第34話
14
とても長い夢だった。山村は夢の中で、生と死を分ける大きな川のほとりで考え込んでいた。ある時死んだ祖母の声が聞こえた。
“起きなさい、時間は、刻々と流れていく”
“婆ちゃんが川向こうで叫んでいる”
山村は目を覚ました。外は太陽が沈んで暗く空は暗い。多分夜のだろう。山村はどこかの室内にいる。机があり、2段ベッドがある。ごく普通の学生用ワンルームのようだ。ドアを開けて廊下に出た。廊下の突き当たりにドアがある。出口にも見える。山村はゆっくりとドアを押した。
「シャワーか・・・」
ドアの向こうは、脱衣所で、その奥はタイル貼りのシャワールームだ。固定式のシャワーヘッドが4つ備え付けてある。
山村は、自分の体から異臭がしている事に気がついた。ずっと風呂に入っていない。幸い今なら誰もいない。山村は脱衣所で音を立てないように服を脱いで、裸のままつま先歩きでシャワー室に入った。
赤い目印の方向に蛇口をひねると、水蒸気と一緒に、熱めのお湯が出た。
「温水シャワー嬉しい・・」
山村は頭からシャワーを浴びて、ゴシゴシ髪の毛を洗った。久しぶりのシャワーは、山村の心も体もリラックスさせた。
その時、ガタンと音がしてドアが開く音がした。見ると小柄な少女が服を脱いでいる。褐色の肌をした少女は、髪を後ろで馬の尻尾に結んでいる。山村はシャワーを浴びたまま少女を見ないように努力した。しかしつい見てしまう。
少女は軽快な身のこなしで素早く服を脱ぎ、山村の存在を無視してそのままシャワー室に入ってきた。シャワーの蛇口を捻ると勢いよくお湯が噴き出した。彼女の細く長い手足と、豊かな胸にお湯が当たって水蒸気を上げている。
お湯を頭から浴びながら、彼女は髪留めを外した。濡れた黒い髪がぱさりと落ちた。まるで少女の世界から、山村の姿は除外されているように見えた。少女は綺麗な指で自分の体を優しくマッサージし始める。
山村は、とうとう声を出した。
「ごめんなさい、僕は外に行来ます」
その声で、少女は初めて山村の存在に気がついた。
「そう?ご遠慮なく」
少女は日本語で答えた。肩の健康骨から、腰に至る曲線に沿って水滴が流れていく。まるで空想の世界から抜け出したような、完璧なボディラインの少女。山村は、彼女の体から目を背ける事が出来なかった。
「やっと、目が覚めたのですね」
少女は、少し微笑んだ。
「目が覚めた?」
少女は、シャワーとめて頭からタオルを被った。そして濡れた髪を拭きながら言った。
「新しいタオルを用意しています、此処には誰もいません。着替えたらお部屋にお戻りください」
山村の心臓は、ずっと激しく鼓動を打っている。
「ここはどこですか?」
少女は、濡れた髪を後ろで馬の尻尾に括ってから、ゆったりとしたブルーの服を頭から被った。
「お部屋で話しましょう」
口元を綻ばせて言った。
少女が行ったあと、山村はシャワーを出た。脱衣所には乾いたタオルと長い布が置いてある。民族衣装の様だ。山村は悩みながら布を体に巻いた。
さっきの部屋に戻ると、少女がベッドに腰をかけている。
「トーブ、似合いますね」
少女は微笑んだ。
「ありがとう」
「あなた3日も意識がなかったです、心配しました」
「あなたは誰ですか?」
「私はハルツーム大学の学生です。ヒナタという名前です」
ヒナタは綺麗な日本語で答えた。
「ここはどこですか?僕はなぜここに連れてこられたんですか」
「此処はスーダンです。今あなたは、ハルツーム大学の学生の寮にいます」
「どうしてスーダンにいるんだ?エチオピアの博物館にいたはずなのに・・」
「なぜあなたがスーダンにいるのか?それはわかりません。私と夫は、砂漠の神殿で倒れていたあなたを発見しました。
そのまま砂漠で放置したら命はなかったでしょう。だから私の部屋まで運んだのです」
「荷物は?僕のパスポートは?」
「あなたは、荷物を持っていませんでした」
「荷物の中に、お金とパスポートが入っていたんです」
「あなたの名前を教えてください」
「僕は山村順平です、日本人です。領事館に行きたいので場所を教えて下さい」
山村は早口で捲し立てた。
「今は真夜中です。もっと小さな声で穏やかに話してください」
「すみません、つい興奮して」
「つい先月、日本人は皆国外に退避しました。領事館には誰もいません。市内は混乱している。私たちも此処から出ることができない」
「じゃあ、僕はどうしたら良いだろう」
「スーダンが報道される時、ほとんどが内戦や飢餓、難民の事になります。あたなはスーダンがどんな国か知っていますか?」
ヒナタはスーダンの事について語り始めた。
「順平、ここからはタメぐちでいいかしら、私敬語苦手なの」
「ああいいよ、もちろん」
「スーダンには、豊かな天然資源があるわ。石油、貴金属など。スーダンは、とても広くて良い大地に恵まれた国なの。広いアフリカ大陸の中で3番目だよ。 土地は標高200から500メートル。そこに広い平原が広がっている。想像できる?」
「いや、スケールデカすぎてわからない」
「いいわ、想像できなければ。国のほぼ真ん中を世界で一番長いナイル川が流れている。 知ってる?ナイル川」
「ナイル川はアガサクリスティーの小説で知ってる」
「そう、やっと共通の話題ができた。北には 東西700キロ南北に300キロの人の住まないヌビアという広大な砂漠がある。ナイル川の東から紅海まで範囲よ。めちゃくちゃ広い砂漠よ。紅海沿岸には2000メートルの超えるエトバイ山脈がある」
「2000メートルというと、エチオピアのアディスアベバよりは低い」
「高けりゃ良いって訳でも無いでしょ。とにかく北西端のワディ・ハルファから、中央南部のアブー・ハメドまで鉄道が通っている。鉄道だよ!すごくない?」
ヒナタは鉄道オタクのようだ。
「それは確かに。スーダンにも鉄道があるの?」
「スーダンは元々イギリス領だからね、イギリスが敷いた鉄道を、今はスーダン国営鉄道が引き継いでる。でもメンテができなくて3分の1が使われてないわ」
「でも、鉄道が通ってるなんて知らなかった」
「このハルツームからエジプト国境のワジハルファまでは生きてる。あと、紅海に面したポートスーダンという港までの路線が整備されてる。石油を運ぶ為の鉄道よ」
「そうなんだ」
「中部は砂丘地帯で、南部は湿地帯。ざっくり言えば北部は砂漠でめちゃ乾燥地帯で、南部はじめっとした熱帯地帯てこと」
「やっぱり此処は暑いな」
「暑いよ確かに。1年を通じて熱くてでじめっとしてる。年間平均気温は26、7度だけど、国がデカイから平均なんて当てにならない。でも北部の砂漠と紅海沿岸は確実に暑い。一年通じて摂氏38度以上だもん」
「冷房とかないの?」
「私たちの生活に冷房機が入る余地はないわ。その前に食べ物だもの。よしんば冷房があっても電気がないから意味ないよ」
「そうか、スーダンて国名はなんか意味があるの?」
「国名の“スーダン”はアラビア語で“黒い人”と言う意味。1956年にやっとイギリスとエジプトから独立したんだ。国土は広いよ。日本より7倍も広い。でも日本と違い、周りは海じゃないから、9つの国と陸で国境を接してる」
「大変だ」
「国が稼ぐお金の4割以上が農業なんだ。 スーダンには農業には結構いい土地なんだよ。特にスーダンの東側はアフリカのパン籠と呼ばれる程だったんだ。 小麦やトウモロコシが収穫できるんだよ。ただし平和ならだけど」
「そうなんだ、意外だ」
「でも、いつも注目されるのはネガティヴなことばかり。スーダン人は大金もちか貧しい人かに分かれる。でも皆んな旅行者に親切だし、飢えてる人には食べ物を分けてくれる。真面目でシャイで、あなたたち日本人に似てると思うわ」
「でも、優しくても力がないと無視される。スーダンはただの貧しい国と一括りで終わり。此処に生活があって、人が生きてる事なんて誰も興味無い。でもそれは誰のせいでもない。ただ私たちに勇気がないだけ」
「そんなことないと思うけど」
「皆ないい人ばっかなのに、紛争が絶えない。なんでだろ。紛争のあるスーダン西部のダルフール地方では、きれいな水得るのが特に難しい。水が決定的に少ない。北部のエジプト国境付近では年間平均降雨量は50ミリしか降らない。なのに南下してウガンダ国境付近では1600ミリも降る」
「厳しい気象だな、いや国が大きすぎるのか?」
「スーダンには、ナイル川は世界最長の川が流れてるけど、支流が少ないという特徴があるんだ。そして雨季と乾季の水位変動が大きい。だから浄水場の水処理能力の限界を超えちゃって機能しないんだ」
「井戸とかは掘れないの?」
「スーダン南部から北部にかけて、ヌビア砂岩層があって。その岩盤の下には豊富な地下水があるらしいの。でも国内が不安定だから井戸を掘る工事ができないらしい」
「そうなんだ・・」
「そうなの。可能性や豊かな大地があるのにいつも何かが邪魔をする・・」
そう言いながらヒナタは立ち上がった。
「着替えるからあっち向いてて!」
「はい・・・」
山村は、ちょうど達磨太子のように胡座を組んで壁に向かった。すぐ後ろで女性が着替えている。山村は振り返りたい、という欲望を理性で抑えるのに必死だった。そんな事を知ってか知らずか着替えながらヒナタは話しを続けている。山村は欲望を抑えきれずとうとう振り替えってしまった。山村の目に、ヒナタのぴんと上を向いた丸くて豊かな胸と、綺麗にくびれた腰とその下にあるお尻の割れ目が見えた。山村は慌てて顔を戻した。
「スーダン人はシャイで優しくていい人ばっかりだけど、此処はアフリカとアラブをつなぐ重要な場所で、昔から“アフリカの角”と言われて紛争が絶え無いの。どんなに良い人でも、いえ、良い人だからこそ、親しい人、大切な人を失った怒りや憎しみは強いのよ、恵まれた日本人の貴方にわかるかしら」
山村はヒナタの言う事が理解できるとはとても言えなかった。自分は水も食糧も仕事もある、恵まれた日本で生まれて生活してきた。ここに比べたら天国だろう。しかし大切な物を失う気持ちや、信じていた人から裏切られる気持ちは同じだと思う。たとえどこに生まれても、小さな自分の分身が助けを求めていて、何も出来ないのは、世界の終わりと同じくらい辛い事に違いない。
「それは・・・」
「2022年にクーデターがありました。私は子供と離れ離れになり・・」
ヒナタは続けた。
続く
続く
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