私の執事は完璧で最強の執事なんだから!

都月奏楽

第一部『紗希』

第1話 その執事、完璧につき

 光と影が相対し、始まりを告げようとする夜明け前。一人の男が目を醒まし、ベッドを後にする。部屋の扉を開け、廊下に敷いてあるベッドでまだ夢の中に居る白と黒の体毛を持つ大型犬を起こさない様に音を殺して洗面所へ。素早く身嗜みを整え、クローゼットに吊るしてあった黒の燕尾服を羽織り、ネクタイを締めたら準備は完了。


 陽光が世界を照らし、ようやくの朝が始まる。そう、此処は男と少女、それと一匹の犬のとある暮らしなのである。


「ソーニャ、紗希を起こしに行ってきてくれ」


 鳥のさえずりにより目覚めていたボルゾイのソーニャは廊下を歩く男を発見するや否や大きく吠え、白いフローリングを滑る様に走って肉薄するとそのまま立ち上がり、自慢の巨体でのしかかろうとしていた。


 男は風間かざまのぞむと呼ばれている。望が軽くあしらうと、ソーニャはちょっと拗ねた様子を見せながらも男の指示に従い、奥の部屋に向かうと口吻で器用に扉を開けて入っていった。


 時刻は五時四十五分。望が玄関を出ると、門の前に一台のトラックが停車していた。いつもの様に差し出された受領書にサインをし、食材がぎっちり詰まっている大量の発泡スチロールの箱達を一人で一気に纏めて家へと運んでいく。

 中身は色取り取りの瑞々しい野菜達、それと氷で埋め尽くされていたブランド品の松輪鯖が数十本入ってあった。いくら何でも送り過ぎだろう、と望が大きく溜息を吐いて頭を抱えていた。


 数本だけ朝食に使い、残りは夕食に使おう。今日の献立を決めた男が上着を脱ぎ、シャツの袖を捲り料理に取り掛かる。


 釜で白米を炊き、胡麻油で軽く炒めた小松菜を味噌汁に入れ、手早く綺麗に卸した鯖を塩で焼いていく。焼いている間に冷蔵庫からほうれん草のお浸しと絹ごし豆腐を取り出し、小鉢に入れる。

 ふっくらと炊き上がった釜炊きの白飯、香り立つ小松菜の味噌汁、大根おろしが添えられた鯖の塩焼き、ほうれん草のお浸しが乗った冷奴。これで朝食は完成した。しかし望の業務はまだまだ始まったばかりである。


 水で濡らし塩をまぶした両手に炊き立ての白飯を乗せ、綺麗な三角形へと握っていく。それが終わると淡い桃色の弁当箱に予め作り置きしていた卵焼きとアスパラガスのベーコン巻きとプチトマトを入れる。最後に冷まして海苔を巻いたおにぎりを詰め込んだら完成である。


 時刻は七時十二分。もう起床時刻はとっくに過ぎていると言うのに一向に降りてこない。代わりに降りてきたのは任務を失敗し、しょぼくれた顔をしているソーニャ一匹のみであった。


「全く仕方が無いな」


 軽く頭を撫でてソーニャを慰めると二階へと昇り、開けっ放しになっている部屋へと入る。其処には役目を果たそうと健気に音を鳴らし続ける目覚まし時計と、大きなベッドの上で布団に包まっているさなぎが居た。


「紗希。朝ですよ、起きて下さい」


 喧しい時計を静めさせてからカーテンを開け、仄暗ほのぐらい部屋に陽光を浴びせる。それでも彼女は起きる気配は無かった。強硬手段に出るべく望は勢いよく布団を取り上げた。


「ん~朝要らないってぇ~……」

「夜更かしをするから朝が辛いんですよ。さぁ早く支度をしましょう。学校に遅れますよ」


破られた繭の中には一人の少女が背中を丸めて寝ていた。彼女は風間かざま紗希さき。日本では知らない人を探すのが難しい位には有名な大企業の社長令嬢である。望はそんな紗希の使用人として奉仕しているのである。


「全部望がやって~……」

「承知致しました」


 未だ夢と現の狭間を彷徨っている紗希を軽く抱き上げ、望は階段を降りていく。更衣室に備えられている洗面台で洗顔をし、乱れた長髪を丹精を込めてセットしていく。次にまだ意識が混濁している紗希の口を開けさせ、ピンク色の歯ブラシで隅々まで歯を磨いていく。紗希を置いていき、部屋から制服と下着を持って戻ると、彼女はようやく目を醒ました様であり、戻ってきた望の方を刮目していた。


「紗希。今日の下着は上下ともセレストブルーの色で――」

「な、何でアンタが持って来てんのよ!?」

「紗希が俺に支度するよう御命令したですが」

「言ってないからそんなの!! サイッテー!! 変態!! 馬鹿執事!!」


 どうやら寝惚けていて、自分の言っていた事すら忘れているらしい。酷く取り乱した様子で紗希は望から着替えを引っ手繰り、怒り任せにそのまま更衣室から追い出してしまった。あまりにも理不尽な仕打ちではあるが、男は何一つ文句言う事無く、朗らかな笑みと共に扉越しから謝罪を一つ入れたのであった。


「全く! 望じゃなかったら今頃パパに言いつけてヒドイ目に遭わせてた所だったんだから!」

「光栄です」

「褒めてない!!」


 制服に着替え終えた紗希はまだ臍を曲げていた。しかし、テーブルに配膳されてある望の手料理を口に入れた途端に忽ち機嫌を直した。


「わぁ! 今日のお味噌汁美味しい!」

「小松菜は油で軽く炒める事によって渋味が抑えられ、更にβ-カロテンが活性化します。後、小松菜に含まれているビタミンCは水溶性で——」

「取り敢えず凄い事をしたってのはよーく分かったから黙ってて」


 何処となく鼻につく望の蘊蓄うんちくを軽くいなし、紗希は鯖の塩焼きの身をほぐして一口放り込んでは舌鼓を打っていた。その間に望は氷出しの玉露をグラスに注いでいく。注ぎ終わったと同時に彼女は一気に飲み干した。

 優雅な朝食の時間を過ごしている彼女がふと壁の時計を見やると、途端に顔を蒼褪めさせていた。針は七時四十六分を刻んでいた。


「――ってもうこんな時間じゃない!? 何で早く起こしてくれなかったのよ!?」

「今日はいつもより長めに寝ておきたいものかと思っていました」

「そんなワケないでしょ!? 遅刻したらアンタの所為だからね!」

「大変失礼致しました。……それよりも早く支度をした方が宜しいのでは? 無遅刻無欠席の記録が途切れてしまいますよ」

「あぁもう! 毎度毎度腹立つわねその澄まし顔!!」


そろそろ家を出てバスに乗らなければ学校に遅刻する時間である。紗希は残りを掻っ込む様に食べ尽くす。それと同時に望が注いでいたお茶を一気に飲み干し、鞄を持って出発したのであった。


「……無事を祈っています、紗希」


 バス停へと走る紗希を見えなくなるまで見送った望。学校くらい一人で行くと言っても聞かなかったので彼女の意志を尊重したが、それでも心配だった。何せ彼女の身柄を狙う様な輩は未だに存在しているのだろうから。


 気掛かりではあったが本来の役目を疎かにするわけにはいかない。望は家へと戻り残りの家事に取り掛かる、筈だった。


「む……?」


 何と紗希は急いでいる余り、テーブルに置いておいた弁当を忘れてしまっていた。このままでは午後の授業中にひもじい思いをするだろう。一刻も早く届けに行かなくては。


「ソーニャ! 食後の散歩だ!」


 弁当袋を抱え、望はソーニャと共に紗希を乗せたバスを追い掛ける。ロシア語で俊敏を意味し、かつては狼を狩っていた猟犬ことボルゾイの俊足に引けを取らないスピードで望は駆ける。

 たかが人間如きに負けてたまるか、と言わんばかりにソーニャもピッチを上げて振り切ろうとする。それでも望が並走している。それも余裕綽々で。


「どうしたソーニャ! それで全力か!?」


 事もあろうか望は嘲笑と共に煽り立てる。虚仮にされたソーニャは対抗心を燃やしたのか短く吠えて更に加速する。走行している自動車すら牛蒡抜ごぼうぬきする程に一人と一匹は荒ぶる旋風と化していた。そして望とソーニャは最後には——。


「紗希、お弁当を忘れていますよ」

「……何で私よりも先に学校に着いてるのよ?」


 散歩に夢中になる余り、通学バスを追い越して学校に到着してしまっていた。長い舌を垂らして息を切らしてバテているソーニャを背負ったまま、望はバスから降りてきた紗希にいつもの笑顔と共に弁当を渡したのであった。

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