて、だから私は——。
紗希はいつの間にか廊下を走っていた。そして自室のベッドに潜り、直ぐに布団に包まって眠ろうとした。頭の中に満ちた混沌を掻き消す為に——。
※
九月三日。今日は紗希の十五歳になる誕生日である。義之と盛大なパーティにする予定になる筈だった。だが、肝心の父が居ない。お目出度い日である筈なのに、紗希は随分と立腹であった。
「今日は帰れないってどういうコト!? 私約束したじゃない! 嘘吐き!! パパなんか大っ嫌い!!!」
電話を切ると紗希は怒りに身を任せそのまま勢い良く床に叩きつけてスマホを破壊した。他の使用人が委縮する中、望だけがいつもの様子で配膳していた。
「お嬢様、お食事の用意を——」
「……馬鹿にしてるんでしょ」
「はい?」
「アンタ!! パパに見捨てられた私の事を馬鹿にしてるんでしょ!?」
望のネクタイを引っ張り、紗希は目に涙を溜めながら睨みつけた。これは理不尽な八つ当たりに過ぎない。そんな暴挙にも男は微笑みを崩さず、彼女をしかと見つめていた。
「……お嬢様。一旦落ち着いて下さい。折角の御馳走が台無しになります」
「ッ!」
その余裕綽々な表情が紗希の神経を逆撫でる。我慢出来ずに頬を思い切り叩いた。望は衝撃を受ける瞬間でさえも笑みを崩さず、目を逸らさずに居た。
「もういい!! 知らない!!」
「どちらへ? 夜も遅いですし誰か付き添いを——」
「ついて来るな!!」
溢れ出そうな涙をぐっと堪え、紗希は一人で屋敷を出ていく。今年は最悪の誕生日になった。
嫌い嫌い嫌い嫌い。学校の奴等も使用人も父も皆居なくなってしまえばいい。そう願いながら夜道を歩いていく。そんな彼女の行く手を遮る様に肩を掴む無礼者が居た。
「ついて来るなって言ったでしょ——!!」
振り返ると其処には見知らぬ男の姿があった。男はとても不気味な笑みを浮かべており、紗希の恐怖心を煽った。
「だ、誰——!?」
正体を聞こうとした瞬間、後ろから大きな掌が彼女の口を塞いだ。そして紗希はそのまま車に連れていかれてしまったのであった——。
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