第21話
山村順平様、いかがお過ごしでしょうか?柳村玲架です。と言っても覚えておられないかもしれませんね。私たちの会社、「アール」は、この度海外に進出する運びになりました。そこで海外特派員を募集しております。これは我が社の決定です。しかし私個人としては、父の代から「アール」を支えてくださった山村様に、我が社の大きな挑戦の時に、もう一度お力を貸していただきたいと思っています。もし、わたくしの提案にご興味がありましたら、明日の朝10:00に以下の喫茶店までお越しいただけませんでしょうか?不躾なご連絡申し訳ありません。 柳村玲架。
9
待ち合わせの場所は帝王ホテルの喫茶スペースだった。山村は仕事を辞めて以来、ずっと着ることのなかったスーツに袖を通した。服を作る事以外取り立てて特殊な技能のなかった山村は、生きる為にどうにか食品配達の仕事を見つけて自転車で食品を顧客に配達する業務についていた。スーツよりもトレーニングウエアの方がずっと機能的に動くことができる。汗をかいても丸洗いできるから便利だ。
久しぶりにスーツを着た山村は、帝王ホテルに行く前に、その近くにあるアイスクリーム店を探した。かつて一緒に旅をした元妻とよく通ったアイスクリーム店だった。しかし来なくなってからもう20年も時が経っている。見つけた所で愉快な思い出は何もない。果たしてその店はまだ存在していた。
木製のドアを押すと、「からん」とベルが鳴った。中は小さなテーブル席が3つと、あとはカウンター席。テーブルはいずれも小さくて、どうしても顔を突き合わせて小声でヒソヒソは話す形になる。でも今日の山村は一人だからそんな心配は必要ない。カウンターでアイスクリームとコーヒーを注文して、昔いつも座っていた席に腰をかけた。「変わってしまったな」改装が終わり近代的になった帝王ホテルを見て山村は呟いた。あるいは山村は自分自身の事を言っているのかもしれなかった。
「からん」とドアベルの音がしたので山村ははっとした。いつもほぼこんなタイムングで元妻は現れたものだ。しかし元妻が現れるはずはない。それでも顔を上げてドアの方を見てみると、入って来たのは柳村玲架だった。山村も驚いたが、柳村玲架も山村の姿を見て驚いた様だった。
「柳村さん」
山村が声をかけると、玲架は黙って山村の方に歩いてきた。
「山村さんもこのお店ご存知なのですね」
その日の柳村は、白いワンピースにポーチを襷掛けにしてまるで少女のような出立だった。しかし考えてみれば、普段は濃いブルーの鎧のようなスーツに身を包んでいるが、山村に比べたらずっと若いはずだ。
「山村さんがアイスなんて以外ですね」
玲架はそう言った。
「待ち合わせの前に、昔なじみの店に寄ったのですが、まさかここで会うなんて」
「このお店は父がよく連れてきてくれたんです」
そう言われて山村は苦笑した。山村の思い出と、玲架の記憶は全く種類が違う。それくらい山村と玲架は年齢が離れている。玲架の父である先代社長と山村はほとんど同世代だったのだから。
「山村さん、今日のお話はここでもいいですか?」山村の前に腰掛けた玲架は言った。「いいですよ、もちろん。僕もここの方が落ち着きます」玲架は、社長室で見せた事のない屈託のない笑顔を見せた。「ところで社長、今日はどんなお話ですか?」厄介な話は早く切り出して早く終わらせる方がいい。「とても個人的な事ですが、良いですか?」
玲架は少し困った様な表情をした。「個人的な話、もちろん聞きますよ」ようやく玲架は安心したように話を始めた。「私、結婚するんです」山村はあまりに唐突な話で驚いたが、すぐに表情を整えた。本当は自分でも予想がつかないほどショッキングだった。しかし動揺していない演技をした。山村はそんな自分に苦笑しながら。感情を心の奥底に追いやって代わりに感情のない笑顔を浮かべた。
「おめでとうございます」
自分の本心と違う言葉を出す事が嫌で仕事をやめたのに、また自分は同じ事をしている。山村はそう思った。
「それで山村さんには私と駆け落ちしてほしいのです」
「え?駆け落ちですか?」
「もちろん、駆け落ちしたふりをするだけで良いのです、本当に駆け落ちしないでいいです」
「さっきおっしゃったご結婚とは?」
玲架は少し歯に噛んだような表情で、髪を右手でいじった。
「お見合いの話があるのです。とある大会社のご子息です。とても素敵な方ですが、私はその方とは結婚したくないのです」
「だから、僕と駆け落ちした事にして、その後縁談を断りたいと言う事ですね」
「はい」
玲架はとても真剣な様子だ。
「でも、どうして僕なんですか?」
玲架は顎に手を添えてしばらく考えた。
「どうしてだろ?山村さんしか思い浮かばなかったの。そんな事頼めるの。だめですか?」
「いいえ、いいですよ。付き合いますよ。駆け落ちゴッコ」
玲架の表情がパッと明るくなった。
「ありがとうございます。それでは私アフリカまで逃げてください。これはそのチケットです」
玲架はグッチのハンドバッグから航空券を取り出した。
「つきましては、航空券、ホテル代など一切の費用は私が持ちます。山村さんはパスポートの更新とビザの取得をお願いします」
玲架は真剣な表情で言った。
「わかりました」
「これは駆け落ちですけど、ビジネスの大切な視察である事は事実です。どうぞ其処をしっかり認識してください」
「つまり駆け落ちという形ですけど、あくまで私とあなたは上司と部下という関係であると、そういう認識でよろしですか」
「そういう事です。さすが山村さん、理解が早いですね」
「ありがとうございます。つまり私はあなたのガードマンという事ですね」
「どの様に考えて頂いてもいいです。考え方は山村さん次第ですから。ただし私と肉体的関係はいかなる形でもNGです。その場合は契約不履行として全ての経費と報酬の没収、ペナルティー金を払っていただきます」
「承知しました」
「では、この2枚の契約書、つまり私が持つ物と山村さんの控の書類にサインをお願いします」
山村は、びっしりと書かれた契約書の中身を確認もしないままネーム欄にサインをした。あえて中身は見ないで自分用の同じ書類にもサインした。どうせ日本にいても、山村の未来には何も明るい兆しは見えなかった。今の場所から出られるなら何処でも良かった。
「サインしました、どうぞ」
「ありがとう」
玲架は、書類を掲げて満足そうに頷いた。
「山村さん、今から私はあなた事をファーストネームで呼びます。だからあなたも私をファーストネームで呼んでください」
「それも契約のうちですか?」
「もちろんです。順平」
こうして山村は、玲架とアフリカまでの“駆け落ち”に同行する事になった。
山村は、緑色のスーツを着て関西空港に向かった。荷物は小型のスーツケースと、機内に持ち込む手持ち鞄を一つ。飛行機は今日の夕方17時50分発のキャセイパシフィック航空だ。行き先はエチオピアのアディスアベバ空港。まず関空から香港に立ち寄り、其処からタイのバンコクを目指す。バンコクを経由した後は、エチオピアのアディスアベバ空港まで直行する。
キャセイパシフック航空は、香港に拠点がある航空会社である。香港国際空港の近くにキャセイシティと呼ばれる、本社や訓練施設、機材の整備を行うエリアを持っている。イギリス系の香港財閥であるスワイヤーグループが株式の40%を持っていて、スワイヤーグループ企業の一つだ。イギリスのスカイトラックス社が行う航空機会社の格付けでは、「ザワールドファイブスターエアライン」という最高評価の認定を受けている。
続く
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