第32話

13

ある日事件は起こった。ヒナタは祖母の形見である、グッチのギンガムテーラーズジャケットを椅子の背もたれに掛けて、聖梨花とトイレに行った。トイレから戻るとコートがズタズタに切り裂かれて床に落ちていた。何かの間違いに違いない。ヒナタはジャケットを手に取った。


ハサミかカッターかで細かく切断されていて、修復は不可能に見えた。今はもうこの世にいない祖母が、このコートを着て神戸の街を颯爽と歩いていた姿が思い出された。

いつも笑顔で、ヒナタがどんなに理不尽なことをやらかしても味方してくれた祖母。コートはヒナタの心の支え棒だった、祖母の温かい思いそのものだった。


ヒナタは教室の中の生徒を見渡した、みんなコートのことなんて知らないフリだ。雑談したりノートを開いた入りしたり、まるでヒナタの存在が見えていないみたいだ。ヒナタはそれが悲しかった。居るのに居ない事にされるの事が、この世で一番辛いことだ。この中の誰かがヒナタのコートを切り刻んだのだ。


しかし悲しい事に、ヒナタにとって差し迫った問題は、犯人探しより事件に対して自分がどんなリアクションを取るのが正解か、という事だった。ヒナタの頭の中で思考がぐるぐる回り出す。

泣くのか、怒るのか、無視するのか・・最後の意地として、犯人が望むリアクションだけはとりたくない。“人として”


それにしても“人として”ってなんだよ?“大人として”“ちゃんとしなさい”“こんなのもできないの?”散々言われてきた。でも“大人”ってなんだ?“こんなの”って何だ?“ちゃんと”ってなんだ?“空気読めって”、空気の何を読むんだ?世の中曖昧すぎてヒナタには理解不能なことばかりだ。


ヒナタにとって世の中に存在するとされる、目に見えない謎ルールが、わかんなすぎて、毎日息が苦しかった。しかし、“ワカンナイ”なにかを、“ちゃんと”やり遂げるために、ただひたすら全力で頑張る。そして結局消耗する。


気がついたらヒナタは目から涙から涙を流していた。だめだよ。取り乱していること悟られたらまた馬鹿にされる。でも涙はどうしても止まらない。


人を信じたくても、信じられない。裏切られた時の痛みを考えると、誰とも深く付き合えない。しかし、いつもうっかりと信じようとしてしまう。でも、うまくいかず、また挫折する。その度、心が切り裂かれるように痛む。


いい加減理解しろよ、お前は誰にも認められない最低の人間なんだよ。誰にもわかってもらおうとなんてするな。そう自分に言い聞かせて諦めようとするけど、やっぱり、人を信じられないのはとても悲しい。


私の悲しい感情を、受けとってくれる人がいないことだ。私が投げた本当の言葉を、受けとってくれる人がいないのは、私の感情がゆがんだ、良くないものだからだ。


本当の自分を知られたらどしよう?どこにも居場所がなくなってしまう。ヒナタは心を隠して、上部だけの言葉でやり過ごす事に努めた。でも他のクラスメイトも同じだと、気がついたのは大分後のことだ。ヒナタはしゃがんで、子供のように大声を上げて泣いていた。コートを切り裂いた誰かさんが望んでいたリアクションはこれだ。正解。


「誰?ヒナタのコートこんなにしたの!!」

普段は理性的で、穏やに小声で話す聖梨花が、教室に響渡る大声で叫んでいた。

続く




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