第12話
今まで無愛想で世の中を斜めに見ていた山村だったけれど、社会と会社と、自分の境遇に心から感謝が湧いてきた。食べることは、仕事を得て働くことだ。
今まで文句を言いながら勤務していた会社のおかげで家庭を持つ事ができた。人並みの幸せも味わう事ができた、その事に初めて気がついたのだ。
たとえ家庭が終わってしまっても感謝の気持ちは変わらない。
しかし、社会や会社への恩を感じれば感じるほど、自分の無力を痛感した。ここにいれば迷惑をかけるばかりだろう。自分が退職することで人件費が浮き、若い人材を雇うことができるはずだ。
1ヶ月間の入院を経て病気は幾分落ち着いたので、退院することになったが、治療費の金額の大きさに目玉が飛び出るほど驚いた。しかし会社がかけてくれていた社会保険のおかげで随分減額されていて、なんとか払うことができた。
玄関を出ても予想通り誰も迎えはいない。一人で退院するのは、これほど寂しいものなのか。急に生簀から、海に放たれた金魚の様に、山村の胸に不安が襲ってくる。
再び会社に行く事になったけれど、やはり業績は上がらず、山村の服を求めて店舗にくるお得意のお客さんは、ついに0人を記録した。山村は自分で考えて自分で会社を退職する決心をした。そのタイミングで山村は辞表を持って社長に会いに行った。
ふと亡くなっの父の言葉が頭をよぎる。
「弱っている時に優しい言葉を囁く人間には、十分に気をつけろよ」
山村は、首を振って父の言葉をかき消し、社長がいる別ビルに入った。
「山村さん、本当に辞められるのですか?」
社長の柳村玲架は、創業社一族である先代社長の一人娘で、長年バイヤーとして世界中を飛びまわっていたが、数年前から日本に戻り社長職についたそうだ。
玲架は、ほっそりとした小柄な色白の美しい女性だ。年齢はまだ30歳前で、社長職についた時は当初は、社内ではやっかみの声が聞こえる事もあったが、大口の新規顧客を獲得する事により、そんな声も自然に聞こえなくなっていった。
3カ国語を操り、年配から歳下までどんな相手にも怯む事なく受け答えする姿は、山村にはとても頼もしく感じられた。
山村には、離婚した妻について別れた娘がいた。ちょうど玲架と同じくらいの年齢になる筈だった。時々玲架を見ていると、山村は、娘を見ている様な気持ちになる事もある。
「はい、先代の社長には大変お世話になりましたが、独り身ですし、一度立ち止まり、自分を見つめ直してみたいと思いまして」
「そうですか。それは残念です。父は今でも山村さんに仕立てて貰った服を愛用していますよ」
山村は不器用に微笑んだ。
「何よりのお言葉です、感謝いたします」
「我が社にも、元は山村さんの様な本当に質のよい服を作る職人さんが何にもいました。ところが時代の波に押され、我が社も大量販売に適した洋服を作る様になり、昔ながらの職人さんは山村さん以外我が社を去っていかれました。やがてサステナブルファッションが叫ばれる世の中になり、今我が社は時代の変革にいます。
本当は若いデザイナーのお手本として山村さんには居て欲しかったです」
玲架は本当に残念そうに言った。
「あれだけ恩を受けたのに、お応えできず申し訳ありません」
山村は深々と頭を下げた。
「しかし、正直困っています。サステナブルファッションと言っても何をどうしたら良いんかさっぱりわからないのです」
サステナブルファッションとは、現代の社会システムが引き起こした、洋服の大量生産・大量消費・大量廃棄というシステムを180度変えようという運動である。サステナブルファッションというワードは時代の空気にマッチして広がりつつあった。誰も進んで物を無駄遣いしたいという人はいない。
衣服を一着製造するのに排出される二酸化炭素約2・25キログラムで。水の消費量は2300リットルと推計されている。また、衣服の製造工程で排出される端材は年間約45000tと推計されており、これは約1.8億着分の生地となる。また、ゴミとして出された衣服のほとんどはリユースやリサイクルといった再資源化には回らず、年間約48万トン・1日当たり1300トンもの衣服が焼却又は埋立処分されている。
玲架は、今は家業を継いでアパレルの仕事をしているが、もともとは大学の工学部に在籍していたらしい。自動車の機械工学にも詳しいらしい、しかしいつも冷静で自信に満ちた笑顔を崩さない玲架を、冷血だと陰口を叩く人間もいたくらいだ。
「社長にとっては釈迦に説法かもしれませんが、あるメーカーは、自社で販売した製品を回収して、素材ごとに分けて新たな新品に作り上げると言うプランを立てているそうです」
「ほう」
続く
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