第10話

自宅までの帰り道、天使のように美しい富田の肉体が頭をよぎった。麻薬の様な彼の感触を皮膚が覚えていて、玲架の体は熱くほてったままだった。


家が近くなるにつれ別の心配が沸き起こってきた。背中に張り付いた蜘蛛のシミを夫にどう言い訳したらいいのだろう。

玲架は、家に帰るのを諦めて近くのカフェに入った。


カフェには、まるで待ち合わせをしていたかの様に、奥のテーブルに富田が座っている。玲架が富田の席の隣に座ると、富田は玲架の肩をつかみ、ぎゅっと自分の方に引き寄せて、ピッタリ体を密着させた。


「変なシミができでしまって・・」

玲架はつぶやいた。

「その蜘蛛は僕の毒が回った証拠だよ」

「どうしたら消えるの?」

玲架は静かに涙を流した。

「泣いても無駄だよ、そのシミは消えないよ、君の罪の証なんだから」

富田は嬉しそうに微笑んだ。

「夫にどう説明したらいいのか」

「旦那さんには僕の弁護士が話をつけてきたよ。すぐ離婚するってさ。旦那さんの浮気写真を見せたらすぐ納得したよ。これからは僕たちの仲間だ。玲架頼りにしてるよ」

「僕たち?」

「いいかい、今から君は僕のいう通りの人生を過ごすんだ。僕のいう通りにしたら、また可愛がってあげるよ。これからはウンザリするくらい楽しいことばっかりが待ってるんだぜ」

こうして玲架は、富田が用意した生い立ちを記憶し、一生懸命3カ国語を学び、新しい人格をインストールした。

どこか知らないビルの最上階に、アパレルメーカー「アール」本社が新しく作られていた。


今までの柳村玲架の人生は消えて、アパレルメーカー「アール」の女社長、誰かが用意した、「柳村玲架」とく架空の人生が始まったのだ。


5月のゴールデンウイークの前日、夜の9時を回った頃に、アパレルメーカー「アール」のオフィスで書類の整理をしていた山村は、突如として強烈な下腹部の痛みに襲われた。ここ数日間下腹部に違和感があったのだが、その時の痛みは立つことも座ることも儘ならない強烈なものだった。助けを呼ぼうにも、他の社員は外回りなどで会社にはいない。激痛を我慢しながら、山村は会社をでた。とにかく帰宅しようと考えたのだ。


会社を出て5分も歩くと、目の前が霞んで足が前に出なくなった。それでも地べたに座って休憩をとりながら、なんとか駅まで辿り着き電車に乗った。体から滝のように汗が吹き出して、シャツもズボンもびっしょりと濡れている。5月だというのに、悪寒で身体がガタガタと震えた。いつもより3倍の時間をかけて最寄り駅で下車し、這うように自宅まで帰った。


自宅のドアを開けた途端、山村は玄関に膝をついて倒れ込んでしまった。もう一歩も歩けない。部屋全体がぐるぐると揺れている。朦朧とした精神状態だったけれど、山村は必死でスマホを操作した。自分で救急車を手配して、そしてそのまま意識を失った。


いつの間にか山村は救急車に乗せられていた。下腹部が痛くて堪らない。それでも救急車が来てくれた事に、心から感謝した。深夜ではあったが、無事に病院が見つかり十二指腸せん孔と診断された。その間も山村は激痛に耐えていたけれど、真夜中にもかかわらず駆けつけてくれた救急車と、受け入れてくれた病院に心から感謝した。


搬送された病院で外科医から、改めて外科医から十二指腸指腸せん孔(十二指腸に穴が開いてた状態)と告げられた山村は、鎖骨に中心静脈栄養の管を挿入して、手術ではなく、傷口を安全に保存したまま自然治癒にされることになった。


医師から、暫くは口から食べ物を入れないで腸の中を空に保ち、自然に傷口が治癒するのを待つしかないと告げられた。

鎖骨の上あら太い点滴を差し込まれた山村の、入院生活が始まった。


















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