第8話 これにはエドゲインもびっくり
目をまっすぐ前に向けて歩き続ける。足の裏から伝わってくる感触からは逃れようもないが、見なければ多少はマシになる気がする。人間の感覚の七割は視覚からのものだというし、効果がないこともないだろう。
それにしても、と思う。
凛子の歩みは全く澱みなく、足元一面に広がる顔を躊躇なく歪ませながら足取りも軽やかに進んでいく。
というか、足元のそれを踏む精神的抵抗を抜きにしたって流石に歩くのが速すぎやしないか。あ、そうか。あいつは俺に比べて軽装なんだ。自分は温度の問題は解決したものの、頭に被った笠のせいで圧迫感があるし、蓑は全身に纏っている上ゴワゴワしていてかなり動きにくいのだ。当然、ついていくためにはかなり頑張って歩かなければならない。
と、ここで一つの疑問が生まれる。凛子が、別に地獄の気候で苦労しないことはわかった。
となると…
「な、なぁちょっと聞きたいんだけど。」
「なんですか。」
「俺が着てるこの冷房虚無僧一式セットなんだけどさ。」
「変なあだ名つけないでください。舌引っこ抜きますよ。それが何か。」
「いや、見たところ凛子は別に暑さに苦労してる様子もないし、なんでこんなもの買ったのかなって思って。」
「あぁそういうことですか。結論から言うと、ここよりもっと暑い地獄があるんです。大焦熱地獄って言うんですけど。そこの中だと流石にこれを着ないわけには行かないんですよ。」
「え、ここより熱い地獄があるのかよ。そうですね。行ったことのある私から言わせて貰えば、ここの温度なんて木漏れ日を撫でるそよ風みたいなものですよ。」
「はぁ、そよ風。」
「そよ風です。」
「…ここからいくところも、お前にとってはそよ風みたいに、たわいもない物なのか?」
「いいえ。そんなことありませんよ。」
凛子は唐突に立ち止まり、そして振り返った。
初めて見る表情だった。
それはそれは、罪人たちが見たらそれだけで血尿を漏らしそうなくらい素敵なはじける笑顔。
「とっても素敵な場所ですよ。」
素敵な場所。まぁ、嘘とは言い切れない。ぱっと見は、外国の古い映画でしか見たことのないような市場によく似ている。どことなく埃っぽく、エキゾチックな匂いが漂い、行き交う人々は活気にあふれ、そこかしこから怒鳴り声とも歓声ともつかない絶叫が響き、大通りの両端にはいくつもの屋台が連なり、見慣れない食い物を売っている。
だけれど、これはあくまでもぱっと見の話。
行き交う人々もよく見れば、二種類は大別される。一つは、凛子とよく似た格好の、恐らくは獄卒と呼ばれる存在。もう一つは、目が覚めた時点の俺と同じようなボロ布で身を包んだ男たち。少し違うのは、俺のが薄汚れた灰色だとするなら、ここの連中はみんな桃色系統の色であると言うことくらいか。誰も彼も生気のない目でぼんやりと獄卒に付き従っている。
視界を左右に向ければ、今度は屋台が目に入る。ある屋台では粗末な木組みからぶら下がった干し肉、元の姿が類推しやすい程度にしか加工されていない肉がテーブルの上に雑多に置かれている。
またその一つ向こうでは、雑貨屋だろうか、鞄から椅子、果ては手袋までもが売っている。
非常に、楽しげな場所だとは思う。
たった一つ、肉も雑貨も原材料が人間であると言うことを除けば。
目の前を通る女獄卒がひたと立ち止まり、件の肉屋の前に立ち止まった。少し思案した後、店の奥に立てかけてあった長大な鉄の棒を指差す。
主人らしき人物はこくりと頷き、何やら側に置いてあった機械をいじり始めた。その間に獄卒の方はといえば、後ろに従っていた深ピンクの男に合図し、屋台の方を指差す。どうやら中に入れた指示しているらしい…が、男の方は一向に動かない。ただ小さく震えて俯いている。
それを見た女はそっと顔を男に近づけた。何をするのかと思えば次の瞬間指を男の眼孔に突っ込み、そのまま勢いよく引き抜いた。目玉は宙を飛び人混みの中であちらこちらへ蹴散らされついには踏み潰された。たまらず転がる男の血が溢れる眼孔に指を突っ込み強引に立たせ、ついには屋台の中に引き入れる。その頃には屋台の主人の準備は整っており、人の首程度ならあっけなく切り落とせそうなそれを構え
「…あの、あの!」
意識が引き戻された。涼しいはずなのに、ベタつく嫌な汗をかいているのがわかる。
「私ちょっとここで確認しなきゃいけないものがあるんです。だけどあなたがいるとちょっと話が拗れそうなのでそこでじっとしていてもらえますか。その格好なら面倒ごとに巻き込まれることは多分ないでしょうから。」
はいともいいえとも言う前に、凛子はさっさと人の間を縫って言ってしまった。
こんな場所に一人残されて何かあったらひとたまりもないだろう。
凛子の忠告に従って道の端へ寄ろうとしたその時。
「うわっ!」
「ぎゃっ!」
視界の悪さのせいか、斜め前方から来る人影に気が付かずにぶつかってしまった。
見れば薄桃色のボロに身を包んだ男が荷物を散らしてひっくり返っている。存外、見た目に似合わぬ整った容姿をしていた。反射的に男がこちらを睨む…が、こちらの姿を認識した瞬間崩れ落ちるようにして頭を地面に擦り付けた。
「申し訳ありません!お許しください!」
なんのことか分からず一瞬頭が真っ白になる…そうか。考えてもみれば、ここの罪人は色は違えど皆同じようなボロ切れに身を包んでいる。逆にいえば、今の俺のようにそれとは違う格好をしている者は皆獄卒に見えるというわけか。…せっかくの機会だ。活用させてもらおう。
「まて、少し聞きたいことがあるんだ。」
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