第4話
2
柳村玲架は大学を卒業後すぐ同じ大学のサークル仲間である夫と結婚した。その時結婚生活は5年目になっていた。玲架は大阪の繊維問屋の娘として生まれ、そのまま関西の大学に入り、家業の繊維問屋は継がず畑違いの広告業界に就職した。会社での成績は飛び抜けて優秀で、5年目には大きなプロジェクトのリーダーも任されるようになっていた。玲架は子宝にも恵まれ、結婚3年目には双子の男の子を産んだ。夫はフリーのライターで仕事は自宅でしていたから、家事も子育ても夫と分担して行った。優しくて気が利くイケメンの夫だった。ただ一つ、子供が生まれてから夜の営みが一切なくなっていたけれど、それでも玲架は仕事には家庭にも満足していた。幸せという言葉は自分達の為にあると信じて疑わなかった。
会社での玲架は、ミスを許さず押しが強い完璧なリーダーだった。
「白井の原稿誤字多すぎ、あとお前の日本語なんか不自然だ、ちゃんと読み返したか」
「誤字ですか?おかしいな3回は読み直してチェックしましたけど」
「何回読み直したとしても、ミスがなおってなければ意味が無いんだよ、はい、やり直し」
「もうやり直し5回目っすよ、心折れますよ」
「最初からちゃんとやれば、やり直しなんてないのよ。自業自得」
玲架はそう言うと、白井の原稿を突き返した。両目に涙を溜めた白井は、肩を落として小走りでオフィスの外に向かった。
他の社員はその間ずっと下を向いて見て見ぬふりをしていた。
玲架は、そんな白井を無視して、再び自分の仕事を始めた。白井には悪い事したと思っている。しかし上司が圧を掛けないと部下は伸びないものだ。玲架自身も、無能だと上司にコケ下ろされ続けて、何くそ精神で此処まで這い上がって来たのだ。これは愛の鞭なんだ、玲架は自分で自分に言い聞かせた。
スマホが振動している。見ると夫からだった。3月2日は、玲架にとって29回目の誕生部だった。双子の息子は夫の実家に預けて、久しぶりに夫と二人でレストランに行く予定だった。二人で食事なんて息子が生まれから初めてかもしれない。しかし夫は意外な事を言った。
「さっきクライアントから呼び出しがあって、今から仕事になっちまった。多分遅くなるよ、ママの誕生日のお祝いは、別の日にしてくれない?」
夫はなんだか歯切れが良くない。玲架は不穏な空気を感じ取っていた。
「いいわよ、そもそも誕生日なんてただの形式じゃない?いつもパパに感謝しているよ」
子供が産まれてから玲架は夫の事をパパと呼ぶようになっていた。夫も玲架の事をママと呼んだ。しかし彼のおかげで家は整理整頓され家庭はいつも笑顔で溢れている。しかしそれは上部だけのこと。
「すまない、ママ申し訳ない」
「そんなのいいよ、いってらっしゃい、私はお惣菜でも買って家で食べるから」
「この埋め合わせは必ずするから」
「埋め合わせなんていいよ、しっかり仕事がんばってね」
玲架は心にも無い事を、立板に水が流れるごとく話した。けれど夫の方も同じだろう。夫は5歳も年下の女子大学生と2年も付き合っていて、理由を付けては定期的に会っている。“また、あの子と会うのね”喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。さすがにそこまで追求してはいけない。私は家庭を大切にする女なのだ。玲架は思い直す。双子の息子の為、家庭の為に、夫の不貞を知らないふりをしている。私は全てを知って夫を手の中で泳がしていのだ。いつでも握り潰すことはできる。
その思いだけが、玲架にとって心のバランスを保つ唯一の方法だった。確かに夫のストレスの吐口として部下を強く叱っている事もあった。
夫も息子もがいない家に急いで帰る理由は何もない。
「心斎橋から梅田まで5キロくらいだもの。たまには歩いてみようか」
続く
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